【Watch記事検索】
最新ニュース
【11月30日】
【11月29日】
【11月28日】
【11月27日】
【11月26日】

DIEC2005 第1部「ゲームデザイン・テクノロジーの源流」
夢を実現する新しい技術とエンタテイメントの邂逅に立ち会った人々

12月2日開催

会場:立命館大学衣笠キャンパス



 立命館大学で開催された、国際シンポジウム「インタラクティブ・エンタテインメントの歴史と展望」の第一部は、「ゲームデザイン・テクノロジーの源流」というテーマでのシンポジウムが行なわれた。本稿ではゲームの歴史に欠かすことのできない、ゲームの文化を見守り続けた識者達の言葉をお伝えしていきたい。


■ ゲームビジネスの基礎を作ったブッシュネル氏が模索する、ゲームとコミュニケーション

 ノラン・ブッシュネル氏は現在のアーケードゲームと、家庭用ゲーム機両方の礎を築いた人物である。彼は、初めて一般に知れ渡ったビデオゲーム「Pong」を開発し、ATARIの創業者であり元会長を務めた経歴の持ち主である。彼はまず、'61年の「Space war」からゲームの歴史は始まったと語る。このころのコンピュータはパンチカードでプログラムするもので、このゲームは大学の研究所で趣味として制作されたものであった。'72年にMagnavoxという会社が、Odysseyという初の家庭用ゲーム機を発売する。しかし氏によればこれは面白くないゲームであったという。この年にブッシュネル氏は2つのパドルによってボールを打ち合う「Pong」を開発し、Atari Inc.を創業する。

初めて一般に知れ渡ったビデオゲーム「Pong」の開発し、ATARIの創業者であり元会長を務めたノラン・ブッシュネル氏
 ブッシュネル氏は「Pong」を玩具関係者、次いで家電業界にアピールするが全く評価が得られなかった。「Pong」を受け入れたのは、ピンボールゲームや、ビリヤードといったスポーツグッズをバーやレストランに設置する会社であった。「Pong」はバーやレストランに置かれ、200万ドル以上のヒットを記録した。そして、初めて一般の人々に知れ渡ったゲームとして歴史にその名を刻むのである。

 ブッシュネル氏はさらにこの「Pong」を家庭用ゲーム機「Home Pong」を制作し、こちらでも成功を収める。そして'77年、“First ATARI”と呼ばれるカートリッジ型のゲーム機 Atari 2600を発売し、空前のヒットを記録する。ブッシュネル氏はこのハードに対して、「最初はこのハードで20のゲームができればと思っていたが、150以上のゲームが作れるようになった。チェスといった、ハードの性能を考えれば実現できそうにない複雑なゲームもきちんと実現させた」と語る。

 氏はこのハードに対してユーザーは4本くらいのゲームを買うと予測していたのだが、実際にはすべてのユーザーがすべてのソフトを欲しがった。ハードは多く売れたのだがソフトの供給が大きく不足してしまい、ユーザーを3カ月以上もまたしてしまうことになったという。

 この後Atari 2600のソフトは、多くの制作者が参加し、多数のゲームが発売される。しかし、「出せば売れる」という市場が形成された結果、質の低いゲームが乱発され、ユーザーの信用を完全に失ってしまう。いわゆる「アタリショック」を迎えるが、氏は年表に簡潔に'83年にバブルがはじけた、とスライドに書くにとどめた。ATARIのこの失敗が、任天堂をはじめとしたそれからのコンシューマハードメーカーによるソフトへの管理体制が必要であるという教訓を残したのだ。

 氏は続いて現状のゲームが抱える問題点を指摘し、そしてゲームの未来の展望を語った。ゲームのハードは飛躍的に性能が上がり、様々なことを表現することが可能となったが、一本のソフトに対するコストがかかりすぎ、リスクが高くなりすぎてしまっている。結果として続編やシューティングゲームばかりが作られているのが現状であるが、この流れは長く続かない、ユーザーはゲームに革新性を常に求めていると氏は分析している。

