インタビュー
日本eスポーツ界のレジェンド“KINTA”こと長縄実氏インタビュー
2019年7月29日 00:00
FPSコミュニティ黎明期に自らLANパーティを主催していたKINTAさん
――私とKINTAさんがはじめて会ったのが、2001年にNecca秋葉原で行なわれたWCGの日本予選の時でした。あの時に、奇抜な人がいるなあと思っていて、すごく「KINTA」というハンドルが私の中に植え付けられたんです。
長縄氏: 無駄に目立っていただけなので(笑)。
――目立ってましたよね(笑)。あの時にすでにボス感を漂わせていましたが、すでにコミュニティは持っていたのですか?
長縄氏: 持っていました。
――Crize、BAZY-R、Metal-G、Tyokuta、ZEX、Kaf……。あの当時も多くのFPSプレーヤーがいましたが、KINTAさんは彼らとすでに知り合いでしたか?
長縄氏: そうですね。大体知り合いでした。
――その中で一番KINTAさんが古いですよね。年齢的な意味で。
長縄氏: いや、もっと上の方がいました。
――いずれにしてもKINTAさん達が日本のFPS界の第1世代ですよね。
長縄氏: そうですね(笑)。
――あの当時に、すでにKINTAさんは30才を過ぎてましたよね。
長縄氏: 32、3才だったと思います。
――今からすれば30過ぎてからFPSのトッププレーヤーのポジションを維持できるって凄い時代でしたよね(笑)。
長縄氏: ホントですよね(笑)。それだけ対戦相手が少なかったから、勝てる機会があったのではないでしょうか。
――私は、FPSコミュニティの連中によく馬鹿にされてました。「中村さん、なんでそんなに立ち回り下手くそなんですか」とか「そうじゃないですよね!」とかよく怒られてました。あの猛者達の中でよく立ち位置を確保できましたね。
長縄氏: 上手いか下手かというよりは、勝ったことを、勝った瞬間をもう1回思い出せるかだと思うんです。
――はい。
長縄氏: 勝った時の、なんで勝てたんだという感覚というものを思いだせたら、それを持続することによって勝ち続けられると思っているので。なので、1回でもその勝利を味わったならば、それを忘れないように。そういう意味ではやっぱり貧乏なんですよ(笑)。
――その時は、「UT」だけですか? それとも「QUAKE」や「Call of Duty」など一通りのFPSに手を出していたのですか?
長縄氏: あの頃、「CS(Counter-Strike)」とか「UT」とかは、タイトルごとに“なんとか勢”という派閥みたいなものがありましたよね。だから行くと蚊帳の外に出されてしまう。なので、村八分にされないようにするために「UT」しかやっていなかったというのがありました(笑)。
――これはちょっといきなりディープな話に入ってきましたね(笑)。
長縄氏: あの当時、あったじゃないですか。
――ありました。FPSコミュニティが今のように何十万、何百万という規模ではなく、ちっちゃかったですからね。コミュニティサイズが目の届く範囲だったから、別のゲームに手を出しただけで「おまえ、裏切りかよ」みたいな雰囲気はありましたよね。
長縄氏: そうなんです。なので、他のタイトルは見るぐらいで、当時は配信もなかったので、ニュースか何かで見るぐらいしかなかったですね。
――私の場合、ゲームメディアの人間だったので、派閥を無視して自由に一通り遊びましたけど、好きだったのは「CS」だったんですよね。「CS」は当時日本であまり立ち上がらないままポシャりましたが、KINTAさん自身は、FPSコミュニティの中心にいたわけですが、当時を振り返って如何ですか?
長縄氏: いやー、なんでしょうね、環境が貧相でしたが、環境がないなりに、人間らしく生きていられていたかなと。(笑)
――哲学的ですね(笑)。人間らしくとはどういうことでしょうか。
長縄氏: これはコミュニティの根本だと思うのですが、例えば、ネットで知り合った人間、対戦で戦って「こいつ強いな」とか思った時に、その人のハンドル(名前)を覚えると思うんです。その後、IRCのチャットなどで改めて会って、会話が始まって、さらに「どんなやつなんだろう?」と思って、チャットだけではわからないから、オフ会を開いてという流れが当時ありましたが、それを率先して私がやっていました。オフ会で会うだけではおもしろくないので、会ってその場で対戦するわけです。
あの頃、「KINTA強い」、「KINTA強い」ってまわりで言われていたことがあって、2ちゃんねるで「KINTAは専用サーバーを立てているから強いんだ」と言われて。そういうことを言われてちょっとムカっときたんです。「じゃあ、みんなで本当にLANの環境で戦ってみようぜ」ということで、みんなを呼んだんです。
――それは、どこに呼んだんですか?
