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【年末記念企画】ネタバレ大注意! 「レッド・デッド・リデンプション」真の主人公はダッチだ!、俺に「ダッチ」の全てを語らせろ!

10月26日 発売予定

価格:
8,800円(税別、パッケージ版)
10,800円(税別、スペシャル パッケージ版)
12,800円(税別、アルティメット パッケージ版)

 まず最初に、このコラムはネタバレ全開である。「レッド・デッド・リデンプション」(RDR)、「レッド・デッド・リデンプション」(RDR2)どちらのラストも詳細に書いている。ラストを迎えたからこそ語りたいことが出てきたので、特別に許可をもらって語らせて貰った。これから読む人は注意して欲しい。

 先日「RDR2」をエピローグ含めて全てクリアした。ストーリーを一通り満喫したところでどうしても語りたいことがある。そこで「特別企画」として、ネタバレ全開で「RDR2」そして前作「レッド・デッド・リデンプション」(RDR)を語らせてもらいたいと思う。

 最初にいきなり結論を言わせてもらうが、「『RDR』シリーズはダッチの物語だった」ということだ。

 俺は、視点を変えることで異なる物語が見えてくる作品が大好きだ。例えば「機動戦士ガンダム」は主人公のアムロの視点では1人の男の成長の物語として楽しめる一方で、ライバルのシャアの視線ではジオン軍の指揮官でありながらも、ザビ家という父の仇を討つ目的を胸に秘めた男の孤独な復讐の物語としても楽しめる。

 そんな異なる視点で物語を俯瞰していたら「RDR」シリーズの真の主人公はダッチだと気が付いた。何故こう断言できるか、それは物語の中心は常にダッチだったからである。俺はダッチが主人公であるからこそ「RDR」シリーズは物語として素晴らしい完成度となったし、ダッチという人物を語ったからこそ、「RDR」シリーズの物語はプレーヤーの心に刻み込まれたんだと確信している。

 なぜ俺がこんな思いに至ったのか。シリーズを通して謎が多く、未だに理解できてない人も多いであろう、ダッチという人物は結局どんな人間だったのか、それをぜひ語らせて欲しい。

 繰り返すが、この文章は完全にラストのラストまで書いている禁断のネタバレコラムである。「RDR」、及び「RDR2」の結末を知りたくない人は読まないで欲しい。クリアした人は、ぜひこのコラムで筆者が提示した視点を考えて欲しい。

今回は「RDR」シリーズの真の主役がダッチではないかということであれこれ語らせてもらうことにするぜ。「RDR」と「RDR2」のネタバレ盛りだくさんでお送りする事になるので、ストーリーが途中の人は注意してくれ

俺とダッチはこうして出会った。第1印象は「狡猾かと思いきや……拍子抜け」

 俺が「RDR」で一番強く印象に残っているダッチのシーンは、物語の終盤、主人公・ジョンが元ダッチギャングのボス、ダッチの居場所を襲撃して仕留めるというミッションでのダッチの姿だった。本編の中でもちょいちょいジョンの口からダッチについての言及があったが、イカれた野郎、狂ってしまった男、という以外は特に印象に残っていないが、その表現からかなり凶悪なヤツが出てくるんだろうとドキドキしていたし、実際に初対面では容赦なく人質の女性を殺害し、まんまと逃亡する狡猾な相手だった。

 ところがダッチとの最終戦は正直微妙だった。前半は大量の部下たちが守る強固な砦を少しずつ切り崩していく激しい銃撃戦が展開したが、いざダッチと対峙するとダッチはすぐに手に持っていた銃を捨ててしまう。そして何やら話をしたあと、最終的にはそのまま身を投げて死んでしまう。ここまで何もせずに死んでいったラスボスはあまり見たことがなくて拍子抜けした。なので、このダッチの死が「無法者の終焉」を示しているのかな、くらいの軽い感じで解釈していた。

「RDR」ではダッチギャングの最後のメンバーとして登場する。前半は強固に守られた砦の奥で構えているのでなかなか近づけない
廃坑の奥へと逃げていくダッチを追うジョン。途中途中でジョンに対して負け惜しみのような言葉を投げかけてくる
崖に追い詰められたダッチは早々に銃を捨て、色々と言葉を投げかけてくる。こちらとしては、いつその銃に再び手を伸ばすのかとドキドキしていたので、初見の時はあまりセリフが入ってこなかった

