【特別企画】

映画「風の谷のナウシカ」40周年! 不朽の名作が世代を超えて訴えかけるメッセージを今振り返る

【風の谷のナウシカ】

1984年3月11日 公開

※画像は「風の谷のナウシカ」の公式サイトより引用

 劇場版アニメ「風の谷のナウシカ」公開より、今年で40周年を迎える。壮大な世界観と緻密な作画、魅力的なキャラクターは現在でも深く愛されており、その名を知らぬアニメファンはまずいないであろうほどの歴史的な作品である。現在でも「金曜ロードショー」で定期的に放送されているので、公開当時を知らなくても本作を観たことがある、という人はきっと多いだろう。

 本作「風の谷のナウシカ」は、劇場版アニメ「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年公開)に続く、宮崎駿監督の長編アニメーション第2作目にあたる。原作は1982年からアニメ誌月刊アニメージュに連載されていた宮崎監督の同名コミックで、自らが監督・脚本を務めて制作された。

本作は同時上映として「名探偵ホームズ」のうち、「青い紅玉(ルビー)の巻」「海底の財宝の巻」が公開された。また本作が公開された1984年は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」や「SF新世紀レンズマン」、「少年ケニヤ」、「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」など数多くの名作も公開されている

 国内では第2回日本アニメ大賞最優秀作品賞や日本SF大会星雲賞メディア部門 第1位、第7回月刊アニメージュアニメグランプリ作品賞などをはじめ、海外でも第14回パリ国際SF&ファンタジー・フェスティバル特別審査委員賞(準グランプリ)、ザグレブSF&ファンタジーフィルムフェスティバル第1位、ローマ・ファンタジー&SFフィルムフェスティバル第1位などを受賞。国内はもとより海外でも評価が高い作品だ。

 本記事では40周年を記念し、アニメ史に名を残す不朽の名作「風の谷のナウシカ」の持つ魅力の数々を振り返ってみる。アニメ版のみならず原作コミックについての内容にも踏み込んでいるので、アニメは観たことがあるけど原作コミックは読んだことがない、という人はぜひ最後まで目を通してみてほしい。

ただのヒロイン像に留まらない、物語を牽引する“主人公”としてのナウシカの魅力

 戦争によって汚染され、荒廃した遠い未来の世界設定、とても40年前の作品とは思えないダイナミックかつ丁寧な作画と美術、感情を揺さぶる素晴らしい音楽の数々……。本作の魅力は多岐にわたるが、誰もがまず第一に思い浮かべるのは。なんといっても主人公ナウシカの魅力的なキャラクターそのものだろう。

ジブリ作品に登場する多くの女性キャラクターの中でも、今日に至るまでナウシカは圧倒的な人気を博しており、ベストヒロインと推す声が高い

 70年代、「宇宙戦艦ヤマト」に端を発する第一次アニメブームでは、女性キャラクターが主人公の作品はほとんど存在していなかった。多くは主人公と対になるヒロイン的な存在か、もしくは主人公チームの一員(紅一点)的なポジションだった。当時、女性キャラが主人公の作品と言えば、「魔女っ娘」系の作品など女児向けの作品がほとんどだったのである(例外的に当時“戦う女性主人公”を描いた「キューティーハニー」は大ヒット作となった)。

 そんな70年代の影響がまだ色濃く残っていた頃に登場した本作の主人公・ナウシカは、まさに革新的な存在だった。優しさ・可憐さ・母性的な包容力といった従来のヒロインに求められた要素を備えつつも、さらに一歩踏み出したキャラクター性を併せ持っていた。強さや勇敢さ、カリスマ性といった、いわゆる“ヒーロー”としての資質も兼ね備えていたのだ。昨今では女性キャラクターが主人公の作品は特に言及するまでもないほど一般的となっているが、ナウシカはそんな時代の嚆矢となったキャラクターだと言えるだろう。

 このように“ヒーロー”と“ヒロイン”の資質を併せ持ったナウシカだが、宮崎監督は彼女をただの完璧で理想的なキャラクターとして描くことはしていない。弱さや醜さといったある種人間くさい部分もしっかりと描写しているのだ。後述するが、これは原作コミックで顕著に描写されている部分でもある。

 筆者が特に印象に残っているのは、父であるジルがトルメキア兵に殺害されたシーンだ。父の亡骸を見て激昂し、飛びかかろうとするナウシカ。その瞬間、肩に乗っていたキツネリスのテトが怯えて飛び降りてしまうのだ。ナウシカにずいぶんと懐き、片時も離れようとしなかったテトが逃げ出すほどの巨大な“怒りの質量”を一瞬で描写して見せたあのシーンは、とても秀逸な演出だったと言えるだろう。このような怒り――より正確に言えば他者への“殺意”を見せるようなヒロインは、従来のアニメにはほぼ見られなかった。皆無と言ってもいいくらいだ。

