ニュース
「GAME ON」トークイベント「セガハードの歴史を語り尽くす」レポート
歴代セガハードの生みの親が集結した夢のキャスティングが実現!
(2016/5/23 18:12)
日本科学未来館、フジテレビジョン、角川アスキー総合研究所は、東京・お台場の日本科学未来館にて開催中の展示イベント「GAME ON~ゲームってなんでおもしろい?~」の一環として、歴代のセガハード開発者を集めたトークイベント「セガハードの歴史を語り尽くす」を5月20日に開催した。
同トークイベントに登壇したのは、セガ・インタラクティブプロダクト研究開発部の石川雅美氏、セガのOBで現アドバンスクリエートの梶俊之氏、同じく元セガで現在はWIND-風代表の矢木博氏。さらに司会進行役を務めた、GAME Watchでも度々インタビューをお届けしている、ニンテンドー3DSソフト「セガ3D復刻アーカイブス」シリーズのプロデューサーのもおなじみの、セガゲームスの奥成洋輔氏を加えた4名で行なわれた。
歴代のセガ作品の開発者といえば、「バーチャファイター」シリーズの鈴木裕氏、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」シリーズの中裕司氏、「龍が如く」シリーズの名越稔洋氏などが特に有名であろう。だが、ゲームソフトではなくハード開発者の名前や経歴となると、おそらくセガマニアを自称する方でもほとんど知らないのではないかと思われる。そんなハード開発者、しかも1980年代から長らく活躍し続けているという、まさにレジェンドたちのお話が聞ける貴重なイベントということもあり、当日は一般のセガファンだけでなく、業界関係者なども多数来場していた。会場のスタッフによると、当初は50人の想定だったのがなんと200人を超えたため、急きょ場所を変更しての開催となった。
セガハード黎明期のエピソード:アーケード用ゲーム基板の分水嶺は「スタージャッカー」
奥成氏の説明によると、セガは元々エレメカを作っていた会社だったが、やがてアメリカのグレムリンという会社を吸収してセガエレクトロニクスとなり、グレムリンが持っていたノウハウを利用して基板の技術を学んだことによって、「ヘッドオン」や「トランキライザーガン」などのビデオゲームが誕生したという歴史があるという。
そして1981年、当時のセガ・エンタープライゼスに入社した梶氏のデビュー作は、なんとアーケード用3Dシューティングゲームの「ZOOM-909」(1982年発売)であることを証言した。同氏が「背景で流れている星の部分だけは私が作りました」と説明すると会場からは大きな歓声が上がったが、今から35年も前に発売された作品を手掛けていた方が、今まさに眼前にいるという事実には筆者も本当に驚かされた。
また奥成氏から、「『スペースハリアー』以前の『ZOOM-909』や『アストロンベルト』(※1)の時代から、セガは奥にスクロールするタイプのシューティングはずっと大好きでした。このあとの時代になると、セガ史上初の内製アーケード用システム基板であるシステムIが完成します。システムIのハード設計者は佐藤さん(※2)で、最初に登場したゲームは『スタージャッカー』(※3)ですね」とアーケード用基板の歴史も併せて語った。
※1:「アストロンベルト」は1983年発売の3Dシューティングゲーム。LD(レーザーディスク)を使用した美しい映像が流れるのが特徴。
※2:後にセガの社長となる佐藤秀樹氏のこと。
※3:「スタージャッカー」は1983年発売の縦画面シューティングゲーム。
矢木氏の解説によると、「システムIができる前の時代は、ゲームごとにひとつずつハードを開発していたのでボードを統一していませんでした。システムIの登場によって、スプライトの数がいくつになろうがスクロールが切り替わろうが、あらゆるゲームに対して対応できるようになり、汎用性のあるものとして初めて位置づけられたました」とのこと。なお、システムIを使用した代表作には「フリッキー」(1984年発売)があり、ほかにも「青春スキャンダル」(1985年)、「忍者プリンセス」(同)、「ワンダーボーイ」(1986年)など、往年のセガファンなら誰でも大好きであろう錚々たるタイトルがあるとのことだった。
