【特別企画】

「ハイドライド」39周年。日本におけるアクションRPGの基礎を作った名作。そのシンプルな面白さは今でも健在

【ハイドライド】

1984年12月13日 発売

 当時のパソコン雑誌ランキングに2年もの間掲載され続け、それが“ハイドライドシンドローム”と呼ばれる現象として記録された大ヒットタイトル「ハイドライド」。すべての始まりとなるPC-8801版が発売されたのは、今から39年前となる1984年の12月13日だ。

 主人公キャラクターのジムを操作して、敵に体当たりでダメージを与えながら倒して経験値を稼いでレベルアップさせつつ、ゲーム中に隠されたさまざまな謎を解きながら最終ボスのバラリスを倒し、捕らわれた王女を助けるアクションRPGとなる本作。シンプルにしてとっつきやすいシステムは、後に発売される数多のRPGに多大な影響を与えたと言っても過言ではないのだ。

 そんな、来年で生誕40周年を迎える「ハイドライド」をこの機会に振り返ってみよう。

当時の広告を見ると「12月発売」や「12月中旬発売」とのみ記されていたのだが、後に徳間書店から発売された「月刊テクノポリス」1985年9月号掲載のインタビュー中に「発売されたのは12月13日」と書かれていた

日本のRPG元年となる1984年に、「ハイドライド」は生まれた

 「ハイドライド」が誕生した1984年は日本におけるRPG元年。有名なタイトルとしてはBPSから発売された「ザ・ブラックオニキス」や、クリスタルソフトの「夢幻の心臓」、日本ファルコムの「ドラゴンスレイヤー」、そして光栄(現:コーエーテクモゲームス)からは「ダンジョン」などが続々と登場した。

 とはいえ、この時点でのRPGは「システムが難解で、今ひとつよく分からないジャンル」という立ち位置。実際、筆者も1984年に「ザ・ブラックオニキス」をプレイしているものの、“主人公(パーティ)を操作して敵を倒し成長させる”という考え方に頭が追いつかず、結局アドベンチャーゲームやアクション、シューティングなどばかり遊んでいた記憶がある。この頃のRPGは最先端のジャンルで、雑誌などでも目新しいものということで取り上げていたのだ。

これは、雑誌「月刊ログイン」1984年7月号に掲載された、ソフトウェアのランキング。見るとわかるように、RPGはBPSの「ブラックオニクス(この当時は、こちらの名称だった)」と光栄の「ダンジョン」のみで、他はランクインしていない。今では当たり前のようにあるジャンルだが、実はほんの40年前に産声を上げたばかりだ

 しかし、そんな時代に彗星の如く登場したのが、小難しいと思われていたRPGにアクションの要素を追加しシステムを分かりやすくし、さらに謎解きも盛り込んだ新ジャンル“アクティブRPG”の「ハイドライド」だった。

 “アクティブRPG”という名前は“アクションRPG”とほぼ同一で、この時期に電波新聞社から発売されていた雑誌「マイコンBASICマガジン」などでよく使われていたものの、最終的には“アクションRPG”へと統一される。そのため、本記事では以降“アクションRPG”で表記していく。

 この「ハイドライド」を手がけたのは、後に“西の内藤・東の木屋”と呼ばれる天才プログラマのうちの1人、内藤時浩氏。工学社から発売されているパソコン雑誌「月刊I/O」に、初となるプログラム「Frog thr livery」が掲載後、アスキーの第2回ソフトウェアコンテストにて「ウルトラマンJr.」で入賞。そしてT&E SOFT入社後にアクション&シューティングゲームの「コスモミューター」を発売し、今回取り上げた「ハイドライド」は通算4本目の作品だった。その詳しいストーリーは、“HYDLIDEの伝説”としてマニュアルにこう記されている。

 この伝説は、今私たちが住んでいる世界とはまったく別の空間での物語です。ここは、妖精の住む王国、フェアリーランド。王様の住んでいる宮殿を中心に広がっている、緑の美しい平和な王国でした。この宮殿には三種類の不思議な宝石がまつられており、その宝石によって王国の平和は保たれていたのです。

