インタビュー
日本eスポーツ界のレジェンド“KINTA”こと長縄実氏インタビュー
「ゲームを好きになるな、人を好きになれ」。1990年代から現在まで日本のeスポーツの歩みを本音で語り合った
2019年7月29日 00:00
- 7月収録
- 会場:LFS池袋
筆者が2001年のWorld Cyber Gamesの取材をきっかけにeスポーツの世界に足を踏み入れてから実に18年近くが経過した。
当時は“eスポーツ”という言葉はまだ影も形もなく、“ゲームの世界選手権大会”とそのままの呼称で、「Counter-Strike」や「Age of Empires」といったPCゲームを競技種目として、国の威信を背負って戦っていた。今から考えれば、まだまだ規模は小さかったが、当時はその巨大な舞台装置、観客の盛り上がり、とりわけ「CS」においては5人対5人の団体戦というところに、これまでの“ゲーム大会”とは格の違う、えもいわれぬクールさと格好良さを感じた。
あれから18年。日本でもついにeスポーツが立ち上がり、様々なタイトルでプロアスリートが誕生し、当時から振り返ると信じられないほどの盛り上がりを見せている。この18年の間、筆者は何千人、何万人の選手、関係者とお付き合いしてきて、無数の思い出があるが、信じられないことに当時から今までずっとお付き合いが続いている人物がいる。それが今回紹介する長縄実氏である。
長縄氏は、“KINTA”のハンドルで「Unreal Tournament」(Epic Games、1999年)で日本予選4位の実績を持つ元eスポーツアスリートであり、LANパーティーイベント「BIGLAN」の主催者であり、「サドンアタック」の日本大会「SACTL」をはじめ、日本の数々のeスポーツ大会の運営実績を持ち、eスポーツキャスターとして著名なyukishiro氏、OooDa氏のボスでもある。現在は、サードウェーブ傘下のeスポーツ運営会社E5 esportsWorksの代表取締役社長として、GALLERIA GAMEMASTER CUPや、全国高校eスポーツ選手権、そして東京池袋にあるeスポーツ施設「LFS池袋 esports Arena」の運営などに携わっている人物だ。
筆者にとって長縄氏は“eスポーツ界のアニキ”であり、ある意味近すぎる関係性ゆえ、これまで意識的に直接対決を避けてきたところがあるが、サードウェーブ代表取締役社長尾崎健介氏インタビュー掲載後に、様々な方から「尾崎さんって面白い方ですね」とポジティブな反応を頂いたことから、尾崎氏と並んで出たがらないアニキを、やはり一度表舞台に引きずり出して、日本のeスポーツ史に果たしてきた役割を一度インタビューという形でまとめておくべきだなと、筆者の中で揺るぎのない覚悟ができあがった。
今回、2時間あまりのインタビューを終えて、筆者自身も忘れていたような、これまであまり文字として残されていないような話題も数多く飛び出してきて、日本のeスポーツの黎明期の雰囲気を伺う意味でも貴重なインタビューになっているのではないかと思う。例によって超ロングインタビューになっているため、毎日1ページずつぐらいのペースでじっくりお楽しみ頂ければ幸いだ。
筋骨隆々のeスポーツアスリート「KINTA」との遭遇
――いやー、KINTAさんとついにこういう日が来てしまいましたね(笑)。
長縄実氏(以下長縄氏): この日が来るとは思わなかった(笑)。比較的避けて通ってきたところがありますね。
――お互いにちょっと避けてきたところがありましたね。今回はよろしくお願いします。
長縄氏: よろしくお願いします。
――さて、今、日本でeスポーツが盛り上がってきていますが、まだ多くの人が長縄さんの存在を知らないと思うんですね。私は、“長縄さん”ではなくて、“KINTAさん”といつも通りの名前で呼びたいですし、約20年前に、KINTAさんがまだ30代で、金髪姿の現役eスポーツアスリートだった時代を知っていますし、筋骨隆々のタンクトップ姿でLANパーティイベント「BIGLAN」を主催していた時代を昨日のことのように覚えています。
長縄氏: よくご存じですね。ありがとうございます。
――その辺りの話も含めて長縄さんという人は、日本のeスポーツにどのような貢献をしてきた人なのか、これから何をしようとしている人なのかというのを、eスポーツファン、ゲームファンに伝えられたらと思っています。
長縄氏: わかりました。
――まずは、KINTAさんのゲーム遍歴から伺いたいのですが、いつからどういったゲームを始められたのか、そのあたりから教えていただけますか。
長縄氏: ゲームセンターが始まりですね。「スペースインベーダー」ですよね。その頃同時に「ポン(PONG)」というゲーム、わかりますか。
――わかります。
長縄氏: あれを家庭用ゲームで遊んでいました。兄弟の一番末っ子だったので、ボコボコにやられながら、悔しい思いをしていたのが保育園の時代ですね。
――1970年代ですよね。そこから1980年代に入って家庭用ゲームはファミコン、スーパーファミコンと、一通り遊ばれたんですか?