 既存のステレオタイプなヒロイン像に囚われないナウシカの複雑なキャラクター像は、男女の区別無くファンからの人気が高い。映画「風の谷のナウシカ」が40年も愛される理由の多くは、とりもなおさず主人公ナウシカの魅力そのものであると言っても決して過言ではないだろう。

緻密な作画と巧妙な演出の妙が織りなす“絵の力”。その圧倒的な説得力が描く荒廃した未来世界

 宮崎駿監督のアニメ作品といえば、緻密かつダイナミックな作画をまず思い浮かべる人も多いことだろう。「未来少年コナン」で空を飛ぶ最終兵器ギガントの翼の上を疾走するコナンしかり、「ルパン三世 カリオストロの城」序盤のカーチェイスシーンしかり。どれもまさにアニメーションならではのアクションとカメラワークで、強く印象に残るシーンだ。

 そして本作「風の谷のナウシカ」でもまた、40年前の作品とは思えないような目を見張るシーンが数多く存在する。しかし決して作画のパワーだけに頼らない見事な演出が、文明崩壊後のはるかな未来世界に説得力を持たせている。

 例えば序盤のシーン。はるか上空から腐海の境界を見下ろすと、トリウマに乗った男が森から砂漠へ飛び出してくる。メーヴェに乗ったナウシカが男(ユパ)を誘導するために近づくと、森の中から木々を蹴散らして巨大な王蟲が出現する――。腐海に飲まれた廃村をユパが訪れる最初のシーンに続いて、文明崩壊を描いたタペストリ(これは宮崎監督自らが描いたものとのこと)による歴史絵巻。世界が腐海に浸蝕されていること、そこには巨大な節足生物である“蟲”が生息していること、そして蟲たちは人間にとって脅威になり得るが、主人公のナウシカは腐海と蟲たちを必ずしもそうとは見なしていないことなど。ほとんど台詞がないにも関わらずそれらのことがすぐに理解できる、実に秀逸なオープニングだ。

身体を生物的に伸縮させ、無数の脚をせわしなく動かしながら猛スピードで迫る王蟲は、生理的な嫌悪感すら抱かせる。これらの生物的な動きは、外殻ごとにセルを切り分け、ゴムバンドでつなぎ合わせてゴムの伸縮によって表現した「ゴムマルチ」という技法によるもの

 他にも先に述べた父の死にナウシカが怒りで我を忘れるシーンや、アスベルのガンシップがトルメキアのバカガラス船団を襲うシーン、雲を突き破って出現したコルベットがメーヴェで逃走するナウシカを追撃するシーン、クシャナの背後から巨神兵の巨大な頭部がヌッと現れるシーンなどなど……。本作における名シーンを列挙すると、文字通り枚挙に暇がないほどだ。その作画レベルと演出は、本当に40年も前に制作されたものなのかと疑念を抱いてしまうくらいである。最新技術で制作された現在のアニメ作品と比べてもまったく遜色のない、極めて高い完成度には改めて瞠目するばかりだ。

作中屈指の名場面である巨神兵と王蟲の群れが対峙するシーンは「腐ってやがる。早すぎたんだ」などのネットミームを後の世に生み出した。この巨神兵が登場するシーンは「新世紀ヱヴァンゲリヲン」の庵野秀明監督が作画を担当している

現代社会と地続きの荒廃した世界。ポスト・アポカリプスの世界観は現代人に何を問いかけるか

 文明崩壊後の荒廃した未来世界――いわゆる“ポスト・アポカリプス”の世界観もまた、本作の大きな魅力だろう。世界を焼き尽くした「火の七日間」によってかつての科学技術は失われ、土壌は悉く汚染された。大地は錆とセラミック片の砂漠となり、人々は徐々に広がる腐海が吐き出す瘴気と蟲たちに怯えて暮らしている。そして限られたわずかな土地を耕し、細々と生活を営んでいる――。

巨大な人造生命体「巨神兵」が旧文明を壊滅させ、汚染し尽くした最終戦争「火の七日間」。地を埋め尽くした無数の巨神兵も作中の時代では活動を停止し、化石と化している。なお原作コミックの巨神兵は、牙に古代文字(漢字)で「東亜工廠」と商標が刻まれている。このことから、どうやら日本の企業が制作に関わっていたらしいことが分かる

 宮崎監督の作品のうち、特に初期のものには“一度崩壊した世界”を描いたものが多い。1978年放送のTVアニメ「未来少年コナン」、1983年アニメージュ文庫から発売された絵物語「シュナの旅」、そして本作「風の谷のナウシカ」などだ。

