【特集】
「セガハードヒストリア」のヒストリア~または製作日記【第3回】
創刊から2年半の戦いの中で「ドリームキャストマガジン」が最後に見たものとは!?
2021年3月19日 00:00
- 【セガハードヒストリア】
- 7月22日発売予定
- 価格:16,500円(税込)
セガの最後の家庭用ゲーム機「ドリームキャスト」が製造を中止してちょうど20年が経過した。
「セガなんてだっせぇよな」と言われて振り返るセガの湯川専務のテレビCMは当時大きなブームとなり、「夢を広げるハード」として、ネットワーク機能(モデム)を標準搭載された初の家庭用ゲーム機でもあったドリームキャストは、「シーマン」や「ソウルキャリバー」、「ソニックアドベンチャー」、「シェンムー」、「サクラ大戦3」といった名作を生み出しながら、わずか2年半で姿を消すことになった。
「Beep」以来、セガハードをセガファンとともに熱く追いかけてきたセガハード専門誌「BEEP!メガドライブ」、「セガサターンマガジン」に次いで、誕生した「ドリームキャストマガジン」は、その時何を見たのか? 最初から最後まで週刊誌として最後のセガハードを見届けた当時のエピソードを見ていこう。
完全に逆ざやにハマり、「FFVII」に息の根を止められたセガサターン
「BEEP!メガドライブ」に次いで誕生したセガサターン専門誌「セガサターンマガジン」は、次世代ゲーム機戦争のムーブメントに乗り、一気に部数を伸ばし、当時の社内の最高部数まで実現。しかし、その繁栄は長くは続かなかった。
一時はゲーム機の天下を獲るほどの勢いがあったセガサターンではあったが、1996年の年末商戦と翌1997年1月31日に「ファイナルファンタジーVII」がプレイステーションで発売されて以降、セガサターンとプレイステーションの両者の差は一気に広がっていく。
プレイステーションへの対応を迫られたセガサターンだったが、もともと“究極の2Dマシン”となりえるハードとして設計されていたため、プレイステーションによって幕を開けた3D時代に対応するためにあとからチップを増設。そのためにハードはコストダウンしにくい構造となり、ソフトも開発者からすると「作りにくい」と言われ続けた上、1996年3月にセガサターンは、2万円の新価格で発売されることになったが、その結果、1台売るごとに1万円の赤字を出すような状況に陥ってしまう。
ソフト面でも、セガサターンはCGムービーもプレイステーションと比べると粗く見劣りし、ハードの普及台数を急速に伸ばしていたプレイステーションは次々とミリオン(100万本以上の)タイトルを連発。セガサターンのウリのひとつであったアーケードゲームの移植も、セガが1996年に投入した新基板MODEL3が100万ポリゴン/秒を出せるハイスペックを誇っていたため、「バーチャファイター3」など最新のゲームは、セガサターンのタイトルラインナップに(名前だけは)上がるものの、現実的には移植は難しい状況にあった。ここに来てセガは次世代機の投入を決断する。
セガの逆襲を謳ったドリームキャストの大々的なプロモーション
プロモーション、開発のしやすさ、描画能力、大手サードパーティー、RPG大作不足、(欧米で人気だった)ソニックの新作不在などなど……。セガサターンの敗因をあらゆる角度から検討する会議が毎週定例で有名クリエイターも集めて水面下で開かれ、新ハード「ドリームキャスト」は、最終的にメガドライブやセガサターンとは違う一般ウケするハードを目指してプロモーション計画が作られていった。
「セガは、倒れたままなのか?」「11月X日 逆襲へ、Dreamcast」。1998年5月21日の朝日新聞朝刊の一面を飾った新聞広告。その日の午後にドリームキャストは都内ホテルで大々的に発表された。
1998年5月21日のドリームキャスト本体の発表会に続き、5月23日には、「Dの食卓2」の発表会、8月22日には新世代の「未来基準」とうたわれた「ソニックアドベンチャー」の発表会が立て続けに行われ、ドリームキャスト発売の約1ヵ月前となる10月23日には、せがた三四郎最後のテレビCMが放送開始され、セガは最後の戦いに挑み始めることになる。
セガサターンの際に、セガハードの弱点として言われた大手サードパーティーも順に発表され、10月6日にカプコンが「バイオハザード コード:ベロニカ」を発表。同日にはナムコも電撃的な参入を発表した。
