インタビュー

欧米で絶大な支持を集める大阪人ゲームクリエイターSWERY氏インタビュー

1年間の休養から、新会社設立、今後の目標、傾き続ける理由まで、まるっと聞いてみた

1月収録

 日本は世界の中でももっとも長い歴史と伝統を持つゲーム大国であり、きら星のように無数のゲームクリエイターが存在し、日々、新たなゲームを生み出し続けている。それらのゲームをプレイする事は、ゲームメディアの人間として、またひとりのゲームファンとして大きな楽しみのひとつだが、中でも気になっているゲームクリエイターのひとりが末弘秀孝氏だ。

 ゲームクリエイターとしてはSWERYの名前で活動しており、自身がディレクターを務めた作品としてはPS2向けアクションアドベンチャーゲーム「スパイフィクション」(1992年)を皮切りに、PS3/Xbox One向けホラーミステリーアドベンチャーゲーム「レッドシーズプロファイル」(2010年)、そして2014年には最新作となるXbox One専用ミステリーアドベンチャーゲーム「D4: Dark Dreams Don't Die」などを手がけ、それ以外にも下請けで様々なタイトルを開発している。

 SWERY氏の特徴は、ゲーム性が個性的であるだけでなく、パーソナリティが非常にユニークなことだ。メディアのインタビューを受ける際は、必ずパートナーのシャラポア(雌ゴリラのぬいぐるみ)を同席させ、記念撮影をする際は、ゲームの作風に合わせたポーズを付ける。

 既報のように、SWERY氏は2015年11月より病気療養のため休養に入っていたが、その間も、様々な写真を撮っては自身のFacebookやインスタグラムでそれを公開。全身刺青風のボディペイントというネタ全開のものから、ネタに見せかけて実はガチの資格取得だった住職の写真まで、ネタと真実を織り交ぜたアウトプットでSWERYファンを喜ばせてきた。

 そのSWERY氏が、ついに2017年、新会社を設立し、再始動するということでSWERY氏に直接インタビューする機会に恵まれた。残念ながら新タイトルについてはまだ先ということで、それ以外の情報についてあれこれ聞いてきたので、たっぷりお届けしたい。

「D4」リリースからこれまでの経緯

SWERY氏
Xbox One専用ミステリーアドベンチャーゲーム「D4: Dark Dreams Don't Die」(2014年、アクセスゲームズ)
PS3/Xbox One向けホラーミステリーアドベンチャーゲーム「レッドシーズプロファイル」(2010年、マーベラスエンターテイメント)

――私がSWERYさんと本格的にお付き合いさせていただいたのはXbox Oneの「D4」からになりますが、発売されたのが2014年9月ですから、もう2年以上経過しているんですね。

SWERY氏: そうですね。「D4」の後は、PC版「D4」を2015年の6月までやっていました。この間も、ここでははっきりタイトルを申し上げられないタイトルのプリプロダクションをやっていたのです。それ自体も全世界向けの結構いい内容だったのですが、PC版が終わると同時にそれのそのプロダクションもキャンセルになってしまって、それ以降新しいタイトルが立ち上がりませんでした。

 それに合わせてちょうど僕もそのタイミングで体調も悪くなっている時期でした。2015年の5月に東京インディーフェスがあったと思うんですが、あの帰りに体調を崩して倒れてしまったんです。そこから通院しながら、だましだまし仕事をやっていて、2015年11月に正式にお休みいただくということで、仕事を休んでそのまま療養することが会社と話して決まったという感じです。

――ゲーム制作からも1年間ずっと離れていたんですか?

SWERY氏: そうですね。2015年の6月の時点で「D4」をリリースした後にはアクセスゲームズではやっていないですね。

――私にとって「D4」は強く印象に残ったゲームの1つですが、シーズン1のみのリリースで終わっていますよね。Xbox One版も、PC版も非常に評価が高いですが、シーズン2以降のストーリーや、VR版といった展開はないのですか?

SWERY氏: 「D4」はコピーライツをアクセスゲームズがお持ちなので、僕が言及するところではないと思うんですが、僕自身が今の段階でやれることはないですね。アクセスゲームズとして、どう扱っていくかは、あちらで決めることだとは思います。VRの企画ももちろん僕は立ててはいました。

――今だから言えることですが、「D4」をVRでやってみたいですね。絶対おもしろいと思うんです。

SWERY氏: そうですね。親和性は高いだろうなと思ったので、テストをしようという時に僕が倒れてしまったので、タイミングが良くなかったですね。機材自体は仕入れたりしていたのですが。

――当時の機材は何を使っていたのですか?

SWERY氏: Oculus DK2とかですね。実際Oculus Touchを発売前に手配いただいていたので、Touchで「D4」は正直面白そうやなと思っていましたけどね。でも実現に至らなかったですね。僕自身の体調の問題で。

――アクセスゲームズの元取締役としてお伺いしたいのですが、“「D4」シーズン1”というネーミングは、当然シーズン2や3もあることを前提とした表現だと思うのですが、シーズン2以降はキャンセルなのでしょうか?