 さらに現在のゲームが極めてコアな層に向けての作品になっており、市場が縮小している点を指摘し、女性や、高齢者に向けたゲームの必要性を語る。氏はそのための戦略として任天堂を高く評価している。「ゲーム、そしてコンピュータに拒否感を持つ人々は結局のところキーボードが嫌いなのだ、簡単な操作で様々なことができるインターフェイスを任天堂は模索し続けている」と語った。

 こういった考えを持つブッシュネル氏はデジタルエンタテイメント会社「uWink」でCEOを務め、エンタテイメントレストラン「Chuck E.Cheese's Pizza Time Theatre」を設立している。そんな氏がこの講演で、「これからのゲームの未来像」として提案するのは、ゲーム空間であった。

 氏はイラストでレストランやバーにモニターが置かれている空間を示し、飲食店にプレイできるゲームと空間を提供することで、新しいつながりが生まれる可能性を語った。「レストランでいきなり、一緒に一杯やらない? とかわいい女の子に言っても肘鉄を食らわされるだけだが、一緒にゲームをやらない? というのならOKかもしれない。新しいボーイ ミーツ ガールのきっかけにもなるだろう。また、店のゲーム機で中国や日本、ヨーロッパといったユーザーとも対戦できるようになるだろう。時差があるので、対戦をするためには朝からビールを飲みに来なくてはいけなくなるかもしれないが、それはそれで歓迎だ」とジョークを交えて語った。

 筆者にはこのアイデアは、「Pong」をバーにおいて成功をしたブッシュネル氏らしいアプローチだと感じた。日本ではアーケードゲームはミニ遊園地とも言えるアミューズメントパークを生み出し、その流れは現在韓国や中国へと広がろうとしている。セガは回転寿司のメニューなどにゲーム技術を利用した注文システムを作り、ブッシュネル氏のイラストのような空間を作っているが、その目指すものはまったく違う。そこにあるのはあくまでメニューであり、ユーザーはゲームに夢中になることはない。そこには、「ものを食べるときに他のことをするんじゃありません」と言う日本の家庭の思想と教育があると筆者は思う。

 ブッシュネル氏が提案する、食とゲームの融合空間は、アメリカで今後どういった展開を見せるだろうか。アメリカで受けたものは、試験的であろうと、日本にももたらされてくるだろう。そうなった時、日本の人々がどんな反応を示すか、興味があるところである。


■ ゲームの役割、エンタテイメントは先端技術の普及のために必要不可欠な存在

 現在、NHK衛星放送局のチーフプロデューサーを務める大墻敦氏は、まず最初に20~30年前に映画館で体験した、1つのエピソードを語った。高倉健のやくざ映画を見ていた時、主人公のうしろから不意打ちをしようとする男が登場する。すると映画の観客の1人が突然立ち上がって、「健さん、あぶねえ!」と画面に向かって叫んだ。画面の高倉健はまるでその声に反応したかのように後ろを振り返り、攻撃を避け、男を倒した。その瞬間、劇場から立ち上がった観客に向けて大きな拍手がわき起こった。大墻氏が、映像と、インタラクティブの可能性を考えるようになったきっかけとなるエピソードだという。

NHK衛生放送局のチーフプロデューサー大墻敦氏
 続いて大墻氏は手がけた番組から世界最初のテレビゲーム「Space war」の誕生の1シーンを紹介。この時制作されたパンチカードのプログラムはアメリカのコンピューターを持つ大学にあっという間に広まったという。大墻氏はこのゲームを制作したスティーブ・ラッセル氏が、すでにゲームの方向性を提示していると語る。「Space war」は様々な研究者達が独自の改良を加えていったが、その中の1人が、「宇宙なんだから、太陽を登場させ、その星が生む重力をもっとゲームに取り入れ、もっと複雑にしてみよう」と提案した。

 ゲームは複雑になったが、ラッセル氏は「ゲームとしての面白みは増えていないよ」と指摘したという。「ゲームを面白くするためには技術に引っ張られるだけではなく、コントロールするための“車掌”が必要なんだ」。大墻氏はラッセル氏のこの言葉を引用し、映像世界も同じで、新技術が投入されるが、それで決して面白い人を喜ばせる番組が作れるようになるわけではない、と語った。