 そして、 初見の時、俺は「RDR」の最後が気に入らなかった。普通に考えたら、政府の依頼を受けて仕事をこなしてきたジョンが最後に政府のターゲットになって殺されてしまう。しかもジョンは私利私欲で政府の仕事を請けたわけではなく、愛する家族のアビゲイルやジャックを守るために政府の仕事を請けたのだ。それがなぜこんな露骨な裏切りを政府から受けなければならないのか。

 加えて言うなら、最後にジャックがジョンの後を継ぎ、敵討ちに向かうというラストも、本を読むのが好きだったジャックのキャラクターと矛盾する感じが気に入らなかった。

 「RDR2」の発売が知らされ、その内容は「RDR」の前日譚としてダッチギャングの話になると聞いた。ジョンが語っていた「狂ったヤツ」、「変わってしまった」といった表現を鮮明に覚えていた俺としては、ここでダッチの変化が見られるんだろうなと思いつつ、ゲームプレイを開始。すると、確かに「RDR」で登場したギャングメンバーたちを率いて颯爽と逃亡するダッチがいた。俺のイメージとは異なる凛々しいギャングリーダーの姿がそこにあった。

 物語は「RDR2」の主人公・アーサー目線で物語は進んでいたが、序盤のダッチは確かに理想のリーダーとして見えた。仲間のショーンが厳重に警戒されたブラックウォーターに捕まっていると聞けば、助けにいくように指示を出す。事前に偵察を指示してから、実行部隊としてアーサーを派遣するなど、投げっぱなしではなく、的確な指示だ。しかもブラックウォーターには大量の金が残してあるはずなのに、そちらについては慎重で、何度言われても取りに行こうとしない。また、ライバルのギャング、コルム一味に夫を殺された女性、セイディを見つけると、殺すのではなく連れて帰り、保護してそのままギャングの仲間として迎え入れる。金より仲間の命を重視する素晴らしいリーダーとして描かれていた。

「RDR2」登場のダッチは渋い顔立ちのイケてるリーダーの印象だ。追われてる立場ながらもコルム一味のアジトを襲撃したり、列車強盗を計画したり、遭難したジョンを助けたり、実に活発だった

 ところが、後半になってくると、アーサーや仲間の言動にもあるように、確かにダッチの様子が変わってくる。サンドニの街での活動が中心になるくらいから、焦りの表情が明らかに増え、言動にも余裕がなくなる。銀行強盗に失敗して島に向かい、戻ってきた辺りからは、ジョンが囚われたと聞いても積極的に助けに行かなくなるし、最終章になるとアーサーが完全にダッチと敵対するようになり、イラついている描写が増えるので、明らかに変わったように見える。そのため、この頃になると生き残った仲間たちはどんどんギャングを離れていく。

 特にアーサーとセイディが独断でジョンを救出して戻ってきた時のダッチのリアクションは呆れでもなく、喜びでもなく、怒りだった。ここでの怒りの発言は確かにダッチのいう事も一理あるのだが、絞首刑が噂されていただけに、ちょっと動きが遅すぎるようにも感じた。

 そして、本編の最後には、誰も連れていくことなく、ダッチ1人でどこかへと立ち去っていく事で物語は幕を閉じる。こうして全体の流れをざっくりとアーサーやギャングの仲間の視点から見ると、ダッチは確かに変わってしまった。仲間の事を考えずに、とにかく自分の計画を実現しようと1人で歩を進めようとするダッチは、かつての仲間を引っ張り、仲間のために力を尽くすための計画を立てていたダッチではないし、そう見えるということは納得できる……しかし、実はそうじゃないんじゃないかと、俺は考えるのだ。

仲間たちからの信頼も厚く、逃亡して潜伏しているようには見えない
ピンカートンの影がちらつき始めたあたりから、ダッチの顔色に焦りが見え始める。特に後半に進むにつれて、その焦りは顕著に顔に出るようになってくる

ダッチの視点で見えてきた「RDR」シリーズの真実、前作のラストの不満が消えていく衝撃

 こうした全体の流れを踏まえて、ダッチの視点を意識して再度「RDR2」の流れをみてみると、ダッチの真実が見えてくると筆者は思う。

 ダッチの視点で見ると「RDR2」前半の展開にはまだ余裕が感じられた。土地勘のない東の地域に逃亡し、潜伏している立場ながらも、ピンカートンなどの追っ手も姿を見せないため、ダッチもメンバーたちも自由を謳歌していた。余裕がある状態だからこそ、大胆な列車強盗を計画して金を稼ぎつつ、仲間を救出に行くだけの余裕があったということだ。

