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会場:東京大学
メディア側としても正直カバーしきれなかったというのが実状で、「数日ずつずらしてくれたらな」という“たられば”のひとつも言いたいのが本音である。本講では、わずかばかりの取材の成果として、9月28日に行なわれたDiGRA最後の基調講演「日本のゲーム産業史」の模様をお伝えしていきたい。 講師は、「ファミリーコンピュータ」の開発責任者を務め“ファミコンの父”として知られる任天堂アドバイザー兼立命館大学大学院先端総合学術研究科教授の上村雅之氏と、こちらも「パックマン」の生みの親として30年に渡ってナムコのゲーム開発を支えてきた東京工芸大学芸術学部教授の岩谷徹氏、そして司会進行役として、DiGRA組織委員会委員長を務める東京大学大学院情報学環教授 馬場章氏という豪華メンバーで進められた。
■ '30年代米国のピンボールブームからひもとく岩谷氏「日本独自のゲーム設計思想」
岩谷氏は、アーケードゲームの話の起点として、北米における'30年代のピンボールブームまで遡り、すでに北米ではこの時点から、大人でも楽しめる高度な娯楽が提供されていたのに対し、当時、日本はまだ自動式木馬という子供向けの娯楽しかなかったと説明。 それから時代は「エレメカ」、「ビデオゲーム」に移り、デパートの屋上やボウリング場の待合いコーナーといった施設付帯型の施設から、独立した施設「ゲームセンター」へと進化を遂げ、時間つぶし目的の利用から、ゲームそのものが目的になっていく。 自動式木馬からスタートした日本のアーケード産業で、「なぜゲームが脇役から主役に成り得たのか?」。この疑問を岩谷氏は、ビデオゲームが「至れり尽くせりの時間軸に基づいたゲーム設計が行なわれていたから」だという。 エレメカは、時間つぶしとして設計されていたため、一定時間で終了するタイムアウト制を採用し、制限時間内にいかに高得点を得るかが最大のゲーム性になっていた。しかし、ゲーム展開は常に均一であり、飽きられるのも早かった。 これに対してビデオゲームは、当時の価格で倍の1プレイ100円としながらも、ゲームにストーリー性を盛り込み、プレイの技量によって長時間楽しめるものへと変貌を遂げた。プレーヤーは、先に進めるために腕を磨き、コインを投入するという、自然な流れを生み出すことに成功したわけだ。 そこで重要になるのがゲーム性だが、ここで岩谷氏は、自身の代表作である「パックマン」を、「何を足しても、何を引いてもダメ」と自画自賛しながら、同作のゲーム性の素晴らしさについて説明していった。よく知られているように、「パックマン」の革新性は、4匹のゴーストのアルゴリズムがすべて異なり、あたかも波状攻撃を仕掛けるように設計されていること。逆転のパワークッキー、ワープエリアの引き離しゾーンなど、飽きさせない工夫が随所に盛り込まれていることだ。岩谷氏は「この“ジャパンチューニング”が世界に支持された最大の理由」と説明した。 次に岩谷氏は、当時、日本と米国ではゲームセンターの料金がまったく異なっていたことを取り上げた。日本は100円だが、米国は25セント(約30円)。米国は日本に比べて価格が1/3以下であるため、回転率を上げないと十分な収益が出せない構造になっている。当時、北米のゲームセンターの基本思想は「1プレイ2分以下」という実質時間制を敷いており、ビデオゲームでありながら、実はエレメカと似たビジネスモデルを引きずったままだった。そこで岩谷氏は、米国版では難易度を上げた設計をしなおしたという。 最後に岩谷氏は、秀れたゲームデザインの手法として、魅力あるハイリスクを設定することの重要さを強調。「ギャラクシアン」の三機編隊の得点ボーナスを例に、高得点や一網打尽の気持ちよさ、うまいところを見せたいという上級者の心理をうまくくすぐることが重要だとした。隠された目的として、上級者が技におぼれるというジレンマを利用して、長時間プレイの阻止するという狙いもあるようだ。
さらに岩谷氏は、「ファイナルラップ」の後続車の性能アップルールを例に、対戦ゲームではモチベーションを維持させるためにゲームバランスが重要だと紹介。岩谷氏はこうした設計思想は、「現在も脈々と家庭用ゲームに受け継がれてる」とコメントして講演を締めくくった。
■ 上村雅之氏「日本のゲーム産業史 ハードウェアとソフトウェアの出会い」
上村氏は、「日本は“渡来品”として、昔から無数の玩具を海外から取り入れてきた経緯があり、その一番最後の玩具がビデオゲーム」という独自の解釈を示した。 日本で'75年に最初の家庭用ビデオゲーム「テレビテニス」が発売された頃、北米では「Home Pong」がATARIより発売され、家庭用ビデオゲームが大ブームとなる。ただし、これらは遊びのバリエーションが少なく、開発費も掛かり、なんといってもハードウェア業界の協力が得られなかったことから次第に廃れ、その後、日本では'79年に「LSI-GAME」と呼ばれる新しい玩具が登場する。 よく知られているように、この当時、任天堂も「GAME&WATCH」という名前で「LSI-GAME」を発売する。のちに大ブームとなるが、上村氏によれば「遊びと時計、何故時計なのか。