 氏はさらにマイクロソフトを作ったビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏が作ったベーシックプログラムのデモンストーレーションにもゲームが使われていた事を挙げる。ゲームの存在こそが、コンピュータという新しい技術への興味を人々にもたらした。ハイビジョンの普及も、オリンピックというソフトがなくてはなしえなかった。先端技術を普遍的なものにするためには、エンタテイメントの高い素材こそが必要だ。エンタテイメントソフトは、社会に影響をおよぼし、技術の普及をもたらすと大墻氏は主張する。

 氏は自らの作品を振り返り、番組が面白かったのは取材した人々が面白かったからだったと分析する。開発者達のベースにあるのは、「好奇心」だった。その好奇心が先端技術に向かって、ものすごい熱意を持って取り組ませる姿勢を生む。任天堂やセガやナムコなど氏が取材した様々なメーカーのクリエイター達すべてが、手にした技術でどれだけ人々を楽しませようとし、かつ自身も楽しんでいる。そしてそのことを人生の中心に置いて、「使命」としてとらえている、という。

 今後、地上波もデジタル化されていくことで、よりインタラクティブな世界が広がっていく、その時代の中で熱意を持った人々が、新しい世界を生み出して、時代を引っ張っていくと思う、と大墻氏は語った。


■ ゲーム作りに必要なのは「人間の心の研究」、消えた技術とゲームの進化を振り返る

 ナムコのインキュベーションセンターコンダクター としてクリエイターの育成新事業を開発・育成を行なっている岩谷徹氏は、講演の最初に手がけた「パックマン」の開発秘話を披露した。'80年のゲームセンターは殺伐としたゲームばかりで、女性が興味を持つ作品がなかった。岩谷氏は女性が好きな「食べる」をキーワードに、かわいいキャラクタが活躍するゲームを作った。それが、4匹のオバケに追いかけられながら迷路を進み、クッキーを食べていく「パックマン」である。

「パックマン」を開発し、「ゼビウス」、「パックランド」、「リッジレーサー」など50種以上のナムコのゲームをプロデュースした岩谷徹氏
 ご存じのように「パックマン」は日本以上に、アメリカ、ヨーロッパで大ヒットを記録し、アメリカではアニメ番組も制作された。ギネスブックも向こうからナムコに記載許可を求める連絡があり、現在、「世界でもっともヒットしたゲーム」として記録されているという。

 岩谷氏は「パックマン」の大ヒットには、なによりもオバケのアルゴリズムが優秀だったおかげ、と語る。オバケがすべて同じアルゴリズムではつまらない。岩谷氏は制作時に「いつのまにかパックマンがモンスターに取り囲まれるようにしたい」と注文をした。プログラマは岩谷氏の予想を超えたテクニックを見せてくれた。赤いオバケはパックマンの座標を追い、オレンジはパックマンの前方を、青はパックマンの点対称となる地点を、そしてオレンジはランダムに、それぞれのオバケの性格付けを行ない、取り囲まれる状況を再現したのだ。このオバケとの駆け引きが、名作となった何よりの大きな理由だという。

 岩谷氏はさらに頭の良いチンパンジーを題材にした番組から、そのチンパンジーが「パックマン」をプレイしている映像を紹介し、絶妙のタイミングで、「猿でもできるゲームはヒットする、ということです」とコメントし、会場を爆笑させた。

 次に岩谷氏が見せたのは、レースゲームの変遷である。見下ろし型のゲームから始まり、画面奧にコースが存在する疑似3D型のコースを取り入れた、ATARIの「Night Driver」を紹介した。岩谷氏はこのゲームがレースゲームを一変させた、という。岩谷氏は、このゲームなくしては、「ファイナルラップ」、そして「リッジレーサー」といった現在まで続くレースゲームの流れは違ったものになっていたのかもしれないと語った。

 岩谷氏は、面白い映像として、エレメカのドライブゲームを紹介した。エレメカとは、ディスプレイを使わないゲームの総称で、ナムコの「ワニワニパニック」など様々なものがあるが、映像に出たものは、ゲーム機の中に実際の車の模型が置かれ、幻灯機の仕掛けで、車やコースが浮かび上がる。プレーヤーがアクセルを踏むと、フィルムが回転しコースを走っているように感じられ、カムシャフトで動くアームを取り付けられた競争車が画面に登場する。幻灯機で照らし出される対抗車は模型だけに存在感がリアルで、突然現われる車を相手にするという単純なゲーム性も今の視点で見ると斬新だ。

