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会場:明治学院大学 白金キャンパス
ラウンドテーブルとは、講師が進行役としてテーマを提示した上で、参加者込みで自由な意見を交わしていく形式。セッションの後半では活発な議論が交わされ、このテーマに対するゲーム業界人の捉え方の一端を垣間見ることができた。
■ 「ゲーム脳の恐怖」とはそもそも何なのか
ラウンドテーブル会場に集まった数十名の参加者を前に、新氏はまず、森氏の提唱する「ゲーム脳」理論に対するツッコミから話を起こしていく。 ツッコミの内容はネット上で散々議論されてきた部分なので要約するが、ひとつは森氏の理論に科学的根拠が極めて乏しいこと。同一の著作の中で同じデータを元に異なる結論を出していたり、公的に認知されていない独自の器具を使って計測していたり、被験者の数が少なすぎたり、あるいはデータ集計に用いたサンプル数を明示しなかったりといった部分だ。 そして新氏は、森氏が「ゲームをまったくしらないこと」を強調する。曰く、「バイオハザードをロールプレイングゲームだと思っていた」、「ファイナルファンタジーをまったく知らなかった」、「テトリスは旧ソ連が作った殺人兵器であるという話をあちこちの講演で言っていた」など等。同理論についてはあらかじめ勉強しているはずの参加者も、これには思わず笑いを漏らす情景も見られた。 また、森氏が主張するゲームが少年による凶悪犯罪を増加させているという主張についても、キャッチーな事件を取りざたするマスメディアが普及した結果、少年犯罪が「増えているように見える」だけではないかという認識を説明。
冒頭説明の最後に、森氏が提唱する「お手玉を毎日5分間、2週間行えば改善する」という処方を紹介し「こんなことで直るものが、恐怖か?」と、参加者の爆笑を誘っていた。 ■ それでも社会に浸透する「ゲーム脳」認識
データによると、ゲームをすることで「幼児の脳の発達が遅れる」と考える人の割合が2001年から2004年の間に4倍近く(3.5%→12.1%)となっている。この上昇傾向をよく見ると、「ゲーム脳の恐怖」が出版された2002年において一気に3倍近くに膨れていることがわかる。同理論がもたらした影響が極めて大きいことが推測される内容だ。また、2004年には「脳が痴呆状態に近くなる」と考える人が10.5%にのぼるとのデータも示された。これはまさに森氏の主張する理論そのままの調査テーマだ。 筆者はこういう具体的な数字については知らなかったが、実際にデータを示されると「ゲーム脳」理論が一般社会に与えたインパクトが無視できないものであると認識せざるをえなかった。データが示すのは、ゲームをネガティブに捉える人は増加傾向にあり、その上昇曲線はまだ続いているであろうこと。今年よりも来年のほうが、ゲームを有害なものと考える人が多くなると予測できてしまうのである。しかも、「ゲーム脳」で言われる理論そのままの内容に同調している人が一割を越す事実に、恐怖を感じてしまうのである。 新氏は「ゲーム脳の恐怖」が出版された前後のいきさつを紹介。2002年7月に森氏の同理論が毎日新聞紙上で紹介され、同月にNHK出版から同著が出版された件について「森氏とメディアとの間で何らかのコラボレーションがあったんじゃないか」との憶測を交えながらも、その時点でゲーム業界がなんらのリアクションもせず、同著の影響が社会に浸透するに任せてしまった事実を失敗とする認識を示した。 加えて「Grand Theft Auto III(GTA3)」に対する神奈川県の規制や、米国で「同 San Andreas」での改造コードで可能になる性的描写が大問題になった件など、最近の社会的トピックを取り上げながら、「ゲーム業界の対応は、あまりにも後手に回っている」と説明。「暴力的表現」に対する社会の圧力を回避するため、業界団体が自主規制をより強化する方向に向かっていることを紹介した。 多種多様なゲームこそ市場を広げると信じて疑わない筆者としては、果たして規制が本当に適切な対応なのかどうか、確信をもてない。ゲームは映画などと違って、一回見ればわかるものではなく、規制を判断することが難しい、ということを参加者の1人が発言したが、これは揺るぎのない事実だろう。
レーティング機構によるゲームの格付け強制や規制があまり有効でなさそうと考える以上、もっと有効に「ゲームは害悪ばかりではない」ことを一般社会に伝える方法はないのか、ということを考えざるを得ない。この点については、セッションに参加した多くの人が同じく考えていたのではないだろうか。 ■ ゲーム業界はどのような対応をとっていくべきか?