SWERY氏: それは、現状の経営の方々が決めることですよね。公になっている情報だけお話しすると、僕自身は当時、リトルペギーの殺人事件については、僕のシナリオは上がっていますとツイッターなどでは公言していました。ただ、その先について、どう扱われるかについては、すでに僕の手を離れてしまっていますから、現在は他社さんの商品という言い方になってしまうので、言いにくいですね。

――もし機会があれば、フリーのクリエイターとして「D4」の新たなプロジェクトに参画して、続編をリリースすることもあるかもしれない?

SWERY氏: 可能性としてはないとはいえないですね。

――ちなみにSWERYさんのもうひとつの代表作である「レッドシーズプロファイル」の完全版が2015年にリリースされていますが、あれにはどの程度関わられているのですか?

SWERY氏: あれは追加シナリオと映像の監修と音声収録、それと、あがってきた映像の編集というか、仮編が出来上がった映像を僕がつまんでいって、尺を詰めるというのをやっています。なので、移植自体は海外の会社で全部行っているのですが、その中に追加で載せるコンテンツ自体は僕自身が入ってやっています。

――このタイトルも海外市場向けという感じでしたが海外での反応はいかがでしたか?

SWERY氏: あれは最初にファンの方から、もう前ので完結しているのに、「なぜわざわざいらんことすんねん、蛇足をするな」という意見が発売前にあったんです。でもまだ遊んでいない方もたくさんいらっしゃったし、「レッドシーズプロファイル」を初めて出したときには、実はPS3では出なかったんですよ。日本ではPS3とXbox 360の両方で出すことができたのですが、北米では当時、SCEAの方からこのクオリティではPS3にはふさわしくありませんということでキャンセルされたんです。

――それは何が問題だったのですか?

SWERY氏: 分かりません。レポートがドバッと来ていたのですが、基本的にこれはPS3で発売できる商品ではないですということで、一方的にキャンセルがあった。だから欧米ではXbox 360でしか出なかったんです。

――Xbox 360向けのタイトルとして有名だったのはそういういきさつがあったのですね。

SWERY氏: そうです。それでプロデューサーの方から、実はXbox 360である程度ヒットしたので、PS3のユーザーにも届けたいんだけれど、今更同じものを出せないので、新たに加筆してやりませんかというお話をいただいた訳です。では是非ということで。初めて遊んだ方々は納得されていますし、もとファンの方たちも後から見返してみると、エンディングでちょっと仕掛けがあるので、それを見て、ああ、やっぱり出してくれてよかったと言ってもらっています。

――ビジュアル的には、かなり前の世代なので、PS4/Xbox Oneの時代に遊ぶには結構厳しいなと感じましたが、いわゆるHD化や、現行機向けへの新作を投入する予定はありますか?

SWERY氏: それもねえ。僕がまだコピーライトを持っていれば、「やりたいです」と言いたいところですが、マーベラスさんがお持ちなので。今回のディレクターズカットも、マーベラスさんの企画ではなく、イギリスのライジングスターゲームスが企画を立てて、マーベラスさんからライツアウトいただいて作っているものなので、そういう形であれば全然可能性はあると思いますね。

――ではいまSWERYさんが自由にできるコンテンツは1つもないわけですか?

SWERY氏: そのとおり、ないんです。だから、その前の「スパイフィクション」も「レッドシーズプロファイル」も「D4」も、過去に作った作品は私が自由にできません。可能性としてはメーカーでプロデューサーがいらっしゃいますから、プロジェクトが立ち上がったときに、新作のディレクターはSWERYで行こうかということは、全然ありうると思いますが、僕自身がそれを使ってということは、まず新しい会社では考えていないです。

「ドラッグオンドラグーン3」(2013年、スクウェア・エニックス)
「ロードオブアルカナ」(2010年、スクウェア・エニックス)
「幕末浪漫 月華の剣士」(1997年、SNK)

――今回SWERYさんにインタビューさせていただくにあたって、過去の開発タイトルについて調べたのですが、あまり出てきませんでした。これは意図的なものなのですか?

SWERY氏: そうではないですが、もともと、コンシューマで国内向けタイトルというのはあまりデベロッパーのディレクターであるよりも、実際それをもっているパブリッシャーが出ていく方が分かりやすいじゃないですか。ですのでそういう作品ですとなかなか名前が出てこないという感じですかね。

――過去にたとえばどんなタイトルに関わってきたのですか?