 人間と妖精たちは、この世界でお互いに共存し助け合いながら仲良く暮らしていました。ところがある日、悪心を起こした人間によって宝石の一つが盗まれてしまったのです。数が足りなくなってしまった宝石は、その輝きが鈍くなってしまい、遂に宝石によって封印されていた、神話伝説最強といわれる悪魔バラリスが目覚めてしまったのです。バラリスの魔力によって残りの宝石もいずこかへと飛ばされてしまい、平和であったフェアリーランドも崩壊してしまいました。国王のプリンセス・アンもバラリスの魔力によって妖精にされて、いなくなってしまいました。王国を崩壊させたバラリスは、国のあちこちに怪物を放ち、人々の心を恐怖と絶望が支配したのです。この悪魔の悪行に耐えかねた一人の勇敢な若者が、王国の復興を願って立ち上がりました。彼の名はジム。ジムは人々の希望を一身に背負って、たった一人で怪物に挑戦していったのです……。

1本目は雑誌「月刊I/O」1983年5月号に掲載された、PC-8001用の投稿プログラム。カエルを操作して虫を食べるという、シンプルな内容となっている
2本目はコンテストで入賞するものの、諸事情から当時は市販ソフトとしては発売されなかった。その後、2018年にPC-8001用タイトル「NEW CITY HERO」としてリメイクされ、後に販売もされた。ちなみに、原画は漫画家のボマーン氏、楽曲は「プリンセスメーカー」シリーズで有名な梶原正裕氏、作画はしおQ氏がそれぞれ担当している
通算3本目が、内藤氏にとっての初の商業用ソフトだ。フィールドに落ちている宇宙戦闘艇のパーツを集めて正しい場所にハメこんでいくと自機が完成し、ナムコの「ギャラガ」に収録されているチャレンジングステージのようなシューティング面もプレイできた
“西の内藤・東の木屋”に登場する“東の木屋”は、日本ファルコムにて「ドラゴンスレイヤー」シリーズを産み出し大ヒットを飛ばした、天才プログラマの木屋善夫氏。この2人は“スタープログラマ”としてさまざまなパソコン雑誌に登場し、当時のユーザーから羨望のまなざしを集めていた。上の写真は徳間書店の雑誌「月刊テクノポリス」1986年2月号より、下は小学館発行の雑誌「月刊ポプコム」1986年8月号から。ちなみに“西の内藤・東の木屋”の由来は、当時のT&E SOFTが愛知県名古屋市に、日本ファルコムが東京都立川市にあったため

 累計売上10万本を突破したというパソコン版の「ハイドライド」は最初に発売されたPC-8801版だけでなく、翌年以降もX1版、FM-7版、PC-6001mkII版、PC-9801版、MSX版、MSX2版、と数多くの機種へと移植された。最後発となったPC-9801版は、PC-8801版発売から約10カ月後となる1985年10月にリリースされており、約1年近くをかけて当時発売されていたメジャーなパソコンであればほぼプレイ可能な状態にしたことが、“ハイドライドシンドローム”の一要因だったのだろう。

 なお今回の記事では、画面切り替え方式で進むPC-8801版などではなく、当時一番美しいと言われた、スムーススクロールするX1版の画面写真を用いた。使用機種はシャープのX1TurboZで、これにデータレコーダCZ-8RL1を接続しテープ版をプレイ。アナログRGBで出力される映像を、マイコンソフトが発売していたXRGB-3を経由してHDMIに変換し、動画でキャプチャしたものから静止画を切り出して掲載している。

多数の機種に移植されたこともあり、広告のバリエーションもさまざまだった。そのうちの1つには“構想1年”と書かれたものもあったが、内藤氏によると「当時、まだ入社して10カ月なのに、“構想1年”とは何ででしょうね」という笑い話も。
今回使用したのが、以下のソフト。PC-8801版はパッケージが見つからず、ディスケットのみ発見された。X1版はテープ版のためタイトル画面が表示されない仕様となっているので、それのみPC-8801版で撮影している