 「未来少年コナン」では超磁力兵器による戦争で地球の地軸がねじ曲がり、ポールシフトが発生。五つの大陸は変形し、多くの都市が海に沈んだ。本編ではその20年後(西暦2008年7月に超磁力兵器が使用されたので、2028年頃だと思われる)から物語が始まる。「シュナの旅」では明確な描写はないが、“大地がくさって穴となり”“人々の遺したものだけが時の彼方へ去ろうとしている……”という部分がある。現在の世界がかつてより荒廃しており、また過去に発展した文明が存在していたことが示唆されている。

 宮崎監督作品以外でも、一度文明が崩壊した後の世界を描いたSF作品は数多い。「ナウシカ」の元ネタの一つと言われているブライアン・W・オールディスの「地球の長い午後」をはじめ、アレクセイ・パンシン「成長の儀式」、ヴォンダ・N・マッキンタイア「夢の蛇」、オースン・スコット・カード「辺境の人々」など。本邦の作品でいえば筒井康隆の「旅のラゴス」や山田正紀の「宝石泥棒」がそれに当たるだろう。またアニメやコミック、映画などでは「マッドマックス2」「戦闘メカ ザブングル」「北斗の拳」「今、そこにいる僕」「進撃の巨人」「Dr.STONE」などが該当する。ゲームでは「エーベルージュ」「パンツァードラグーン」「メタルマックス」シリーズなどなど。

 いずれの作品の世界観もそれぞれに魅力的だが、本作「ナウシカ」では他の作品ではあまり見られない1つの特長がある。それは、「文明崩壊時に発生した汚染が未来世界の人々を苦しませている」という点だ。多くのポスト・アポカリプス作品では、文明崩壊後に文化・技術レベルは中近世の前時代レベルまで後退するが、文明の崩壊に起因するものが直接的に未来世界の人々の脅威になることはあまりない(「ゾンビもの」はこれに該当するが、それらは別ジャンルとして考えるべきだろう)。

 例えば「パンツァードラグーン」シリーズでは前文明の負の遺産ともいうべき“攻性生物”が敵対的な存在として登場するが、人類の存続そのものを脅かすほどの脅威としては描かれていない。他の作品でも、せいぜいが文明崩壊後の大自然に対抗する人類という、映画「もののけ姫」でも描かれたような“自然vs人間”の二項対立に留まっていることがほとんどだ。

 しかし、本作「ナウシカ」ではやや異なる。現代の文明社会に生きる現生人類の遺した業が、はるかな未来世界の人々をなお脅かしている。「ナウシカ」では、自然の圧倒的な脅威に対して人々は限りなく無力だ。腐海は拡大を続け、森が吐き出す瘴気と蟲たちによって人類は再び滅亡の道へと追いやられている。この厳しい現実の前では、ナウシカの目指す“腐海や蟲たちとの共存”など夢想に過ぎないのではないかと思えてしまう。

「未来少年コナン」では美しく自然が復活した世界が描かれた。「コナン」で描かれた自然は厳しくも優しく、人に恵みを与えてくれるものだったが、それとは対照的に映画「ナウシカ」の自然ははるかに苛烈で、人に対して容赦ない脅威としての存在に描かれている

 とはいえ物語のラストでは“自然との共存”は可能性として残され、文字通りわずかな希望が芽吹いた形で終わる。つまり映画「風の谷のナウシカ」は、荒廃したこの世界においてもなお希望が残されている事を示唆しつつ幕を閉じる。本作の序盤では暗く不気味な場所として描かれていた腐海が、エンディングでは対照的に、まるで希望に満ちた場所だといわんばかりに明るく、美しくさえ見えるように描かれている点に注目したい。

映画とはかなりテイストが違う!? 原作コミックの暗澹たる世界設定とその結末

 かくして物語はハッピーエンドを迎える。“奇跡”によってナウシカは復活し、人間と蟲たちは分かり合えることが示された。クシャナ率いるトルメキア軍は本国へ撤退し、ペジテ市の生き残りと風の谷の人々は手を取り合って生きていく。ユパとアスベルは“青き清浄の地”を求めて腐海の底へと旅立ち、そこではチコの実が芽吹いている――。

映画のラストシーン。ナウシカの犠牲によって王蟲たちの怒りは解け、風の谷の人々は救われる。谷に古くから伝わる預言が成就した瞬間だ

 映画ではこのような結末を迎えた。だが実はそのストーリーは原作コミック全7巻のうち、2巻目の途中までに描かれていた部分となっており、原作ではその後も物語が続いている。また映画と原作では、設定が大きく異なる部分がいくつも存在する。そこで、最後に映画版と原作コミックの違いについて触れておこう。

