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「ワンダープロジェクトJ」はこうして生まれた!「SAVE」プロジェクトによって今紐解かれる開発資料

【CEDEC2021】

開催期間:8月24日~26日

 人を模して造られた”ギジン(擬人)”の少年「ピーノ」が正しいことをしたら褒め、間違ったことをすれば叱り、ピーノの成長を見守る育成シミュレーション「ワンダープロジェクトJ 機械の少年ピーノ(以下、ワンダープロジェクトJ)」。

 1994年にスーパーファミコン用タイトルとして発売された本作は、独自のゲームシステムやSFC時代の作品として高水準な美しいグラフィックスとアニメーション、そして感動的なストーリーで今なお根強い人気を誇る作品だ。現在開催中のCEDEC2021では、「資料を資産へ、スクウェア・エニックスにおけるゲーム開発資料発掘プロジェクト [Wonder Project J編]」と題したセッションにて、スクウェア・エニックス 第四開発事業本部ディビジョン1(プロデュース&制作)シニアマネージャー/プロデューサーであり、当時本作を手掛けた藤本広貴氏とスクウェア・エニックス テクノロジー推進部リードAIリサーチャー三宅 陽一郎氏により、当時の開発秘話や貴重な開発資料が公開された。

登壇したスクウェア・エニックス 第四開発事業本部ディビジョン1(プロデュース&制作)シニアマネージャー/プロデューサーの藤本広貴氏(左)とスクウェア・エニックス テクノロジー推進部リードAIリサーチャー三宅 陽一郎氏(右)

「コンペット」から「ジェペットの息子」、そして「ワンダープロジェクトJ」へ!

 スクウェア・エニックスは、旧スクウェアや旧エニックスを始め、タイトーやクエストなど、各社の資産をアーカイブ化するプロジェクト「SAVE」を推進している。これは各倉庫に眠っている過去の資料をアーカイブ化し、単に箱に詰められた”資料”を価値有る”資産”として再利用を目指すものだ。誰でもアクセスができ、一覧化されてアクセスが容易になった過去の資料は現在の開発者にとって宝の山であるのみならず、今回のCEDECのように社内外に向けて活動内容を発表する広報的な利用も可能で、さらに同社の新人スタッフに向けてはかつて会社がどのような取り組みをしていたかを知る貴重な情報となる。

社内で箱詰めされたまま、埃を被っていた”資料”たち
「SAVE」プロジェクトは過去の”資料”を”資産”として現代に活かし、様々な方面で活用することを目的としている

 そんな取り組みのもとでサルベージされ、今回日の目を浴びたのが「ワンダープロジェクトJ」だ。当時の資料を振り返りながら、本作がどのように生まれたかを語るのは当時のプロデューサー藤本氏。本作は藤本氏の「とにかく新しいものを作りたい!」という熱量によって生まれたタイトルであり、そのヒントになったのはMac上で動作した「犬に芸を教える」というゲーム。これ自体は文字通り犬に芸を教えるだけのものだったが、これをコンピューターペットという形に落とし込み、そして生まれたのが「ワンダープロジェクトJ」の雛形となる「コンペット」だった。なお、藤本氏の熱量は現スクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長の福島康博氏に言われた「100本のゲームの内97本は同じようなもので、3本だけが新しい。ヒット作は100本のうち5本ほどで、そのうち1本は新しい3本の中から生まれている。4/97よりも1/3を狙え!」というアドバイスに後押しされたものでもあったそうだ。

 さて、「コンペット」は企画書の段階で100Pにも及ぶ資料が作成され、操作方法やパラメータ、ストーリーのプロットや裏エンディングの存在までもが設定された。資料を見ると、アイテムを介して画面内のキャラクターに指示を出す、という意味で「ワンダープロジェクト」のコアとなる部分はこの段階で既に完成していたことが伺える。しかし本作、社内で斬新さは理解してもらえたものの、ゲームとしての面白さは当時中々伝えることができなかった。そこで藤本氏は作品としての面白さを見つめ直し、「コンピュターの中にペットがいる」のが面白いのではなく、「画面の外の自分と画面の中のペットがコミュニケーションを取れる」ことにこそ面白さがあることに思い至る。

後に「ワンダープロジェクトJ」に繋がる初期企画「コンペット」。UIなどにその名残が見て取れる

 そしてブラッシュアップされた「コンペット」はリアルタイム育成シミュレーションゲーム「ジェペットの息子」となる。「ジェペットの息子」では「ピノッキオの冒険」をモチーフに、主人公となる命を持った木の人形「ピノッキオ」を”ジェペットじいさんが喜ぶ立派な息子に育て上げる”というストーリーが用意された。主人公が木の人形となったのは、キャラクターを「人間」として設定してしまうと、コミュニケーションの際に少しでも”人間らしくない”描写があるとプレイ上大きな違和感が生まれてしまうからだそう。「ワンダープロジェクトJ」の主人公「ピーノ」は生まれたてで「ボール」の扱い方さえ知らない機械のギジンとして描かれるが、その何もわからないピーノを一人前に育て上げることがゲームの進行の鍵であり、どんどん賢くなっていくピーノの成長はプレーヤーの喜びにも繋がる……という形で、製品版にも繋がるゲームのコアがここで定められている。