SWERY氏: 最近だと自社タイトル以外に「ドラッグオンドラグーン3」のプロデューサーや「ロードオブアルカナ」のディレクションをしました。1番最初は、1996年にSNKに入社していますので、実は格闘ゲームからキャリアが始まっています。一番最初に出たのが「風雲スーパータッグバトル」という伝説のカルトゲーがあるんですが(笑)、その主人公キム・スイル、その今でいうAIですかね。シーケンスを組むところからやらせていただいたのが最初です。

 その翌年から「月華の剣士」のシリーズを立ち上げから携わってまして、それのシナリオやキャラ設定から当時は入社して2年目くらいの時にやらせていただいたので、すごくラッキーでしたね。「月華」、「月華2」をやって、そのあとにSNKを辞めて、当時「魔界村」を作られたクリエイターの藤原得郎さんの会社に行きまして、そこで「トンバ! ザ・ワイルドアドベンチャー」を一緒に作らせていただきながら、コンシューマってこうやって作るんだということを学んだんです。

 そのあと、流れで藤原さんがソニーとの合弁でディープスペースという会社をお持ちだったので、そちらに転籍しまして、PS2の「EXTERMINATION」で初めてメインプランナーを担当しました。ただ、僕はメインプランナーで終わりたくはなく、どうしてもディレクションをやりたかったので、会社を作りますということで、藤原さんに頭をさげて自分の会社を作るために辞めて、アクセスゲームズをおこしたわけです。

――自分でおこしておいて、自分でやめるって不思議ですよね(笑)。

SWERY氏: まあそうですね。ただ、僕は2002年に会社を作っていますが、2004年頃にはもう株を手放していました。

――ええ!? 自ら起こして2年で株を売却したのですか。

SWERY氏: そうです。もともと親会社が違うグループから加賀電子グループに変わってしまったので、そこの方針で株を手放しました。それ以降は、いわゆるただの雇われの役員で、株主ではなかったのです。

――ということは創業者がありがちな、辞任に合わせて株で揉めるようなことはなかったわけですね。

SWERY氏: まあそうですね。取締役が辞めるというところで、時期調整をやったぐらいですね。

――2002年にゲーム会社を立ち上げて、辞められるまで実に14年くらいあるわけですが、この間に作られたタイトルにはどんなものがあるのですか?

PS2「スパイフィクション」(2003年、サミー)
PSP「戦国BASARA バトルヒーローズ」(2009年、カプコン)
PSP「機動戦士ガンダム 戦場の絆ポータブル」(2009年、バンダイナムコゲームス)

SWERY氏: もちろん最初は「スパイフィクション」です。その後は、カプコンさんのPSP版「戦国BASARA バトルヒーローズ」と、「戦国BASARA クロニクルヒーローズ」に関しては私の方で立ち上げをやらせていただいて、カプコンのディレクターの方と一緒に携わったタイトルです。

 それと同時に「機動戦士ガンダム 戦場の絆ポータブル」も私の方がアクセスゲームズ社内でディレクションをやっていました。あれは2008年くらいだったと思いますが、あの時にはもう「レッドシーズプロファイル」を作っていました。作りながらだったのですが、月水金に「戦場の絆」をやって火木土に「戦国BASARA」をやって、日曜日に1人で「レッドシーズ」をやるという、2008年でした。地獄でしたね(笑)。

――なぜそんなに1人で詰め込んだのですか?

SWERY氏: 「レッドシーズ」はオリジナルですからね。自己資金も必要ですし、会社を急に大きくしようということでラインを増やしたんですよ。そういう時に、いきなり未経験者を、大手さんのタイトルのディレクターにするわけにはいきませんから、私が全部見ながら、そういう人たちにも頑張っていただいてということです。基本はスタッフがやってくれているのですが、最終的な品質保証といいますか、絶対にこれ以上ゆるいものはクライアントさんに出してはダメだよという部分に私の手が入るという形でやっていました。

――アクセスゲームズは最盛期にはスタッフはどのくらいいたのですか?

SWERY氏: アクセスゲームズは、ゲームだけでなく、パチンコの部門もありますけど、それも含めて全体で80人くらいですかね。で、そこに、アウトソーシングの方々も社内にいらしていたので、100名超えている時期もありました。

――大手に匹敵する規模だったんですね?

SWERY氏: そうですね。それで2.5ラインとか3ラインくらいのゲームを回しながら、別にパチンコのラインが動いているような会社でしたから。だから、これ変な話ですが、僕が名前を知らない子が採用されていたりということもありましたね。

――つまり、SWERYさんが面接せずにスタッフを採用するような規模になっていたわけですか。

SWERY氏: 面接していない時期もありましたね。

――しかし、ディレクターとしては、未知のスタッフが増えていくというのは、ディレクターとしては違和感がどんどん膨らんでいきますよね?

SWERY氏: 一番違和感がキツかったのは、立場的に偉くなっていたので、いろいろなハンコを押すじゃないですか。残業の申請であるとか、有給の申請であるとか、稟議書とか。で、ある日、ハンコを押しすぎてシャチハタのインクがなくなりましたからね。「このインクって無限やと思ってたのに、なくなった!」と思って。それはびっくりしました。