セガサターンの大きな敗因の1つとも考えられた「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」といった大作RPGがない問題については、「バーチャファイター」シリーズなどバーチャシリーズの生みの親であるセガAM2研の鈴木裕氏が、オリジナル大作の「シェンムー」を12月20日に発表。「シェンムー」は全国5大都市で無料招待の大々的な発表会を開催し、フルリアルタイムCG、フルボイスの「オープンワールド」の世界観を公開。ジャンル 「FREE(※1)」 の壮大なゲーム内容は、ゲーム業界に大きなインパクトを与えた。
※1:FREE……フリー、Full Reactive Eyes Entertainmentの略
週刊体制で他の専門誌を凌駕した「ドリームキャストマガジン」
発表ラッシュが続いたセガの新ハード「ドリームキャスト」の情報をいち早く届ける体制を取るため、それまでの「セガサターンマガジン」は、週刊体制を敷いたまま、1998年11月発売号から「ドリームキャストマガジン」へ誌名を変更した。
セガサターン時代に2年間続けてきた週刊発行体制は、スタッフ全員がこなれた状態にあり、毎週「配本日」の前日、つまり火曜日の発表会の模様まで、ねじ込めるほどにまでなっていた(雑誌の公式な発売日は金曜日だが、毎週水曜日に出版流通に配本されていた。これは他の週刊・隔週刊ゲーム雑誌も同様だった)。
セガサターン専門誌の時代には最大7誌あった雑誌は、ドリームキャスト時代には5誌にまで絞り込まれていたが、週刊「ドリームキャストマガジン」は、他のドリームキャスト専門誌より圧倒的な速さと記事ページ数で差をつけるという「先手必勝パターン」を打つ作戦が取られた。
先手を打ったという意味では、ドリームキャストも同じであった。プレイステーション陣営が、次の世代の競合ハード(プレイステーション2)が出る前に、先行して次世代のソフトを投入する「先行逃げ切り」をセガは狙っていた、とも言える。
「まだここにメガドライブ時代の蓄えがある。それでもう一勝負しようと思う」
ドリームキャストを始める際、入交昭一郎社長からの声がけに多くのクリエイターは賛同し、おのおのが今までにないクリエイティブなソフトに着手していった。
海外でも大ヒットを記録したドリームキャスト
日本では売れたものの、欧米などの海外では販売が不調に終わったセガサターンだったが、ドリームキャストは海外で好調な滑り出しを見せた。
1999年3月2日のプレイステーション2の発表を受け、ドリームキャストは6月6日に価格を1万円下げた19,900円にすると発表。9月9日に発売された北米市場では、ドリームキャストは1週間で40万台を販売し、欧州市場でも4日間で18万5千台の販売を記録。セガサターン時代に失敗した海外市場で、ドリームキャストは見事なスタートを切ることができた。
なんといってもたった1年でよくぞここまでソフトを揃えた。それは毎週のように話題作が発売されていった1999年の年末商戦のラインナップにも感じることができたが、これはセガサターンで言われ続けた「開発のしにくさ」をドリームキャストでは徹底的に払拭し、作りやすい開発環境が提供できていたからこそでもあり、ナムコの「ソウルキャリバー」が約半年という驚異的な開発期間で1999年夏に発売されるほどでもあった。
ただ、開発のしやすさや、海外市場といった、数々の懸念点をドリームキャストは払拭できたものの、現実の市況はやや厳しいものがあった。
実は、発売2年目のデータを比較した記事が「ドリームキャストマガジン」(2000/12/1号 Vol.38)掲載されているのだが、2年目の段階でセガサターンは370万台、ドリームキャストは190万台。発売されたソフトの数はセガサターン399本、ドリームキャスト262本。50万本以上売れたソフトは、ドリームキャストは「シーマン」のわずか1本に対し、セガサターンは11本も存在しているのがわかる。
この当時、新世代ゲーム機向けのソフト開発は、開発費が高騰し、「シェンムー」で70億円以上もかかった……というのは有名な話として話題になったが、このレベルの開発費は、 300万本クラスは売らないと開発費の回収ができない(※2) と言える。
※2:「シェンムー」は国内で約40万本、世界累計で100万本は超えたが、そこまで止まりであった。
これは当時のセガに限った話ではなく、1999年から2000年の当時、ゲームソフトの開発費がかかる以上に、ソフトがそれほど売れない、といった状況が、どのゲームハード陣営でも起きていた。