システムIが登場した1983年には、ほぼ同時期にホームコンピューターのSC-3000と家庭用(コンシューマー)ゲーム機のSG-1000が発売されているのも、セガの歴史においては極めて重要なポイントだ。「当時はこれからホームコンピュータが流行するというムーブメントが起きていた時代で、MSX規格が発表されたりしていた時期でもありました。さらにその1年前には、元任天堂で後にセガの副社長になる駒井さん(※4)が入社し、セガでもコンシューマーハードを作ろうということになりました。セガのコンシューマーハードはまさにここから始まわったわけで、システムIからの移植タイトルがいくつか出ていました」(奥成氏)とのことだった。
※4:駒井さん:駒井徳造氏のこと。
奥成氏の解説によると、SG-1000は奇しくも同じ日(1983年7月15日)に発売した任天堂のファミリーコンピュータに比べると販売台数は少なかったものの、「初年度に16万台が売れたのは、セガとしてはかなりのヒット。当時はアーケードの基板が3,000枚売れたらヒットという時代でしたが、出せば売れるという時代がついにやって来た。そこで、もっとデザインも含めカッコよく強化しようと思って作ったのがSG-1000IIでした」との説明があった。
石川氏は1979年に当時のセガ・エンタープライゼスに入社し、なんとSG-1000II以降の歴代セガのコンシューマーハードを担当したというエキスパートであることが明かされた。「私が研究開発部に転籍したときには、すでにハードの開発は始まっていました。SG-1000ではTMS9918というグラフィックスチップを使っていたのですが、SG-1000IIではTMS9918を使わずに、同等の代わりのものにサウンドも含めてワンチップ化したものを私が作りました。チップの製造をしたのはヤマハさんですね」(石川氏)と、これまた貴重な証言が飛び出した。
「実は当時、ヤマハさんには半導体チップの製造でかなりお世話になっていました。NECや富士通、東芝などではなく、ヤマハさんに製造を依頼したのは半導体の技術が進んでいたからですね。具体的には、個々のトランジスタごとに最適化できる、フルカスタム設計ができるのが特長だったんです」(石川氏)とのことだった。また石川氏と奥成氏からは、「アスキーの西和彦氏と佐藤氏との間でMSXに参入するかどうかを検討していたと推測されるが、最終的には独自ハードを展開する選択したのではないか」との見解があったことも大きなポイントだろう。
キーマンはやはりあの大物ゲーム開発者!? システム16基板の開発を機に、時代は8ビットから16ビットへ
1985年の9月には、新基板のシステムIIが登場したが、この基板の開発を担当したのも矢木氏であった。「システムIIはメモリが増えたときの将来的な対応と、システムIのバグ直しをしながら作りました。バグが見つかると上司だった佐藤さんに相談して、『こういうふうにすれば直るでしょう』、『パフォーマンスが上がるだろう』などと話しながらデバッグをしていきました。メモリが日進月歩で拡大していた時代でしたらから、新しい機能を入れようということを心掛けていましたね。当時、『スーパーダービー』という3画面を使った競馬ゲームがあったのですが、これは2ラインバッファというシステムIIで初めて使った技術を応用したものですね」と解説していた。
一方、家庭用においてはSG-1000IIの性能では難しい、システムIやIIで作ったゲームを移植できるような、より高い性能を持ったハードを作ろうということで1985年にセガ・マークIIIが誕生した。このハード設計を担当した石川氏は、「SG-1000にはスクロール機能がありませんでしたし、スプライトも少なかったですから、画面内に表示できる数は倍にしようと言われて作っていた記憶があります。当時はアーケードを追い掛けて開発をしていて、ゲームに特化した機械を安く提供して家庭内にも広めれば、ゲームセンターにもお客様が来るだろうと考えていました」とコメント。高性能の家庭用ゲーム機を作ることによって、アーケードにも好循環が生まれるのではないかと考えて開発をしていたという証言は、ゲーム史上においても極めて重要な事実ではないだろうか。
また、1985年に登場した往年の大ヒット作であるアーケード用大型体感ゲーム「ハングオン」と「スペースハリアー」に使用された基板の設計をしたのは梶氏とのこと。「『ハングオン』と『スペースハリアー』はほぼ同時に企画が進んでいて、どちらも3D的な表現をやりたいというのが1番の目標で、スプライトを多くしたりズーム機能を入れて絵を綺麗に出したいというオーダーがありました。この機能について1番オーダーを受けたのは、裕さんといえば確かに裕さんです(笑)。それから『ハングオン』では道路の表現もポイントでした。ラインスクロールというのですが、これを汎用的な機能で持たせたいということで基板を設計しました」とのことだった。
