【特別企画】

「ドルアーガの塔」40周年! 日本のアクションRPG史上にさん然と輝く名作を当時のゲーセン事情と共に振り返る

全60フロアの宝箱出現方法が解明!? 突如某誌に掲載された情報に困惑するも……

 冬休みが終わり、新学期が始まった1985年の1月上旬。久しぶりになじみのゲームセンターへ集まった友人たちと「ドルアーガの塔」攻略を再開しようとしたところ、ある人がなんだか茶色っぽい紙数枚を横に置きながら本作をプレイしていることに気がついた。どうやらその紙は雑誌のページを切り取ったものらしかったのだが……、これこそが、「ドルアーガの塔」プレーヤーの間で忘れることのできない大事件である、「マイコンBASICマガジン」1985年2月号の切り抜きだったのだ。

 「マイコンBASICマガジン」(通称ベーマガ)は、1982年から2003年まで電波新聞社から刊行されていたパソコン雑誌だ。各機種に対応したゲームプログラムのリスト掲載がメインだったが、83年からはゲーム攻略にも力を入れ始めていた。別冊付録「スーパーソフトマガジン」で全16エリアのマップやソルの位置を掲載した「ゼビウス」攻略回などは、今でも語り草となっているほどだ。そのベーマガが、なんと本作全60階層の完全攻略記事を掲載したのだった。同誌の人気コーナー「チャレンジ! パソコンアドベンチャー・ゲーム」でもヒントは出しこそすれ、そのものズバリの回答は掲載していなかったため(※)、これにはかなり驚かされた。

※……当時のアドベンチャーゲームはコマンド入力式(選択肢などは存在せず、正解となる名詞や動詞をキーボードで直接入力するタイプ)がほとんどで、理不尽とも言えるような難易度のものが多かった

上層のフロアに行くほどモンスターも飛躍的に強くなり、太刀打ちするためにはほぼ全ての階でアイテムを入手しなければいけなかった。そのため、本作の攻略は宝箱を出すための情報が不可欠だった。反射神経頼りだけでは先に進めない、まさに“情報を制すものがゲームを制す”というタイプのゲームだった

 実際の所、記事を見てみると自分たちがフロア14まで進めた攻略法は1/3くらいは正確ではなかった。そして結局、記事を頼りに本作をクリアすることはできた。だが、やはりある意味“ネタばらし”された状況でもあったためか、友人たちはこれを機に本作への興味をなくしていったようだ。

 一方自分はというと、その後もしつこく遊び続け、ファミコンに移植された際は本体ごと購入した。それまで漠然としたイメージしかなかった、中世ヨーロッパ風の剣と魔法の王道ファンタジー(実際は古代オリエントだったが)をゲームとは言え実際に体験できたのだ。それくらい、本作は自分にとって思い入れのある作品だったのである。

段ボール箱とハイスコア――“ゲーセン”の健全化は当時のゲーマーに何をもたらしたか

 ここで「ドルアーガの塔」の話からは少々離れるが、1970年代終盤から1980年代半ばにかけての、当時のゲームセンター事情を振り返ってみたい。ただし、この時期のゲームセンターはほとんどが個人経営の店舗で、地方ごとにその様子などはかなり異なっている可能性がある。その点はご容赦願いたい。

 1978年、日本のゲーム業界に激震が起こった。発売後半世紀近く経った現在にいても、その売り上げで今なおアーケードゲーム史上最大のヒット作である「スペースインベーダー」(以下「インベーダー」)がタイトーから発売されたのだ。

 このインベーダーブームによって、日本中にゲーム筐体が置かれることになった。全国の喫茶店からはテーブルと背もたれ付き椅子が消え、代わりに「インベーダー」のテーブル形筐体が置かれるようになった。スナックやホテルのロビー、スーパーや駄菓子屋の店頭に至るまで、あらゆる場所にインベーダーゲームが進出した。

 「スペースインベーダー」登場以前のゲームセンターは、ピンボールやスロットマシンなどのメダルゲームが主流であった(※)。だがこのブームを機に店舗内のゲーム機を全てインベーダーゲームに置き換えるゲームセンター、通称“インベーダーハウス”が誕生する。そしてこの頃のインベーダーハウスやゲームセンターは、とにかく薄暗かった。