長縄氏: 家庭用ゲームでいえばファミコンがメインでしたけれども。後は中学生くらいになってから、家業が電気屋だったので、家に最新のPC-98シリーズが展示品で置かれていて、その中に入っているゲームなどがあったので、それで遊んでいたりしていました。
――当時、PC-98で何を遊んでました?
長縄氏: それがちょっと思い出せないんですよ。昨日も思い出そうと思っていたんですけど。北海道の方を題材にしたサスペンスで、事件を解決していくロールプレイングです。なんだったっけな。
――「オホーツクに消ゆ」とか?
長縄氏: そうそう、そんな感じです。それで遊んでいましたね。あれはゲームと言っていいんですか?
――いいと思います。クラシックなアドベンチャーゲームです。ところでKINTAさんというと、「Unreal Tournament」(以下、「UT」)プレーヤーとして名を馳せましたが、それ以外は普通のゲームもやっていらっしゃいましたか。
長縄氏: 普通のゲームはあまりその頃はやってなかったです。FPSをメインでしていました。
――最初に遊んだFPSは何ですか?
長縄氏: 「DOOM」ですね。「DOOM」が雑誌の付録でついていて、体験版みたいなものが。そこからですね。
――あの当時、「DOOM」、「Quake」、「Unreal」、「Unreal Tournament」と、どんどんFPSが出てきましたよね。
長縄氏: そうですね。
――そうした中でなぜ「Unreal Tournament」だったんですか?
長縄氏: その前の「Unreal」が雑誌の付録でついていて、その後「Unreal」の延長線上の「Unreal Tournament」が出たので、一緒に買ったのを覚えています。
――その時の環境ってどういうものだったのか覚えてますか?
長縄氏: 自作で作っていました。「Unreal」をやった時は、RIVA TNTとか、Voodoo Bansheeとかを使っていたような。CPUはもう覚えていないですね。
――あの頃はPCがまだ高かったですよね。40万円ぐらい平気でしていましたよね。
長縄氏: そうですね。私は18才から家業を継いで、その頃ちょうど電気屋で働いていましたが、そこでお客さんがNECのPCが高いと言われていて。その要望に応えるために、秋葉原までパーツを買いに行って、自分で組み込んでDOS/V互換機を販売をしていたんです。
――へーそんなことをしていたんですね。
長縄氏: その延長線上で自分も勉強がてら組んでみたりだとかして、やっていたのがPCの始まりですね。
――結構ドスパラさんとライバルだった時代があったんですね。
長縄氏: そうですね。当時はバチバチでしたね(笑)。
――でもちゃっかりドスパラさんからCPUやビデオカード買い付けて1台組んで、それを売ってるんですから、今だったら怒られそうな感じですよね(笑)。今からもう20年以上前の話ですよね。
長縄氏: もう25年くらい前ですね。PCを販売しつつ、町の電気屋さんで、インショップ形式で、PC教室をやっていたんです。それで、年配の方や、ちょっと若い方でもワープロとか、ワード・エクセルをいじりたい、年賀状を作りたいという方に教えていました。
――それがいつゲームに変わったのでしょうか。
長縄氏: それはもう最初からです。仕事は仕事としてやっていただけなので、バックグラウンドでは趣味としてゲームでずっと遊んでいました。
――KINTAさんのeスポーツアスリートとしての実績は、WCG(World Cyber Games) 2001の日本予選で4位になったことです。当時すでにKINTAさんは30歳を過ぎていたわけですが、4位というと日本代表一歩手前ですよね。すでに日本にもFPSコミュニティがあった中で4位になれたのは凄いと思います。当時はどのくらいプレイしていたのですか?