実際、CESAゲーム白書のデータを見ても、ゲームソフトの市場規模は「FFVII」が発売された1997年の5833億円をピークに、5,137億(1998年)→4,851億(1999年)→4,131億(2000年)→3,685億(2001年)→3,367億(2002年)→3,091億(2003年)と5~6年の間ずっと下がり続けているような状況にあった。
開発費とネットワークコスト「双子の赤字」の苦しむセガ
そこにきてセガ、そしてドリームキャストの赤字に大きく拍車をかけたのは、ネットワークに関するコストであった。
家庭用ゲーム機初のネットワーク機能標準装備。ドリームキャストは、ネットワークモデムを付けたため、最初の段階から本体価格は29,800円となったが、2000年に入って以降、セガは大川功会長のもと、ネット戦略をさらに強力に推し進め、北米でDCプロバイダを2年間契約すれば、DC本体とキーボードを無料で配布するといったキャンペーンを実施。すでに北米で200万台以上購入されていた全ユーザーもそのキャンペーンの対象とし、200ドルの小切手とキーボードを契約の代わりに提供するといった、大胆な施策を次々と実施していた。
ドリームキャストは、「ゲーム機」としてよりも、「ネットワーク端末」としての推進が進められる中、2000年6月1日には入交昭一郎氏が社長を退任。大川功氏の新体制のもと、6月4日には北米ドリームキャストは199.99ドルから149.95ドルに大幅値下げされ、加速度的に赤字が大きく膨らんでいくことになる。
実際、これらの代償は非常に大きく、ドリームキャストのハード撤退が正式に発表された2001年1月31日に、2000年度のセガの業績は12月末時点で売上総額3,390億5,500万円。そのうち、ドリームキャスト事業の売上はわずか772億700万円と全売上のうち22.8%しか占めておらず、赤字額403億5,400万円のうち383億8,100万円がドリームキャスト関連事業で占められ、実に赤字の95.1%がドリームキャストによるものだった、と発表されている。
ちなみに、2000年度の12月末までのドリームキャスト販売台数は、国内わずかに28万台、米国135万台、欧州56万台、アジア13万台と発表され、当初の事業計画比で44%マイナスという結末となった。
ゲーム雑誌としての完成形を実現できた「ドリームキャストマガジン」
「実質的にわずか2年半という短命に終わったドリームキャストであったが、そのハード専門誌としては、ある意味、雑誌としての「完成形」を体現できたと感じている」と語るのは、「ドリームキャストマガジン」で編集長だった西村亨氏。
「セガサターン時代に花咲いた数多くの多彩なゲームクリエイターとの関係構築をさらに深め、どこよりも速く、どこよりも濃い記事を提供する。他誌にはできない週刊誌だからこそ可能な最大ボリュームの記事と、最速の情報提供。もちろん、ユーザー視点も忘れずに、読者レースという形で、毎週リアルタイムで正直ベースの評価を下し、何かあれば、すぐにWebアンケートを実施し、雑誌の誌面で公開する……。
インターネット時代が進み、単なるゲーム情報だけでは生き残れないような状況が出てきていた中、当然、単なるカタログ誌的な雑誌は次々淘汰されていった。そんな中、「ドリームキャストマガジン」は、ユーザーである読者とのコミュニケーションのキャッチボールを常に心がけ、ネットの記事にはできないドリームキャスト最新作の体験版付録をドリマガGDとして毎月のように付け、ドリームキャストのことなら、「ドリマガ」という流れを作っていくことができたと感じている」
第一報のニュース速報は編集部の隣のデスクにいたゲームニュースサイトのチームの記事として先に掲載し、そこから先の深い考察と突っ込んだインタビュー記事は雑誌で掲載していく。ドリームキャストソフト体験版のような物理的なメディアにプラスして、雑誌ならではの深い記事を週刊ペースで回していく。そのサイクルが一番バランスよく完成したのが、1999年後半以降の「ドリームキャストマガジン」であったと言える。
しかしながら、ここで完成されたと思われたゲーム雑誌としての姿は、外的な環境の変化で次第に揺さぶられていくことになる。皮肉なことに、「インターネット革命」を本社であるソフトバンクが強力に推進していく中で、ゲーム雑誌という媒体は、徐々に「強み」を失っていくことになる。セガがゲームプラットフォームビジネスから撤退した後も、ゲーム総合誌としての「ドリマガ」、そしてゲーム総合情報誌「ゲーマガ」として「Beep」以来の血脈は継承されていった。