さらに奥成氏からは、「当時まだ研究段階だった、新システム基板のシステム16を研究中に『ハングオン』と『スペースハリアー』の企画が立ち上がり、『ハングオン』を作るためにいきなりシステム16をパワーアップさせた基板を作ることになり、『スペースハリアー』ではもっとパワーアップさせた基板を作ることになりました」との解説もあり、当時のアーケードゲームには最先端の技術が使われていたという事実にはあらためて驚かされた。
結局、システム16(のAバージョン)の完成までには約2年かかったそうで、「性能は高くなったのですが、ハード自体のサイズももの凄く大きくなってしまいました。当時はテーブル型の筐体もまだありましたし、基板が大きくなり過ぎて中に納まらなくなってしまいましたので、時間をかけてゲートアレイにしてサイズを小さくしましょうということで作ったのがシステム16ですね」(梶氏)と、開発が長期化したのはダウンサイジングに時間を要したからだというエピソードを語っていた。ちなみにシステム16の第1弾は「メジャーリーグ」で、ほかにもは「カルテット」、「エイリアンシンドローム」、「コットン」、「忍」、「SDI」、「獣王記」などの有名タイトルにこの基板が使用されている。
「これからは16ビットの時代だ!」といち早く言い続け、システム16の開発などを経て最先端の技術を持った会社として知られるようになったセガ。だが奥成氏によると、「家庭用でセガ・マークIIIも同時期に出しましたが、こちらはシステムIとIIをベースにしたものだったので、いきなり見劣りするようになってしまいました……」と、やがて1987年にセガ・マスターシステムが登場することになった経緯を説明した。「ここからセガは3Dを強調するようになりましたね。セガは昔から、3Dが大好きなんです(笑)」(奥成氏)
ところが、セガ・マスターシステムを開発した石川氏によると、「中身はセガ・マークIIIと別に変わっていないんですよ(笑)。半導体の数が足りなかったので、ヤマハさん以外にNECさんでも作っていただいていました」と意外なコメントが返ってきた。また石川氏は、「当時の任天堂はヨーロッパ方面にファミコンを出さなかったのですが、セガは頑張って売り込んだのでこれを機に海外でもセガのファンが増えたと聞いています」と解説し、奥成氏からも「海外ではセガのデビューハードという位置づけで、『アレックスキッドのミラクルワールド』、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』などが発売されて1990年代の欧州で一時代を築く大ヒットになりました」と、セガ・マスターシステムが海外での足がかりになったこともポイントとして挙げていた。
1986年に登場したアーケード用大型体感ゲームの「アウトラン」を経て、その翌年に発売された「アフターバーナー」に使用されたXボードという基板の開発においては、矢木氏からまたも意外な事実が明かされた。いわく、「今までの2ラインバッファからフレームバッファに変えたほうがいいだろう、ということで開発を始めたのが『アウトラン』で、これはまさに裕さんの傑作であり”裕さん仕様”の機械でしたね。あまりにヒットし過ぎてコピー基板がたくさん出回ったので、当時コピーが多く出回った韓国の会社を訴えるためにその会社に行ったら、私が書いた図面がソックリそのままあったので証拠書類として抑えました」と驚愕のエピソードを語っていた。
さらに矢木氏からは、「ならば、コピーされないようによりスピードをアップさせようということで、『アウトラン』は68000CPUで10メガだったのを『アフターバーナー』では12.5メガにアップさせたり、機械の動作が止まるまでの温度マージンも調べたりして、コピー基板に使っていた汎用TTLでは動かないようにしました。コピーヤーに負けてたまるか、と毎日ねじりハチマキで頑張りましたよ」と、涙ぐましい努力を重ねていたことを証言した。