 また、この段階では「棒を縦に振る」、「横に振る」、「バットのように振る」など156パターンにも及ぶ動きのパターンも設定された。もちろんこれら全てを採用するわけではなく、想定できるものを全て入れておいて後から削るため、という側面もあったが、これらが記載されたことで企画書のページ数も133P分とさらに膨れ上がる。「コンペット」の約100Pや「ジェペットの息子」の133Pというのは企画書としては異例のボリュームであるが、ここまで丁寧にまとめあげた理由は「実際に作るところまでちゃんと考えていて、開発できる根拠がある」ということを示すためだったそう。それでもやりたいことは伝われど「それ面白いの?」と疑問に思った上司から開発の承認が降りず、藤本氏は実際のゲームプレイの流れを絵コンテに落とし込んで壁に並べて貼り付け、起動からプレイ開始後の操作の導線、そこで体験できる面白さについても説明することで熱意が伝わり、なんとか開発の承認を勝ち取れたのだという。

「ピノッキオ」のモチーフが加えられた「ジェペットの息子」。主人公が”人を模した存在”であることや動作の多彩さは製品版に受け継がれている
藤本氏が壁一面に貼り付け、上司の説得に使ったという絵コンテ。ゲームの起動から導線までを説明しつつ、熱意を持って説得に当たったそう

 いざ開発に着手すると、スケジュールの策定やスタッフィング(各担当のアサイン)が行なわれた。本作においてアニメーションの作画監督を飯田馬之介氏、キャラクターデザインを川本利浩氏が務めているが、飯田氏によるコルロ島やゼペットの研究室はラフの段階でも非常に雰囲気のあるもので、氏の手腕により世界観がどんどん固まっていったという。ここでは資料として川本氏による「ピーノ(その2と印されている)」や「擬人」、「ドロー&ボー」や「擬龍(ギリュウ)」のキャラクターデザインも公開されており、その姿は製品版の「ワンダープロジェクトJ」にかなり近しいものだ。さらに本作ではキャラクターを生き生きと描写するため、当時ドット絵を切り替えて動きを表現した作品が多かった中、原画を基にしたアニメーションを取り込むことでキャラクターの動きを表現。講演ではピーノの走り出すモーションのカットなども公開されていた。

初期のスケジュールはなんと手書き。「修正が大変だった」とは藤本氏の談で、後にデジタルのツールを使用するようになったそう
飯田氏によるアニメーション作画や設定画と、川本氏によるキャラクターデザイン。コルロ島やピーノの姿が確認できる

 ゲームの開発にはデバッグもつきもの。当時は手書きのデバッグシートにデバッガー達が発見したバグをまとめ、必要な際はデバッグシートとともに該当ナンバーの録画データをプログラマーに宅急便やバイク便、時には人力で運んで送っていたりもしたという。なお、藤本氏によれば録画には当時ビデオテープが使用されており、日常的に使いまわしも行なわれていたため画質が劣化し、いざ再生してもバグの内容がわからない……という笑えるような笑えないようなエピソードがあったことも語っていた。

 また、デバッグシートは本来テキストと簡単な図やイラストで用は足りてしまうのだが、当時のデバッガー陣は熱意が高く、丁寧に絵を添えてくれることもあったそう。これはひとえに熱意とタイトルに対する愛情からくるもので、開発で追い詰められている開発陣にとっては「素敵な絵」が心の助けとなった。さらにこうしたコミュニケーションは互いの連帯感やモチベーションにも繋がっていき、時に開発陣からデバッガーに手紙で感謝を伝えることもあったのだという。また、少々ふざけたテイストの「メッサラの正体」など仕様周りの書類が”ユルい”テイストで提出されることもあったことを挙げ、「これはアナログ時代の良さ」だったと振り返った。

デバッグシートには必要以上に丁寧なイラストが添えられることもあり、これが開発陣の力になった
開発陣からはデバッガーに向けて感謝の手紙が贈られた。画像右はメッサラ(作中の重要人物)の仕様書(?)
開発との打ち合わせは開発が落ち着いた夜に行なわれ、そのまま第二企画室(=居酒屋)で更にアイデアを詰めることもあったとか

 こうして完成を迎えた「ワンダープロジェクトJ」。その開発経緯は、こうして「SAVE」プロジェクトによって振り返ることができた。藤本氏は「今も昔も面白いものを作りたいという想いは変わらない」としつつ、「当時は不便だったからこそ工夫や想いや行動、やる気と情熱で突っ走ってたりしたのは良かった。今は昔よりいろいろなものが便利になり、効率も良くなり、ビジネスとしての計算がしやすくなった。その削減された分の労力を、より面白く新しいゲームを作ること、世界中のプレーヤーに楽しんでもらうことに使うのがいいのではないかと思います」とセッションを締めくくった。