山村智美の「ぼくらとゲームの」
連載第135回
「RDR2」が遊べば遊ぶほどに身体に馴染んでいく“革製品”みたいなゲームに思えている話
2018年10月31日 12:00
この連載は、ゲーム好きのライター山村智美が、ゲームタイトル、話題、イベント、そのほかゲームにまつわるあれやこれやを“ゆるく”伝えるコラムです。毎週、水曜日に掲載予定。ちなみに連載タイトルは、本当は「ぼくらとゲームの間にある期待の気持ち」。新しい体験の、その発売を、いつでも楽しみにしている期待の気持ち。そのままだと連載タイトルとしては長すぎたので……「ぼくらとゲームの」。
全国1億2000万人のカウボーイのみなさん、こんにちは!!
馬車、襲ってますか?
今年最大級のタイトルのひとつ、西部劇オープンワールド「レッド・デッド・リデンプション2」が発売されましたね。
僕も“なんだかんだで”今ではすっかり無法者のカウボーイです。
上の“なんだかんだで”というのは何かというと、プレイし始めのファーストタッチの感触にちょっと気になるところがあって、そのことなんです。
下のツイートは、「RDR2」発売日の10月26日になってまだ間もない深夜2時58分のもの。ダウンロード版を購入していた僕が冒頭をプレイしてつぶやいた感想です。
RDR2を1時間ほどプレイ。すごい。すごいとしか言いようがないぐらいすごい。操作感の重さが最初は気になったけど、だんだんと慣れてきました。最初はオブジェクトの位置もわかりづらかったけど、そっちも慣れてきたかも。#RDR2pic.twitter.com/Oq5FdJBG3l
— 山村智美 (@PommTomo)2018年10月25日
前向きに書いてますけど、操作レスポンスの重さや、グラフィックスがんばりすぎでオブジェクトの位置がわかりづらかったりするなーなんていうことを書いてますね。
ちなみに直後につぶやいたもう1つのツイートでは、「操作の複雑さというか、直感的とはいいがたいところも気になる」なんて書いてたりします。
そんなわけで、「すごい」っていうことにひたすら圧倒されつつも、主に操作レスポンス周りがちょっと気になったんですよね。
ですが、そこから2~3日経った今では、もう慣れましたねー。
だいたい、2~3時間ぐらいプレイしていったあたりから気にならなくなってきて。「そういえば、ロックスターのゲームの手触り感ってこういう方向だよねー」ということも思いつつ。
それに、慣れたというだけでなく、ゲームデザインへの理解が進んでいったところもあります。
例えば、単純にレスポンスや移動スピードを速くするだけでは、調べたり物を拾ったりする、いわゆるインタラクトがしづらくなりそうなんですよね。
あんまりレスポンスをクイックにすると、インタラクト判定の範囲をすぐに通り過ぎてしまって「調べたいのに調べられない!」っていう感じに、うろうろイライラしたり。特にイベント的な流れでスピーディーにインタラクトしたりさせる場面は、だいぶやりづらくなりそうで、それに合わせた調整が必須になるだろうなとも感じます。
ようするに当然と言えば当然なんですけど、ゲーム全体の設計が、このゆったり目のレスポンスやリズムを基準にしているのを感じるな、というわけなんです。
そんなわけで、最初はちょっと引っかかりもあったものの、それにも慣れて理解が進んでくると、
だんだんと僕の中に、
「この世界のリズムに感覚が馴染んできたなぁ……」
という、ちょっと不思議な感覚も生まれてきました。
西部開拓時代は、現代社会のようなせかせかとせせこましい感じが薄く、粗暴さとけだるさが入り混じりつつ、どこかおおらかだったり、ゆったりとした時間の流れる時代。「RDR2」も、その独特な空気がしっかりと流れているのを感じます。
そして、だんだん、その独特さが馴染んでくるんですよね。
西部開拓時代ならではの独特な空気やゆるやかさがあって、それこそ自分のキャラクターの操作レスポンスも含めて、プレイしているうちにしっくりくるようになってきたんですよ。
プレイすればするほどに、
「RDR2」が持つ大きさやその根底に流れているものに、自分が馴染んでいって、気がつくとそれが自然なことのようになっていく。
その感覚に入ってくると、自分はアーサーという主人公を通して、この西部開拓時代の中に“いる”ような、そんな感覚が芽生えていったんです。
つまり、没頭しているんですね。
夢中というやつです。
遊べば遊ぶほどに「RDR2」の独特さが馴染んでいって、馴染みきってからは、ひたすら時間を忘れてこの世界に没頭できるようになっていた。
それはまるで、着ることで身体に馴染んでいく“革製品”のよう。
その馴染んだ革製品のようなプレイ感覚は、西部劇から時代が変わっていこうとしているという作品中の時代背景もあいまって、どこかやるせなく、哀愁が漂っているけど、自由で、広大で、楽しいものです。
巨大ですごく美味しい肉の塊が出てきて、それを少しずつ切っては焼いて食べているんですけど、最初は上手く切れなくてもどかしかったんです。
「もうちょっと、これどうにかならないのかなぁ」
なんて思ったりもしたんですけど。
でも、美味しいからがんばって食べ続けるうちに、だんだんと切るのが上手になってきて、何も考えずに切って焼いて食べてを繰り返せるぐらいに慣れていって。
そこからは、もうひたすらにずっと美味しい。
そして、その巨大な肉が全然なくならないし腐りもしないから、毎日時間の限り食べて、別の日にまた続きを食べ始める。
そんな日々になっています。
馴染んで没頭するようになってから感じる「RDR2」という肉の味わいは、深みと渋さを堪能できる、飽きのこない美味さ。
哀愁というスパイスが隠し味の熟成肉ですね。
時代が終わろうとしている頃の西部という世界観だけでも十分に渋いですけど、プレイリズムも描くテーマも何もかも、派手さよりも味わいに重きを置いた魅力のゲームになっていると思います。
そのテイストそのものもまた、西部劇が持つ魅力のイメージに近いと思えますし、プレイした人の感想がそこに到達することこそ、ゲームデザインの狙いなのかもしれないとすら思えてきます。
(もちろん、アップデートで操作のレスポンス等をクイックにできるオプションを追加したりする可能性だってなくはないと思いますけど、それは本来意図したデザインとは異なるものなんだろうと思えます)
膨大さや広大さはもう発売前から十分に語られていましたが、
その時代の感覚や空気をまとったリズムまでも感じられる「RDR2」は、従来のゲームという枠組みからはもう飛び出していて、その世界を体験できる装置かのように思えるところすらありますね。この方向性の進化の先には、完全にその世界に入り込んでその時代を生きていく体験ができるという未来があるのかもしれないですね。
そんなわけで僕は今日も、というかこれを書いている今も、早く「RDR2」という時代に、美味しい肉を食べる時間に戻りたいなーって思ってます。
本当に満足しきって食べ終えるまでには、いったいどれぐらいかかるのか。
馴染めば馴染むほどに、「RDR2」は恐ろしいゲームだなって感じるばかりです。
ではでは、今回はこのへんで。また来週。