 このゲームはビデオゲームの表現力が上がって行くにつれなくなってしまった技術の交差する時期に生まれた作品だ。現在大学生である受講者達は、生まれる前に存在していたゲームだけに、その衝撃も大きかったようで、画面を見ながら言葉を交わす人が多かった。

 氏はこういった過去の技術を紹介した上で、ゲームというものは、工学、数学、文学、音楽、心理学、といった様々な分野が必要となり、そして何よりも、「勇気を持って事にあたる、想いを通す勇気と使命感、エネルギーが成功をもたらす」と語った。そして、ゲームを作るために必要な姿勢は、「人間の心の研究である」と提示をした。

 この他に氏は、来るべきゲームハードに関して言及をした。氏はゲーム機はリビングにあるテレビから離れていくのではないか、と予想している。ゲーム機はPCのマザーボードの中に、統合型の1チップの形で納められ、ダウンロードの形式でソフトは供給されていく。PS3の設計思想を、さらにPCの中に直接組み込むといった形の予想である。

 「家族の中心にある玩具」という任天堂が持ちつづけるハードへの理想とは違う、ゲーム機を個人の機械としてとらえている岩谷氏の視点は、クリエイターであり、ゲームの発展を見守ってきた方だからこそ一層興味深い。筆者はゲームハードのとらえ方として、岩谷氏の考えに共感する部分も大きい。

 現在、特にオンラインゲームをプレイしているプレーヤー層はすでに岩谷氏の話すプレイスタイルに近い形でゲームをしている。違うのは、プレーヤーが使っているのは、ゲーム機ではなく、完全なPCであるという点である。韓国ではコントローラが必要なゲームもすべてキーボードでプレイしていて、現在、台湾や韓国などコンシューマゲームよりもPCゲームが一般的な社会では、「コンシューマのハードでゲームをする意味」が問われている。

 ゲーム機の未来の姿は、過去、現在、そして未来も問われ続けていくと思う。様々なアプローチから、大きなの流れが生まれ、そして姿を変えてきたゲームの歴史を語る岩谷氏の講演は、ソフトだけにとどまらず、ゲーム機の今後も考えさせられるものだった。


■ ゲーム機は夢の玩具であり続けて欲しい、上村氏が未来に託す任天堂の遺伝子

 現在は任天堂のアドバイザーであり、立命館大学の先端総合学術研究科の教授である上村雅之氏はファミコン以前の任天堂の姿として、花札やトランプ、ブロックといった玩具、さらに光線銃といった電子玩具などを紹介した後、アーケードの展開として、自身が手がけた過去のゲームを紹介した。16ミリの実写映像を使い、スクリーンに映し出された実写の映像のガンマンと対決する故・横井軍平氏が開発したという「ワイルドガンマン」、アニメーションによる演出が入る競馬ゲーム「EVR」。これらのアーケードゲームは日本よりもヨーロッパやアメリカで受け入れられたという。

ファミコンやスーパーファミコンなどの開発を主導した上村雅之氏。現在は、任天堂のアドバイザーであり、立命館大学の先端総合学術研究科の教授である
 '76年に日本にも最初の家庭用ゲームブームが訪れる。この新しい機械を日本の各メーカーは様々な視点で捉えた。東芝や松下電器、シャープは「テレビの周辺機器」ととらえ、エポック社や、バンダイ、トミーは「おもちゃ」とした、そして三菱や沖電気は「ポスト電卓」としてゲーム機を見て、それぞれの視点でアプローチを開始したのである。特に半導体を手がけていたメーカーは、競って「Home Pong」に類似したゲームを動かすLSI開発に着手した。

 三菱電機の半導体事業部は米国システックの要請を受け、ゲーム用のLSIを開発、しかし発売を待たずしてシステックは消滅してしまい、任天堂から発売されることになる。発売されたハードは「カラーテレビゲーム6」と、「カラーテレビゲーム15」である。価格は9,800円と、15,000円だった。当時のボールゲーム機は20,000円以上の価格が当たり前になっており、この値付けは破格といってもいい値段であった。このころから任天堂には、「子供に向けた価格」という思想を持っていたという。