「ゲーム脳」が米国で相手にされなかった根本的な理由は、同国では世代を問わずゲームをプレイする文化が常識であるためだ。 特に欧米ゲーム業界の主流をいくPCゲームの世界では「大人が知的な趣味として楽しむ」ストラテジーゲームや、歴史ゲームが市場のメインストリームを構成しており、ゲームが実際に役に立つことを肌身で知っている知識人が多い。欧米ではこうした社会基盤をベースにして、ゲームに対するアカデミックな研究が花開こうとしている。そこでは、ゲームを実社会に有効活用しようとする積極的な議論が盛んだ。 こうした「ゲームをプレイすること」に対する体験的な知識を持っている社会では、「ゲームはただ害悪である」といった安直な議論は通用しなくて当然だろう。ゲームに対する議論は、その遥か先に進んでいるのだ。 日本もそうあるべきなのだが、ゲームを体験的に知らない層があまりにも多い。ここが、日本という環境を考える上で考慮すべきポイントではないだろうか。 また、ドイツではむしろ「ゲームをプレイすることは社会的意義があること」という認識がなされていることも紹介され、その根源にボードゲームや、シミュレーションタイプのゲームなど知能を駆使するゲームが多く存在することがあるとの説明がなされた。このあたりは欧米に共通する特徴だろう。当然、そのドイツでも「ゲーム脳」は話題にすら上っていない。 最後に議論の中で印象に残った部分を紹介していこう。暴力に対して報酬を与えるようなゲームが、プレーヤーの暴力衝動を助長するのは事実ではないか? 平和的なゲームが必要なのではないか? といった議論があった。 筆者はこれを踏まえ、国内も含め欧米・韓国で活発なE-Sports(プロゲーマーリーグなど)で活動するFPSゲーマーたちに「ゲーム脳」なる人格破綻者はいない、という体験的な話をした。これについては参加者の多くが認識を同じくしているようで、良い感触を得ることができた。 ある参加者は、映画が大衆文化になる一助となった「アカデミー賞」のような権威付けが、ゲームにも必要ではないかと発言。新氏は「日本にもそういった組織はある」との説明をしたが、まだまだ一般社会に認識してもらうためには力不足のようだ。 ある参加者は映画を例にとり、「明るい、楽しい」ばかりではなく「暗い、苦しい」コンテンツが非常に大きな役割を果たしたとの認識を説明。大昔はただの「チャンバラ活劇」であったところに、人間の暗い部分をも描写して見るものに強いインパクトを与える作品が登場したことが、映画が「大衆に受け入れられる」原因になったとの趣旨だ。 これを踏まえて「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」のシナリオに見られるアプローチの違いに踏み込んで考える一幕もあったが、曰く、必要なのは「人間性」を表現していくこと。大人が深く感動できるものであるべき、とのこと。筆者も賛同できる点であるが、今現在存在するゲームも、シナリオ重視のゲームはこの点において不足はないのでは? という感想も持った。 また、ある大手のゲーム企業では「ゲームの効能」を言語化し、消費者に対して明らかにしていく試みを始めているのだという。これは温泉の泉質を説明する表現のようなもので、例として「メダル・オブ・オナー」ならば、効能として反射神経が向上します、戦術センスが養われます、などを示し、また、注意事項として三次元酔いするかもしれません、一時的に興奮状態になるかもしれません、心臓の弱い方はおひかえください、などの「リアルな人間への影響スペック表」みたいなものだ。消費者はその情報をもとに自分に適したゲームを選択することができる。 これは欧米で研究が進む「Serious Games」の考え方に近いもので、非常に面白いと感じた。「Serious Games」は、ゲームが人間に与えるリアルな影響を学術的に解明し、ゲームをもっと適切に有効活用していこうとする考え方で、アカデミックな研究が始まっている。単にゲームを「お遊び」と考えるのではなく、人間を育て成長させていくための一手法としてとらえるものだ。研究はまだまだ初期段階にすぎないが、日本においてもこうした議論ができる環境が整っていくことは非常に良いことだろう。
そんなわけで本セッションは議論が白熱しながらも規定時間を超過してしまいお開きとなったが、ゲームに対する一般社会の認識の問題、それにゲーム業界がどう対応していくか、というテーマにおいて非常に興味深い話を聞くことができた。これからも、こういった議論は必要だろうと、筆者は考える次第だ。 (2005年9月1日) [Reported by kaf@ukeru.jp]
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