※……「PONG」や「ブレイクアウト」(共にアタリ)など、いわゆるテニスゲームやブロック崩しなどのビデオゲームなども少数置かれていた

 照明を落とした真っ暗な店内にゲーム画面だけが光り、ショットを撃つ音やUFOが出現する効果音がけたたましく聞こえるという、実にアンダーグラウンドな雰囲気が漂う空間であった。光熱費の節約、という側面もあっただろうが、当時のゲーム画面はブラウン管モニターが主流で、室内が暗くないと画面がよく見えなかったのだ。

 そして当時、ゲームセンターは24時間営業が当たり前だった。薄暗く、深夜も営業していて、タバコの煙が漂うような状態だったゲームセンターは、当然のように素行の悪い少年たちが集うようになる。ゲームセンターの中では未成年の喫煙が横行し、カツアゲなどの犯罪行為が多発するようになり、世間からは不良の溜まり場と見なされていった。

 このゲームセンターを取り巻く問題に対しては、1985年2月に施行された改正風俗営業法、いわゆる新風営法(正式には「風俗営業等の規制及び業務の適正化などに関する法律」)によって法による規制が行われている。24時間営業の廃止、年少者の入店時間規制、出店場所の規制などによって健全化が進められ、アミューズメントパーク化した現在のゲームセンターへと繋がっていった。思えばゲームセンターの健全化の象徴とも言えるセガの「UFOキャッチャー」が発売されたのも、新風営法施行と同年の1985年のことだった。

新風営法が公布されたのは、本作「ドルアーガの塔」稼働直後の1984年8月14日。この公布を受け、「ゲームセンターがなくなるんじゃないのか?」などという憶測が当時盛んに流れていた。実際、半年後の施行日以降に営業を取りやめたゲームセンターも少なからず存在した

 だがこれよりもひと足早く、自浄作用とも言うべき動きが業界内で進められていった、店内の照明を明るくし、壁紙などを白くして清潔感を出し、誰でも入れる雰囲気を出そうと店舗側が努力する例が見られるようになったのだ。

 一方この健全化運動は、ゲームセンターに集うゲーマーたちにとって思わぬ弊害ももたらした。当時主流だったテーブル形筐体は上面がガラス張りで、照明をよく反射した。そして明るくなった店内の照明が反射し、プレイに影響を及ぼすまでの事態が発生してしまったのだ。

 そこで店舗のスタッフやゲーマーたちは、次のような方法で対処した。組み立てた段ボール箱のフタ側と側面一面を切り取り、プレイ時に逆さにしてゲーム画面を覆うように被せ、照明を映り込まないようにしたのだ。こうして照明が映り込む位置の筐体には段ボールが置かれるようになったが、照明の映り込まない位置にあるゲームでもダンボールを乗せてプレイする人は少なからずいた。やはり当時のアーケードゲームで使用されていたブラウン管画面は暗いほうが見やすかったので、段ボールを愛用する人は意外と多くいた。

 ここで話は「ドルアーガの塔」に戻る。例のベーマガ完全攻略記事以前の話だ。前述のように筆者たちのグループは遅々として攻略が進んでいなかったのだが、我々より経済力のある年長のグループなどはそれなりに上層の階も攻略が進んでいたようだ(本作の攻略では、情報量と共に経済力も不可欠な要素だった)。そんなある日のこと、友人の1人が興奮気味に声を掛けてきた。「おい、もう少しでドルアーガクリアしそうな人がいるぞ!」と。

 件のプレーヤーが陣取る台にはすでに多くのギャラリーがおり、自分たちも早速その輪の中に加わった。確かその時点でフロア56~57くらいだったかと思う。そしてフロア59に到達した。今まで聴いたことがないBGMを耳にし、ギャラリーの盛り上がりは否が応でも増していった。ただ、その時初めて見た“ドルアーガ”の印象は、黒っぽくてゴチャゴチャしてなんだかよくわからないな、というものだった。4本の足に8本の腕など、当時のドット絵では表現するのが大変だったのだろう。

画面左下にいるのがドルアーガ

 意外とあっけなくドルアーガを倒し、いよいよ最終フロアの60階が始った。だがなぜか件のプレーヤーは主人公ギルを操作することなく、ギャラリーが見守る中刻々と時間だけが過ぎていった。そして残り時間がわずかなことを告げるウィル・オー・ウィスプが出現し始めた頃、それは起こった。なんと、件のプレーヤーが隣の台に置いてあった段ボールを被せ、ギャラリーに画面を見えなくした状態でプレイを再開したのだ。