「アフターバーナー」では、機体をローリングさせると背景が回転する演出があったことでも知られるが、矢木氏によると「Xボードでは、裕さんがギミックでスプライトのポジションチェンジをする方法で回転をさせていましたが、この後に作ったYボードではハードによる回転機能を最初からくっつけました。Yボードには68000CPUを3個積んだりですとか、当時はバカデカい機能を載せる悪ノリが許された時代だったんですね。コピー防止と、裕さんのオーダーとの板挟みで、ここにいる3人がみんな必死になってやってました(笑)」と、今となっては実に微笑ましい、そして鈴木裕氏がハード性能の底上げにも貢献していたという重要なエピソードも明かした。
またアーケードではシステム24という基板も開発され、こちらは梶氏が開発を担当したとのこと。「基板の名前はモニターの周波数からつけました。理由は解像度を上げようと思って作った基板だからですね。もうひとつは、ROMをたくさん積んだのでは移植しにくいので、ではフロッピーを使ってみようとチャレンジしました」(梶氏)。しかしながら、「フロッピーを使ってみたはいいけれど、後々考えるとマズかったかなあと。故障が多く、容量が限られていたので時代の変化でどんどん容量が大きくなってしまいましたので、選択を間違えたかなあと(苦笑)……」と語っていた。
そしてセガを代表する家庭用ゲーム機のひとつ、1988年に登場したメガドライブのハード設計を手掛けたのも、これまた石川氏とのこと。「まず最初にあったのは、システム16のアーケードゲームの移植ができるようにということですね。それ以外の細かい仕様については、佐藤さんなどからは特に何も言われませんでしたが、お客さんが離れないようにマークIIIとの互換性を保つのは必須だよとは言われていました」という設計思想があったことをまず説明した。続けて奥成氏は、メガドライブでは68000CPUを搭載するにあたり、なぜこのCPUを積んだ機械を安価で売ることができたのかを佐藤氏に聞いたところ、「佐藤さんが自らアメリカに行き、30万個買うから秋葉原の相場の10分の1ぐらいの値段で売ってくれと交渉したからです」と、佐藤氏が自らが買い付けに行って成功したからだという事実も明らかにした。
さらにメガドライブから2年後の1990年に誕生した、携帯型ハードのゲームギアの開発は矢木氏が担当していた。「セガ・マークIIIのチップの後に、液晶のインターフェイスのICをくっつけて作りました。確か「リンクス」(※5)は初期版の重さが800グラムで、ゲームボーイが260グラムだったので、じゃあゲームギアは手頃な500グラムにしようと決めました。ところが、単3乾電池が1本だけで24グラムもありますし、いろいろ部品を合わせるとなかなか500グラムにならないんですよ。そこで天秤を買ってきて、CPUの重さや比重を量ったり、ABS樹脂や基板を薄くしたり、突起した部分を平らにするなどして軽くするのに苦労しましたね……」(矢木氏)と、携帯ゲーム機開発ならではの工夫を施していたことを語っていた。
※5:リンクスは、アタリが1989年発売した携帯型ゲーム機のこと。
MODEL1基板の登場以降は3Dポリゴンが当たり前の時代に。NAOMI基板の意外な名前の由来とは?
1991年に登場したシステム32基板を経て、1992年にはかの有名な「バーチャファイター」などに使用されたMODEL1が登場することになる。この基板は梶氏が開発したそうで、「とにかく3DCGをやろうと最初に言い出したのは、やっぱり裕さんですね(笑)。3Dの演算関係は、セガが今まで持っていたノウハウと富士通さんの技術を組み合わせて作りました。最も苦労したのは、3DCGへの理解がまったくなかったことですね。当時はまだ高価なワークステーションでしか3DCGができない時代でしたから」とのこと。また奥成氏によると、「バーチャレーシング」では初めてワイド型のモニターを使用したこともセガハード史上のポイントであるとのことだった。
その後継にあたる、1994年に登場したMODEL2基板の開発は矢木氏で、「演算機はMODEL1のものをそのまま使って、テクスチャーの部分は新しく作ろうと考えました。当時はまだテクスチャーをはめる技術がセガにはありませんでしたので、GEエアロスペースと共同で開発しました。当時の最先端の技術だったこともあり、最初のうちは相手の話を聞いても何がなんだがわからずチンプンカンプンで本当に困りました。そこで模造紙に質問を毎日書いて、筆談みたいにして必死になって勉強しましたね」との涙ぐましいエピソードも披露した。