 ところが、せっかく潜伏していたのに、村で事件を起こしたり、ピンカートンの追っ手の姿が見え始めてくると、そんなダッチの余裕がだんだんとなくなってくる。余裕がなくなってくると、ダッチの行動や発言にも焦りが見え隠れしてくる。他の仲間に対してはあまり表立って厳しい事は言わないが、付き合いの古いアーサーに対しての言動はかなり厳しくなってくるのがわかる。

時折険しい顔も見せるが、「RDR2」前半の展開ではあまり切羽詰まった様子は感じられない

 時にはギャングの仲間に対する愚痴もいうようになるし、アーサーの助言に対しても反論ができなくなり、「少しは俺を信じろ」、「精一杯やってる」などの言い訳が増えてくる。ただ、そんな状況においても仲間たちに対しては常に口癖のように「大丈夫だ、俺を信じろ」と声をかけて励ます。

 こうした一連の流れを見ていると、筆者はダッチ自身が変わったようには見えない。こうした言動からは、仲間が全員生き残れるようにと1人で必死に足掻いている様子が伺える。実際に物語が大きく動くような大胆な計画は常にダッチ1人で立てられていたし、補佐するホゼアやマイカ、そしてその計画を他の仲間とともに実行する現場のサブリーダーとしてアーサーがおり、彼らの存在が必要不可欠だったのは確かだったが、原則としてダッチギャングの計画は常にダッチ1人で立てられていた。

 ただ、ダッチの計画がことごとくうまくいかなくなり、追っ手の出現が迅速になってくるため、時間的な余裕がない焦りが、後半になるにつれてどんどん増しているのがわかる。実際、ダッチは後半になると「時間をくれ」としきりに時間の余裕がない事を周囲に訴える。それは計画のための準備の時間が足らない事を意味しているだけでなく、時代の流れに対して、もう少し抗う時間がほしいと願う発言のようにも見える。その結果、不完全なままの計画を無理に実行して、余計に失敗が増えているようにも感じられる。

後半に向かうにつれて愚痴が増えてくるように感じる。特にアーサーへの言動はかなり厳しいものになってくる

 こうした「RDR2」の一連の流れを見た後で、再度「RDR」の終盤、ジョンに語りかけるダッチのセリフを見ていると、そのセリフからダッチの変わらなさを実感できる。ジョンに追い詰められたダッチが挨拶してから出した一声は「計画があるんだ」なのだ。恐らく完全な計画はないと思うが、それでもジョンと2人でもできる、何かの計画の漠然とした形が頭の中にあったであろうことは、「RDR2」を見た後だと間違いないと確信できる。

 当然、ジョンはそれに取り合わないし、それを承知でダッチも声をかけているように感じる。やはりダッチは変わっていないのだ。一方でアビゲイルとジャックを守るために、連邦政府のいう事に従い、ビルやハビアを手に掛け、最後にダッチを追い詰めたジョンが変わったことは間違いない。

 その後、自然には逆らえないし、俺自身も変えられないと語り掛け、最終的に「俺たちの時代は終わったんだ、ジョン」と同じ無法者の1人としてのジョンに声をかけたあと、ダッチは崖から飛び降りて死を迎える。このセリフについても、1度クリアした後だと、すでにこの段階で、ジョンが連邦政府の手によって命を奪われるその後の展開を予知していたかのような重みが感じられて、改めて驚かされる。

 ダッチが言いたかったのは、おそらく人間自身が本当に変わったとしても過去を知る周囲の目からは変わったと思われない、という事だったのかもしれない。

「RDR」での最後のダッチのセリフを改めて見直すと驚愕の連続だ。当時からある程度キャラクターの裏付けがしっかりできていなければ出てこないセリフだ

 そしてこの事自体は実際に「RDR2」のエピローグで、ギャングから足を洗ったはずのジョンが雇ってもらった牧場を守るため、近所に潜むギャング団退治に出かけてしまう事で自ら体験しているのが面白い。この行動自体はジョンなりの雇ってくれた牧場主への恩返しのつもりだったと思うが、恐らく牧場主はある程度ジョンの素性を知った上で、暴力沙汰の得意な従業員として、用心棒的な意味合いも兼ねて雇ったのだと思われる。しかし、ジョン自身は周囲の目では変わっていないように見られているという悲しい現実に気が付かず、いつか変われると信じて牧場を買い、家を買って生活を変えようと苦心するのだ。
 「RDR」だけプレイしていてもダッチの言葉はあまり心に響かなかったのに「RDR2」を通して見た後に、再度見直すことで息が吹き込まれたように鮮明に蘇ってきたことに衝撃を覚えた。