長縄氏: 1日、4、5時間は平気でやっていました。
――それは仕事が終わってからですか?
長縄氏: そうです。仕事が終わって、汗だくになってエアコンを取り付けて帰ってきてからですね。帰って早々電源を入れて練習をしていました。
――昔から思っていたのですが、KINTAさんは筋骨隆々でしたよね。ゲームよりジムに行く時間の方が長いタイプなのかなと思っていました。
長縄氏: なるほど(笑)。筋肉隆々になっていたのは、電気屋の仕事がハードすぎて、勝手についただけなんです。
――それはタワー型のPCを持って、運んで、降ろしてという日々の作業の中で自然とああなったんですか?
長縄氏: そうです。本当です。なんのトレーニングもしていないです。ただ、単に肩に乗せて……。
――えっ? PCを肩に乗せる?
長縄氏: PCだけではなくて、エアコンの室外機を肩に乗せて、脚立を立てて、はしごで2Fの屋根に登ったりとかずっとやっていました。
――そんな大変な仕事を終えてから、「よし、今日もがっつりゲームをやるぞ」と?
長縄氏: 当時は、なんかそういう風にやっていましたね(笑)。
――私はFPSが下手くそなので、日本4位というと見上げるような存在なわけですが、どうやって強くなったんですか?
長縄氏: どうやったら強くなれるのかをずっと考えながらプレイしていました。
――それは単にゲームを楽しむだけではなくて。
長縄氏: そうですね。いわゆる自分の取り巻く環境というのが、例えばキーボードもそうですし、マウスもそうですし、マウスパッドもそうですし、そのあたりをトライアルエラーで、いろんな形で挑戦をしていました。
――あの当時は、まだゲーミンググレードのデバイスってなかったですよね?
長縄氏: ないです、ないです。
――ゲーマーの嗜みとして、プレイする前にマウスのボールを取り出して、キチンと掃除してから使うみたいな世界ですもんね。
長縄氏: そうです、そうです。
――そうした中で、KINTAさんは、デバイスについてどのようなこだわりを持っていたんですか?
長縄氏: 使っていたデバイスは、ナス型の「IntelliMouse」。当然、まだボール式のやつで、いつもゲームや試合を始める前には綿棒で丁寧に掃除をして、マウスの感度をチェックするのですが、それでも普段とちょっと違うなと思って、マウスパッドもこだわらないとダメだと思って、その時、電気屋でいろいろな建材を知っていたので、何が最適なんだろうと考えていました。
――最適というのは、何が最適なんですか?
長縄氏: 材料です。エイミングに最適なものですね。それで、ベニヤ合板を自分の適量の大きさに切って、それを荒削りから、細削りまでやって。
――サンドペーパーで?
長縄氏: そうです。サンドペーパーで。それで磨いてマウスパッドとして使っていました。
――それはまさにゲーミングマウスパッドのはしりですよね。
長縄氏: まあ、要は貧乏だったんです。お金がないという貧乏ではなくて、脳みそが貧乏だったんです。逆に貧乏なりにどう生きようか、どう勝とうかと言うことしかなかったので。
――それはおもしろいですね。そういう話をすると、若いeスポーツファンは衝撃を受けるでしょうね。マウスパッド自作していたヤツがいるのかと(笑)。加えて、当時は対戦環境も限られていたわけですが、どこで対戦していたのですか?
長縄氏: 周りの方たちって56kモデムで、良くて64kでISDNですが、当時、ある大学の研究所の回線を使ってやらせていただいていました。
――ああ、そういう時代ですよね。あの大学、専用サーバー立ててるから行こうぜと。
長縄氏: そうそう。そういうことに熱心な大学関係の方がいらっしゃって、そこでみんなで集まって対戦していました。
――何人ぐらい集まってました?
長縄氏: 多くて12人ぐらいでしたね。
――それって、すごく恵まれていますよね。
長縄氏: 恵まれていました、本当に。
――通信費とかはどうされていましたか。あの時、まだ常時接続ではありませんでしたが。
長縄氏: やっぱり「テレホーダイ」でしたね。
――ああ、じゃあ11時まで待って、繋いでってことなんですね。
長縄氏: そうですね。