要するにゲームだけでは弱いので、ゲームを遊ばない時にも時計として使ってもらおうという弱気から付けた名前」と当時を振り返り、笑いを誘った。 これに前後して、アーケード産業では、インベーダーブーム、ナムコ「パックマン」の登場と、大きな興隆期を迎える。上村氏は、「パックマン」が子供や女性もプレイしているのを見てショックを受けたというが、その当時の任天堂の取り組みとしてアーケード版「ドンキーコング」が紹介された。上村氏は、「キングゴングののろまな奴ということで、これは当時訴訟問題になっちゃったんですけど(笑)」とふたたび笑いをさらった後、「この場に宮本君(「ドンキーコング」のクリエイター、現代表取締役専務兼情報開発本部長)がいたら詳しく話してくれたと思いますが、この開発経験がのちに大きく役に立った」という。 その後、'82年の日本のLSI-GAMEブーム、米国のATARI2600ブームとなったが、その翌年には失望が表面化し、いわゆる「アタリショック」が起こる。上村氏は「ゲーム産業界にとってはまさに悪夢の年」と説明したが、実は自身は、まったく別のプロジェクトを手がけていた。「ファミリーコンピュータ」である。 任天堂内部では“ポストGAME&WATCH”として売り出されたファミコンは、ゲームソフトはすべてアーケードからの移植版となる3本という心細いスタートとなったが、空前の大ヒットとなる。'85年には同社の代表作である「スーパーマリオブラザーズ」が登場。上村氏によれば、「火に油を注ぐように売れてしまった」ということだ。 上村氏はファミコンが成功した要因として、アーケードから原寸大の移植を可能としたグラフィックス性能の高さ、十字コントローラという画期的なインターフェイスの採用、人気タイトルである「ドンキーコング」の移植、サードパーティーの参入の4点を挙げた。 グラフィックス性能の高さ、画期的なインターフェイス、キラータイトル、サードパーティーの参入と、こう並べてみると、今も昔もプラットフォーム戦争に勝つための条件は変わらないのだなという気がする。 ファミコンは、2003年に生産が終了し、累計販売台数は日本国内だけで1,900万台、ソフトの累計販売本数は1億4,000本と、現在の任天堂の礎を築く画期的な商品となった。上村氏は「ファミコンはビデオゲームのノウハウだけでなく、玩具のノウハウと合わせて作り出した新しい遊びであり、それが今に続く日本のゲーム産業の基礎作りの役割を担った」とまとめ、盛大な拍手を満足そうに受けとめた。
■ 上村氏「ファミコンがなんで売れたかを学ぶために教鞭を執った」
岩谷氏は、「技術立国として、当時、技術開発するための背景が整っていた」として、ディスプレイ、AI、バーチャルリアリティといった技術と、アニメ、漫画、小説、映画といった芸術が融合してゲームが誕生した。日本はその両方を得意としていたことが優位性を持たせたと客観的に分析した。岩谷氏は、「パックマン」のパワークッキーの要素は、「ポパイ」がモチーフになっており、ゴーストは「キャスパー」の影響を受けていると告白。いろんな刺激を受けた上で初めて「パックマン」が存在し得たという見解を披露した。 上村氏は、元シャープの技術者というスタンスから当時を振り返り、「使えるものはなんでも使おうとしたのがよかったかな」とコメント。当時は家電メーカーが数が出るものを探していたということで、それをシャープが知ってしまったために、任天堂に籍を置くことになったと自身の職場変転のエピソードを明かしてくれた。 また、上村氏は“パックマンショック”と表して「パックマン」との出会いについても言及。始めて見たとき「こんなもので遊べるのか」と率直に思ったといい、実際に遊んでみて、「子供の頃、口頭で約束事をして行なう遊びの楽しさをうまく封じ込めたようなゲーム」と絶賛した。 さらに上村氏は、自身が教鞭を執ろうと思った最大の理由は「なんでファミコンなんて売れたんやろうか?」ということを学術的に研究しようと思ったことがきっかけだという。 「会社でそんなこというたら怒られますが(笑)」と慌てて弁解しながらも、「こんなに長期間売れ続けることは不思議で不思議でならない」という、当事者ゆえの本音が披露された。 上村氏は、自身で本などを読んで調査しながら得たひとつの仮説としては、「鬼ごっこで決められるルールはその場限りで消えてしまうものですが、実は世界中の子供達が持っていて、それをビデオゲームに感じてくれたのではないか。当時の『ドンキーコング』、最近では『ポケモン』などを見ていると、遊びには国境がないということがわかる」と教授らしいコメントを行なった。
最後に上村氏は、「自分がこんなところ(東京大学の安田講堂)で喋ることになったのが一番驚き」と心情を吐露。それを聞いた私も、安田講堂でゲーム関連の取材をすることになるとは想像できなかったものである。多様化の一途をたどるゲーム産業がどのような形で発展を遂げていくのか、今後もじっくり見守っていきたい。
□DiGRA Japanの公式ページ (2007年9月29日) [Reported by 中村聖司]
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