長縄氏: 私の自宅です。
――では、2001年ぐらいからLANパーティのはしりみたいなことを自宅でされていたということですか?
長縄氏: 実はそうなんです。
――何人ぐらいですか?
長縄氏: 8人ぐらいです。
――それはおもしろいですね。その当時呼ばれた人の中で、今でも活躍している人はいますか。
長縄氏: いや、いないですね。BAZY-RやTyokutaも来ましたね。
――では、「BIGLAN」を開催される前から、実はずっとそういうことをされていたんですか。
長縄氏: ずっとではありませんが、不定期ではしていました。
――あの当時、1997年、1998年という年は、歴史に名を残したPCゲームが大量に出てきた時代なんです。FPSタイトルだけでなく、MMORPGなら「Ultima Online」や「Ever Quest」、オンラインRPGなら「Diablo」、RTSなら「Age of Empires」などですよね。私は「Age of Empires」が好きで、RTSコミュニティに属していましたが、その中でKINTAさんはなぜFPSを選ばれたんでしょうか。
長縄氏: 正直に言うと、他のゲームを知らなかったんです。完全にストイックに「UT」で勝ちたいというだけしかなかったので。
――なるほど。いろいろ遊び比べて、「俺は『UO』じゃなくてFPSだな」ではなくて、最初から「UT」しかなかったんですね。
長縄氏: そうです。
――ひょっとして、KINTAさんが他のゲームを遊んでいたら日本のeスポーツの歴史が変わっていたかもしれませんね(笑)。
長縄氏: 違っていたかもしれないですね(笑)。ただ、先ほどいったように、小さなコミュニティがぽこぽこできてきて、派閥があったりして、イガイガした関係を嫌だなと思っていました。自分はそうするつもりはないけど、周りがそうするからしてしまうというような感じで、同調することによって派閥のイガイガしたような関係が増長するといった形が、昔から嫌いだったんです。これは何が原因かと言えば、ゲームが好きであればあるほど派閥が生まれるんです。
これは今の仕事の話にも通じることなんですが、今の社員に言っているのは、「ゲームを好きになるな」と。「ゲームを好きになるのではなくて、ゲームをしている人を好きになれ」と。これはあくまでも、イベンターでありゲーマーであるゆえに、どこかひとつのゲームを取り上げてそれを愛してしまったら、他のものが見えなくなると。
――なるほど。それはやっぱり自分の過去の経験から?
長縄氏: そうですね。あの空気感というか、「Quake」派閥の人が私のことをディスったりとか、私のクランの人間の誰かが、他のゲームの人間をディスったりしているのを見ていて。「なんか世界がちっちゃいな」と思っていたので。これを変えたいな、と言う風には思っていました。
――おもしろいですね。長縄さんはFPSだけをやっていたから知らなかったと思いますが、当時やっぱりFPSって超一大勢力なんです。他はちいさいんです。だから、例えば、RTSでいうと「Age of Empires」派、「Starcraft」派、「Warcraft」派、「Total Annihilation」派と、色々いましたが、特にいがみ合いもなくみんな仲良くやってましたよね。なぜかというと、いがみ合っていたらオンライン対戦が成立しないからです。なので、みんなで仲良くしようと、夜な夜な「IRC」や「ドワンゴ」、「KALI」とかに集まって、「今日は何をやろうか」と相談して、みんなで同じゲームをやるんです。でもFPSコミュニティは仲が悪かった。私も「CS」を囓っていたからよくわかります。いつも罵詈雑言が飛び交っていたイメージがある(笑)。
長縄氏: そうですね。最近、プロチーム間での引き抜きが話題になっていたかと思うのですが、我々の時代でもクランがあって、クラン同士でプレーヤーの引き抜きなどは頻繁にあったんです。「こっちにいこう、あっちに行こう」というのがあったので、今、所属の人があっちからこっちのチームに行ったとかと聞いても、なんら驚きはないんです。昔から、そういうことはあったので。
――ちなみにKINTAさんは、2001年のWCG日本予選以降は、eスポーツアスリートとしてどのような実績があるのですか?
長縄氏: 2001年のWCG日本予選で自分の限界を知った後、もう30才前半だったので、先の将来をどう考えようかと思った時に、WCGとかWCG以前に得た経験、オンラインゲームで得たLANパーティとかの経験などを含めて、こんなにおもしろいことがなんで世の中に知られてないんだろうと思ったんですね。そこが会社を辞めるきっかけであり、こっちの道で行こうと思ったきっかけです。
――辞めてすぐ「成(なり)」を立ち上げたんですか?
長縄氏: いえ、辞めて3、4年ぐらいは個人事業主で、中古のPCの販売をしていました。
――それが成の前身ですか。
長縄氏: そうです。その頃に「BIGLAN」をやったんです。