「『ドリマガ』の編集長を次の世代に引き継ぐ際、伝えたことは1つであった。
「生き延びろ」、と。
インターネットの荒波が押し寄せ、ゲーム業界の不振が続く中、生き延びることは難しいが、それでも生き延びることを最優先に考えろ。
その言葉が通じたのか、なんと2001年に総合誌となった『ドリマガ』の系譜は、『ゲーマガ』と誌名を変えながらも、2012年まで生き延びたのだ。「セガハード撤退から、11年も生き延びたことは、出版不況の状況を加味しても、大きな拍手を贈りたかった」とは当時編集長だった西村氏。
もしもセガのハードも、ドリームキャストを2年という短命で終わらせずに、その後もなんらかの形で生き延びていたとしたら、今はどんなハード、ゲームプラットフォームを続けていたことだろう。
「セガがゲームプラットフォームを続けていた『ifの世界』。
そんな世界があったとしたら、どんな姿にそれはなっていると思いますか?」
実は、その問いかけを今回の「セガハードヒストリア」のインタビューの中で、当時のクリエイターたちに聞いている。
セガがハードを撤退して、ちょうど20年。
20年経った今、当時の想いと今の現実を見て、彼らはどう感じ、どう思っているのか。
20年経った今だからこそ語れることを当時の誌面を飾ったクリエイターたちが大いに語るのは、後にも先にも、この「セガハードヒストリア」しかないと、個人的には思う。
たった2年ではあったが、実は一番熱く濃縮されたセガハード最後の戦い。その一挙手一投足は7月発売の「セガハードヒストリア」で見届けることができる。
「セガハードヒストリア」は完全受注生産品のため、3/26までの注文最終日以降は、入手することはできない、非常にレアリティの高い、当時のセガファン必携のアイテムとなっている。
あの時の熱い想い、悔しかった想いを常に座右に置いておきたい生粋のセガファン贈る最後の限定商品。まだ注文していない方は、ぜひ検討してほしい。3月26日が本当に最後。2度と手に入らない、そして、我々も(年齢的に見てもたぶん)二度と作ることはない渾身の一冊と伝えたい。
まだの人はぜひ入手していただきたい!
「セガハードヒストリア」収録タイトル紹介第3弾 「エリミネートダウン」、「ミッドナイトレジスタンス」
「セガハードヒストリア」には、約300冊にものぼる「BEEP!メガドライブ」、「セガサターンマガジン」、「ドリームキャストマガジン」を各号振り返るページの他、当時のクリエイターや関係者へのインタビュー、その他今だから語れる企画ページも満載だが、付録として付く、メガドライブミニチュア以上に注目されているのが厳選されたメガドライブソフト10タイトル(PCでプレイ可能)だろう。今回は、10タイトルの中から、2本を紹介しておこう。
メガドライブソフトの中には、いまだに中古市場で取引価格が高いタイトルがいくつかあるが、この「エリミネートダウン」は、そうした希少性も高い点から今回の「セガハードヒストリア」収録タイトルとして選定された。ちなみに中古販売価格は10万円超、買い取り価格も5万円超と破格だ。
「BEメガ読者レース」では最終評価は269位、7.1086点と中堅どころの評価ではあったが、当時の読者のコメントでは「技術的には処理落ちもしないし、多関節キャラもなかなかのデキ」、「多彩なトラップはなかなか新鮮だったし、武器のシステムも地味ながらよく考えられている」といった肯定的評価もされている。レアソフトだけに見たこともない人の多いタイトル。今だからこそあらためて触れて再確認したい1作だ。
今は亡きメーカー、データイーストのメガドライブ参入第1弾ソフトだったのが、この「ミッドナイトレジスタンス」だ。元はアーケードゲームからの移植だが、派手な重火器での爆発はチラつきが出るほどの豪快さ。当時は独自に開発された音源ドライバーが使われ、サウンド担当のクレジットにはYMO H.S(崎元仁氏)の名もあり、データイーストらしさの出ている味わい深いBGMはぜひ聴いてほしい。アーケード版にあった2人同時プレイがない以外は、ほぼ完全な移植度を誇る。全9ステージ構成。救出できなかった人質の家族はラストで流れ星になるあたりが悲しい。BEメガ読者レースの最終評価は7.3739の225位であったが、メガドライバーならば、見逃せない1作だ。