1994年は、いわゆる次世代機ブームの時代を引っ張ったセガサターンが発売された年でもある。奥成氏によると、「セガサターンのハード設計は、実は1991年に登場したアーケード用基板のシステム32の開発スタッフが中心になって行ないました」とのことで、「その結果、システム32譲りのスプライト描画と、CPUにSH-2を2個加えたことによりポリゴンも使えるようになったことで、2Dと3Dの間の時代をつなぎました」(奥成氏)と解説した。
そしてセガの最後の自社製家庭用ハード、ドリームキャストではアーケードゲーム基板の性能に追いつき、アーケードと家庭用が同じラインに立ったことがポイントであることを奥成氏が説明した。そのドリームキャストと互換性のある、アーケード用のNAOMI基板を開発したのは矢木氏で、「NAOMIはドリームキャストを要素をそのままアーケード版に持ち込んだものですね。なぜNAOMIという名前にしたかといいますと、当時の我々の上司であった鈴木副社長が、スーパーモデルのナオミ・キャンベルの名前をMODEL1やMODEL2の基板にかけて、スーパーなMODELなんだからNAOMIだろうと言ったからです」と説明し、これには来場者も大ウケだった。
また、ドリームキャストを最後にセガが家庭用ゲーム機を作らなくなったことについては、「ハードの開発競争をしようとなると、Microsoftやソニーなど世界の一流企業との対決となるため、もはやおもちゃ会社のセガだけでは太刀打ちできない時代となりました。家庭用でも予算効果などの面で追いつかれてしまったので、自社ハードの製造はいったん落ち着いたというわけですね」と奥成氏が解説した。さらに、MODEL2の後継であるMODEL3を後に作った梶氏からも、「MODEL3は、当時の最新のCPUを使用したアーケード用基板の最高峰でした。ただ、この後に家庭用ゲーム機とPCもグラフィックスの性能がどんどん向上して、こちらのほうが性能がよくなる時代になったので先に進まなかった」と、市場環境の変化が大きな影響を及ぼしていたことを説明した。
ちなみに、セガ製最後の純正ハードは1999年に登場した「セガヒカル」で、「消防士」や「バーチャロンフォース」などのアーケードゲームに使用されていた。八木氏「セガはやっぱりオリジナルハードの開発をやりたいという技術屋としての気持ちがありまして、「セガヒカル」は多くの人数をかけて作りました。フォンシェーディングの技術を使ったことによって、より光をリアルに表現できるようになっていました。さらに特許も絶対に取ろうと考えて、弁護士さんにも相談して実際に特許も取ったうえで完成させました。言葉は悪いかもしれませんが、これまで馬鹿正直に必死に一生懸命ハード作りをやってきたのは、日本ではおそらくセガ以外には他にほとんどないのではと思っております」と、長年にわたり活躍したエキスパートならではの矜持を示していた。
筆者は長年ライター業をしているが、今回のようにハードの開発者ばかりが集まってトークを行なった例は過去に記憶がなく、ハード技術者ならではの貴重なエピソードの数々には何度も驚かされ、同時にたいへん勉強になった。時間の都合で、セガサターン以降のお話があまり聞けなかったのはちょっと残念だったが、歴史に残るゲームを多数展示した「GAME ON」会場での開催にふさわしい、実に意義のあるトークイベントとなったのではないだろうか。
【梶俊之氏】
ゲーム機の開発の仕事では、どんな技術を使ってもダメとは言われなかったですし、日本初とか世界初とか言えるような新しい物を作れば売れるという環境にありましたので、ある意味ノビノビやれましたね。当時1番楽しかったのは、ゲームセンターに行って自分が作った物を遊んでもらっているのを見ることでした。今後もそんな環境が続いて、業界が発展するといいですね。今でも自分で全部設計した「ハングオン」には思い入れがあります。
【矢木博氏】
アーケードゲームの1番いい時代を体験できて、いろいろ好き勝手にやれたのが嬉しかったです。「GAME ON」の会場に自分が作った機械が展示されていたので懐かしくて、みなさんには本当にどうもありがとうと言いたいです。古いゲームでも後世にまでずっと残したほうがいいと思います。日本のゲームの歴史は、半導体のような電子技術の時代の流れと同じような側面がありますし、ひとつの文化的事業とみなしてその歴史を残しておくといいのではないでしょうか。