 おそらくフロア60のクリア方法を他人に知られたくなかったのだろう。こうしてギャラリーに画面が見えないままゲームクリアとなり、これまた初めて聴くことになるエンディングテーマが流れてきた。なんともスッキリしない結末だったが、これが初めて筆者が本作クリアの瞬間を見た(?)ときの顛末である。余談だが、このプレーヤーの行動によって自分たちはフロア60のクリア条件にウィル・オー・ウィスプが関係しているのではないか、と長いこと誤解していた。

 実は、これとほとんど同様の事例が田尻智氏(後年「ポケットモンスター」を手掛けることになるあの田尻氏だ)の名著「パックランドでつかまえて テレビゲームの青春物語」(JICC出版局・現宝島社)に書かれている。これらはおそらく、段ボールが照明の遮光以外に使われた初めて(もしかしたら唯一?)の事例だったのではないだろうか。

 後年、「ファミコン必勝本」誌で執筆されていた連載時のものを読んで「まさか田尻氏も一緒にあの場所にいたのか?」と驚いたものだが、たぶん田尻氏は当時東京近郊で本作をプレイしていたであろうことに対し、自分の場合は関東平野の西の外れにある田舎町のゲームセンター。おそらく、本当に偶然の一致だったのだろう。まさか“フロア60を段ボールで隠してクリアする”というのが当時全国区で流行っていた、といったことはさすがにないと思う。たぶん……。

 1985年1月のベーマガ完全攻略記事の衝撃も覚めやらぬ翌2月に、前述の通り新風営法が施行された。ゲームセンターの24時間営業が禁止され、18歳未満は22時以降入場することができなくなった。筆者たちは放課後ゲーセンに集い、夕飯前には帰宅するという毎日だったので新風営法の影響は事実上ほぼないと言ってよかったが、たった1つだけ残念なことがあった。いわゆるネームエントリーだ。近年ではデータを記録するカードを用いたりオンライン機能を搭載したタイトルも当たり前になり、エントリーしたネームは(記録を抜かされない限り)ずっと残るだろう。しかし当時はそうではなかった。

 ハイスコアをたたき出してネームを入力するということは、当時のゲーマーにとってはある種のステータスだった。1位をたたき出して意気揚々とネームを入力した翌日、別の人に抜かされているのを見るのは本当に悔しく、それがまた他のゲームでも見るような名前だった場合、ライバル心を激しくかき立てられたものだ。またそんなライバル心を燃やしていた相手が、実はたまたまゲーセン内で親しくなった友人だった、なんてこともあった。一緒に遊んでいて、ネーム入力時に「お前だったのかよ!」と驚いたものだ。

 新風営法前のゲームセンターは24時間営業で、ゲーム筐体もメンテナンスなどを行わない限りずっと電源が入りっぱなしだった。しかし施行後は24時間に一度必ず電源を落とされるようになり、それと共にゲーマーたちが入力したネームもリセットされてしまうことになったのだ。「ドルアーガの塔」はハイスコアを目指すようなゲーム性のタイトルではなかったとはいえ、エントリーするネームはいわばゲーマーたちのアイデンティティとも言えるようなもの。新風営法施行による影響のうち、これだけは少なからず残念な点だった。

 思えば、本作「ドルアーガの塔」はアーケードゲームの中で一番お金を注ぎ込んだタイトルかも知れない。少なくとも、エンゲル係数ならぬゲーム係数(というものがあるのかは知らないが)では歴代一位だろう。なにしろ、当時はお小遣いの大半をこの作品に注ぎ込んでいたのだ。「パックランド」、「1942」、「B-WINGS」、「べんべろべえ」etc、etc……。「ドルアーガの塔」と同時期にハマった作品はいくつもあるが、今日に至るまで本作ほどのめり込んだアーケードゲームは他にない。

 今となっては宝箱の出現方法もネット上にあふれており、謎解きそのものを当時のように楽しむ、ということはできなくなっているだろうが、本作が多くの面でエポックメイキングな作品であったことは疑念を挟む余地がない。現在ではアーケードアーカイブスで購入できるほか、多くの機種でプレイすることが可能だ。未経験の人は、この歴史に残る名作をぜひ体験してほしい。

□PS4版「アーケードアーカイブス ドルアーガの塔」のストアページ
□Switch版「アーケードアーカイブス ドルアーガの塔」のストアページ