 映画では、ペジテ市で掘り起こされた巨神兵を輸送中の船が風の谷に墜落し、それを奪取するべくトルメキア軍が侵攻した、という形になっている。つまりは風の谷vsトルメキアという構図だが、原作では風の谷やペジテ市などの辺境諸国とトルメキアは、決して敵対するような関係ではない。むしろ風の谷を含む辺境諸国はトルメキアと同盟関係にあり、原作ではクシャナが風の谷に訪れた本来の目的は、トルメキアの開戦にあたって盟約に従い、同盟国も参戦するよう要請するための来訪だったのだ。

映画では悪役、敵役と言っていい立場だったトルメキア皇女・クシャナ。だが原作コミックではやや異なった描かれ方をしており、ある意味ナウシカの“戦友”と呼べるようなキャラクターとなっている。多くの兵を率いる将としての人物像がかなり掘り下げられており、ナウシカを表の主人公とするならば、さながらクシャナは裏の主人公とも呼べるような存在となっている。そういった意味で、彼女は映画版と最も違う描かれ方をしているキャラクターだと言えるだろう

 トルメキアと戦争を開始するのは土鬼(ドルク)諸侯国連合という国で、原作ではトルメキアと並んで作中屈指の大国だが、映画では登場していない。映画で王蟲の子を使い風の谷へ王蟲の大群を向かわせたのはペジテ市の残党だが、原作では土鬼の工作員となっている。またクシャナは巨神兵を用いて森や蟲たちを焼き払おうとはしていないし、ナウシカの父ジルもトルメキア兵には殺されておらず、原作では瘴気の影響による病死となっている。そして、腐海が生まれた経緯やその役割、巨神兵の本来の存在意義など、映画では描かれていなかったいくつかの重要なことが説明されている。

 なによりも原作コミックでは、映画版のような“奇跡”は起こらない。その終盤には、ある意味ナウシカのエゴとも言える行動によって世界の命運が決定されるような展開が待っている。とある秘密を知ったナウシカはそれを秘めたまま生きていくことを選択するが、もしそのことをあの世界の人々が知ってしまったら……、もしかしたらナウシカは、トルメキア皇帝や土鬼皇弟ミラルパの悪名をはるかに凌ぐ“魔女”として、後世に伝えられるような存在になっていたかも知れない。映画版のクシャナがいう「腐海を焼き、蟲を殺し、人間の世界を取り戻すのに何を躊躇う!」というセリフは、あの世界に生きる人々にとっては“正しい選択”となり得たかも知れないものだったのだ。

 このように、映画版と原作コミックではかなり印象が異なっている。希望に満ちて幕を閉じる映画版とは逆に、原作コミックは重く、暗い。だがその方向性は異なってはいるとはいえ、映画版同様に原作コミックもまた名作と称されるに相応しい物語だ。原作を未読であるならば、この機会にぜひとも手に取ってみてほしい。

40年間色褪せることのない普遍的なテーマ性。「ナウシカ」は次世代に語り継ぎたい名作である

 40年前、世界は東西冷戦の真っ只中だった。80年代に入りデタント(緊張緩和)が進んだとはいえ、第二次世界大戦以降叫ばれ続けた軍縮とは裏腹に、米ソの核軍備競争は止まるところを知らなかった。ひとたび全面戦争が起きれば人類は滅亡する、という最悪のシナリオが、現実の脅威としてひしひしと感じられるような時代だったのだ。「戦争を起こしてはいけない」「もし戦争が起きたら世界はどうなる?」と、誰もが想像を巡らせていた。「マッドマックス2」「ザ・デイ・アフター」そして「ターミネーター」など、最終戦争後の荒廃した世界を描いた映画作品が80年代に多数制作されたのも、そういった世相を反映してのものだろう。

 映画「風の谷のナウシカ」は、そんな時代に公開された作品である。最終戦争やその直後の時期は直接描かずに、それらが伝説として語られるようなはるか1000年後の未来を舞台にした作品だ。そんな遠い未来においても人類の犯した愚行は風化せずに、なおその時代に生きる人たちを苦しめている。

 映画では感動的なハッピーエンドを迎えたが、現代を生きる我々はこの物語をただ「めでたしめでたし」で終わらせてはいけない。「火の七日間」のような禍根を未来に遺さないためには、どうしたらいいのか。本作「風の谷のナウシカ」は――引いては宮崎監督は、観る者にそのような問いを投げかけている。本作の視聴者は、そのことをよくよく考えてみるべきだ。40年間、本作は変わらぬメッセージを提示し続けている。きっと10年後、20年後、100年後までも、これまでと等しく評価され、また愛される作品であり続けることだろう。