 筆者は「RDR」のダッチの対決の時、「俺たちの時代は終わったんだ、ジョン」と言われてもダッチが死ぬときの言い訳にしか聞こえなかった。家族をしっかりと得て、農場で生計を立てようとしているジョンが、「最後のギャング」として、政府に殺されるそのラストは、全然納得できなかった。ジョンは折角変わって政府の仕事まで手伝ったのになぜ? ダッチのような狂人と違うじゃないか! そう思った。しかし、「RDR2」をプレイしたとき、マイカへの復讐のために、家を出てしまうジョンを見たとき、筆者はジョンもまた「時代から追いやられていく西部の男」であることを確信したのだ。ダッチは正しかった。

 また、ジャックの復讐劇についても納得できるようになった。政府の人間であっても、ジョンを騙して動かすような人間は、やはり同じように復讐の対象となって裁きをうけるのだと。こうした「RDR2」をクリアすることで得られた納得が「RDR」の筆者のラストの不満を全て消し去ってくれた。

 「RDR」のストーリーを振り返っても、ダッチの登場は終盤だけだが、物語全体の流れとして見た場合、ジョンが追っていたのはビルやハビアなど、ダッチギャングのメンバーであり、連邦政府の目的はダッチだった。そしてダッチの昔の仲間たちがダッチギャング時代の思いを胸に交錯するドラマに終始していた事からも、「RDR」もダッチがその中心にいた事となる。ダッチがいなければ「RDR」も「RDR2」も成立しなかったのだ。

ダッチの真実は「自分以外何も信じない男」

 筆者が「RDR」、「RDR2」をプレイして到達した結論は、ダッチは変わっていない。そしてダッチが変わっていないということは、つまりダッチは「自分以外何も信じない男」として、最初から最後まで変わらずに自分を貫き通したということだ。

 「RDR2」のメインストーリーの終盤、マイカの裏切りを知ったアーサーがキャンプに戻ってダッチに問いただすシーンがある。ここで問い詰められたダッチは一瞬だが明らかに驚きの表情を見せる。つまりマイカの裏切りに気が付けなかったほどに切羽詰まっていたということなのだろう。

 だが、これに対してダッチが取った行動は、マイカとアーサーの両者に銃を向けて、「俺に忠実なのは誰だ?」と問いかける。この後、ピンカートンの追っ手がくるため、ここでの抗争は発生せず、以後、仲間たちは散り散りとなるが、最終的にジョンを逃がしたアーサーとマイカの一騎打ちの場面でダッチが再登場する。ここでのダッチは殆ど何も言わず、アーサーに対してのみただ「終わりだ」と声をかける。

マイカの裏切りを初めて聞いた瞬間に見せる何とも物悲しい表情。この後、ダッチは「俺に忠実なのは誰だ」と問いかける。ここで「誰だ」とギャングメンバー全員に聞いているのが非常に興味深いところだ

 エピローグでジョンやマイカと対峙するシーンでもダッチが再登場するが、この時もダッチはマイカを追ってやってきたにも関わらず、マイカとは一言も口を聞いていない。そしてジョンに対してもあまり多くは語らず、ここでジョンに対して「俺は精一杯やってた……」と声をかけるのだ。最終的にジョンとの会話が一通り終わると、そのまま無言でマイカを撃つ。そしてマイカが死んだあと、ジョンがダッチに対して何か言おうと口ごもっていると、その横を無言で立ち去っていってしまう。

 ここでダッチがブラックウォーターの金に一切手をつけずに立ち去るのも興味深い行動だ。単に金が目当ての男なら少なくともここに金は残っていないはずだ。そして裏切り者だったジョンを生かしたままその場を立ち去るというのも不思議な話だ。