 このゲーム機がきっかけとなって、任天堂は三菱電機の、そしてゲーム開発の技術を学んでいった。任天堂の技術者を夢中にさせたのは、このLSIという技術が、夢を実現させる可能性を持っていたからである。玩具メーカーである任天堂は、玩具に対してジレンマを抱えていた。まず、「正確で公平なルールをゲームにもたらすにはどうすればいいか」、「得点を正確にカウントし、記録するには」、「ボタンの操作だけでゲームを開始できる」「簡単にゲームをリセットし、再開させる機能」。LSIはこれをすべて解決してくれる。「これは今も変わらない任天堂社員の特徴ですが、新しい技術と遊びに出会うと、しばらくは仕事をしなくなってしまうんです」と上村氏は語った。LSIを得た任天堂の玩具は「夢の玩具」へとなったのである。

 三菱との交流も続き、三菱電機の作ったLSIを使用した「ブロック崩し」を'79年に発売する。価格は13,500円。このマシンのデザインをしたのが、若き日の宮本茂氏である。様々なルールによるブロック崩しが楽しめるゲーム機であったが、ちょうどインベーダーブームと重なってしまい、売り上げは少しふるわなかったという。

 子供達は面白いことに敏感に反応するし、厳しい視点を持っているが、経済的に自立していない。子供に向けた価格の設定の重要さを強調する。最先端の技術を使い、未体験の遊びを子供達に提示する。そしてあくまでおもちゃであることにこだわる。こういったコンセプトと思想を上村氏は「任天堂の遺伝子」と定義する。そしてその遺伝子は、現在の任天堂のハード、ソフトにまで受け継がれている。

 任天堂のゲームは、この後会社自身の予想も超える大きな評価を受けていく。それは、ゲーム制作者達の地道な努力、半導体を中心とした技術進歩、そして何よりも、全世界の子供達が評価してくれたからこそであった、と上村氏は語る。

 上村氏は現在のゲームを取り巻く状況を見て、「ゲーム機が夢の玩具以上の存在になってしまって、子供の夢を奪い、押しつけてしまっている存在になってしまっているのではないかとも思う。子供は、おもちゃとつきあって大人になっていく。ゲーム機は夢の玩具であり続けて欲しい」と語った。

 最後に、と上村氏は会場を見わたして、「『Space war』をはじめとした、最初のゲームは大学の研究室から生まれた。そういった自由な遊びを生み出す、余裕や雰囲気を大学は持っていて、そういった空気を生み出すことこそが大学の役割だと思う。残念ながら今までは日本では生まれてこなかったが、今はきっとあるし、また、このシンポジウムが強力な刺激となることを確信している」と締めくくった。

 今回の上村氏の講演からは、トランプやチェスといったゲームから、公正なルールをもたらすLSIを得た技術者の興奮、子供の視点をあくまで失わない姿勢、そして現状と、任天堂の持つ理念など様々なものが伝わってきて、非常に聞き応えがあった。そして最後の言葉で、改めて、教授を務め、学生達を指導している上村氏ならではの覚悟と理想の大きさを感じた。

□立命館大学のホームページ
http://www.ritsumei.ac.jp/
□「Digital Interactive Entertainment Conference 2005」のページ
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/DIEC2005/
□関連情報
【10月12日】立命館大学、国際シンポジウム「インタラクティブ・エンタテインメントの歴史と展望」を12月2日に開催 任天堂宮本氏、コナミ小島氏、ナムコ岩谷氏などが出席
http://game.watch.impress.co.jp/docs/20051012/ritsumei.htm

(2005年12月3日)

[Reported by 勝田哲也]



Q&A、ゲームの攻略などに関する質問はお受けしておりません
また、弊誌に掲載された写真、文章の転載、使用に関しましては一切お断わりいたします

ウォッチ編集部内GAME Watch担当game-watch@impress.co.jp

Copyright (c) 2005 Impress Watch Corporation, an Impress Group company. All rights reserved.