 だが、これら全てのエピソードを総合して考えた時に、筆者がわかったと感じたことが1つある。つまり、ダッチははじめから「自分以外何も信じていなかった」ということだ。ただし自分に助けを求める者には手を差し伸べるが、自分のやりたい事はあくまでも自分のやりたい計画を立てて実行することのみ。これこそがダッチの本質だったのではないだろうか。

 ダッチギャングはいわば、ダッチに救いを求める者たちの集まりだったと考えると、「RDR2」の一連のダッチギャングの行動についても合点がいく。ダッチギャングのメンバーたちは全員が何かしら問題を抱えていた。そんな彼らがダッチに救いを求めていたからこそ、人種も性別も差別せず、ダッチは全てを受け入れ、彼らのために尽力してきたのだ。

アーサーやギャングメンバーたちに何かを訴えたあと、ダッチは大抵この「俺を信じるか」と念を押す。これもダッチの1つの口癖なのかもしれない
切羽詰まってくるとダッチは「精一杯やってる」という言葉がよく出てくるようになる。「RDR2」で後半になるほどこのセリフが多くみられるようになってくるのが面白い

 一方で、ダッチは自分に従わない者には冷酷だ。余裕がある時なら紳士的なふるまいも見せるが、余裕がない時は自分の命を最優先に考え、次いで自分に従う仲間である“家族”を守ろうとする。そういう観点で「RDR2」の物語を見直してみると、アーサーとの対立も終盤だけでなく、最初から最後まで割としょっちゅう対立していたが、余裕のある頃は、そんなアーサーの意見を受け入れる場合もあったし、我を通す際にも理由付けがしっかりできていた。余裕がなくなるにつれ、段々と愛想が悪くなり、自分を信じないアーサーを避けるようになっていき、最後は見殺しにしたという展開にも合点がいく。

 そしてマイカの裏切りを知らされたダッチがそれ以降、マイカとは一言も口をきいておらず、最後の最後に銃でとどめを刺すその時ですら、ただ銃で一発撃つのみで何の声もかけない、というのも同じ観点で見てみると面白い。マイカに対する怒りが凄まじかったのだろうと思われるが、それと同時にその怒りは裏切りに気が付けなかった自分の不甲斐なさへの怒りでもあったのだろうと解釈できる。そう考えるとマイカと共に稼いだブラックウォーターの金に一切手をつけずにその場を去るのも納得がいく。

ダッチはジョンと話す間はずっとジョンに向かって銃口を向けている。この会話のあと、ダッチはいきなり狙いを変えてマイカに一撃をお見舞いする。ところで、エピローグの最後はジョンとマイカ、セイディとダッチの4人だけがこの空間に存在する。この状況が実はジョンを除くとチャプター1で最初にセイディが救出された時と同じメンバーというのが興味深い

 ということで、ダッチ視点での「RDR」、「RDR2」について、そしてダッチ自身の人間像について語ってみた。結局のところ「RDR2」と「RDR」を通してダッチは何も変わらなかった。変わったのは時代と周囲の人間たちだったのだ。

 この視点で見ていると、最終的に自分のためだったとはいえ、多くの仲間のために時代の波に抗って生きてきたダッチの信念にひたすら敬服しかない。もしもダッチを信頼してきた昔からの仲間であるホゼアやアーサーがもっと長生きして、引き続きダッチと行動を共にしていたら、本作の展開は全く違ったものになったのかもしれない。

 ダッチ視点で再度「RDR」シリーズをプレイするなら、是非前作の「RDR」も合わせてプレイしてみてほしい。終盤のダッチとの駆け引きを含めて、今まで大した事がなかったダッチの言葉が深く胸に突き刺さるようになる。ここまで見え方がガラッと変わった作品は自分の中ではゲーム、アニメ、マンガを通じて見たことがない。今回の筆者の語りはあくまでもゲームプレイの中で俺が感じた話ばかりだが、直接的に語られていない仕草などからこうした考えが想いを巡らせられる「RDR」シリーズの懐の深さには改めて驚かされる。是非その感動を実際のプレイで味わってみてほしい。

最後に「RDR2」で思わずおぉとなったダッチのセリフだ。騎兵隊に追われて、崖に追い込まれたダッチが妙案を思い浮かぶ。そこでのこのセリフが正に「RDR」の終盤、ジョンの手により崖っぷちに追い込まれたダッチが言うセリフとほぼ同じなんだ。これに気が付いた時は「これもダッチの口癖か? 」と思わず笑ってしまった