【特別企画】

「serial experiments lain」発売より25周年! “伝説の鬱ゲー”は四半世紀後の現在にいったい何をもたらしたのか

2周目、3周目……。次々と明らかになる事実の数々。はたして本当の“真実”はどこにあるのか?

 一度エンディングを見ただけでは、謎のままになっていることが非常に多い。玲音の家族の失踪や高島教授の自殺の理由、橘総合研究所の正体などなど……。だが本作では、一度エンティングを見たあとも続けてプレイすることが出来る。そしてエンディング表示される“continue”を選択したあとの画面を見た人は驚くだろう。各レベルのデータ領域に、夥しい(浸蝕されていると言ってもいい)数のデータブロックが新たに出現しているのだ。それらは暗闇を背にこちらを振り向いた“lain”が語りかけてくる、といった意味不明なものがほとんどだが、少数ながら物語の核心に迫る重要なデータも含まれている。

 ところで、“真実”とはいったいなんだろう? 客観的な事実が“真実”なのだろうか? そうだとすれば、本作における“真実”には注意が必要だろう。なぜなら、各データブロックで閲覧出来ていたもののほとんどが、玲音、または柊子の主観を記録したものであり、必ずしもそれが事実であるとは限らないからだ。嘘を吐いているかも知れないし、事実誤認しているかもしれない。そこで2周目以降、プレーヤーは新たに出現したデータブロックをもとに物語の裏に隠された真実を探ることになっていく。

 驚くべきことに、それらのデータは1周目で描かれていたこととは矛盾するものがほとんどだ。例えば、柊子が独断で玲音の友人である今日子、歌織に聞き込みをしたエキストラリサーチデータにおいては、今日子は美里という人物を知らないと言っており、また歌織は小学校時代に玲音に対するいじめはなかったと証言している。いったいどちらが正しいのだろう? 友人たちの証言か、それとも玲音の独白である日記のデータか?

玲音の小学校時代の友人、今日子と歌織。彼女たちからは、玲音の日記とは矛盾する話が聞けるのだが……

 普通に考えるならば、美里の存在は玲音の虚言であり、いわゆるイマジナリーフレンドという空想上の友人だと受け取ることが出来るだろう。孤独感を抱えた玲音が、存在していない人物を自己の内部に作り上げ、“友人のいる自分”に満足する――。そんな典型的な解釈をすることも可能だろう。

 本作は曖昧なまま残された謎が数多くあるがゆえに、さまざまな解釈が成り立ち、多くの人がネットに独自の考察を上げている。そこで筆者の見解を述べさせてもらうと、一連の矛盾点は玲音による周囲への記憶操作の結果ではないか、と考えている。物語終盤、玲音は明らかに催眠術や超常能力と言っていいレベルで他者の精神を支配する術を会得している。高島教授や援交中の女学生の自殺も、玲音による教唆の結果で間違いないだろう。そもそもアニメ版の玲音同様、本作の玲音もまた「記憶とは記録」と発言している。記録の改ざんであれば、天才的なクラッキングの技術を持った玲音ならばお手の物であるはずだ。

玲音が常人と異なる点、それは単に“視力が異常にいい”ことだった。数値は3.0(通常の計測値の上限。昼間に星が見えるレベル)だが、カウンセリング中空の向こうに「紫色のカーテンのようなものが見える」と成層圏まで視認出来るようなことを言っていたので、実際はもっと高いと思われる。それに付随して、中空を飛び交う電磁波を見たり聴いたりしているような節も見受けられるので、幻覚や幻聴の正体はこれらだったのかも知れない

 では、なぜ周囲の記憶を操作し、消失させたのか? 理由は単純な“独占欲”だ。好きだったトモくんや美里の思い出を他人に汚されたくない、自分だけのものに留めておきたいという子どもらしい想いからの行動である。筆者の見解では実際に小学校時代にいじめはあったし、美里は実在していたのではないかと考えている。

 玲音によるデータの改ざんや精神支配は、高レベルに保存されたデータブロックから見て取れる。終盤になるほど柊子の日記はノイズがひどくなっており、その後ろにうっすらと玲音の含み笑いが聞こえるようになる。またカルテに至っては、本来玲音の症例を記録するはずのものが、まるで柊子の状態を書き記したようなものにすり替わっている。しかも柊子の声に重なるように、玲音の声が聞こえてくるのだ。これは明らかに玲音によるデータの改ざんが行われた痕跡だといえるだろう。

 精神支配においても、終盤の柊子の日記においてかなり顕著に描写されている。肉体を捨て去ることへの恐怖におののきつつも、玲音に屈服し彼女同様同様ワイヤード上の存在になることへの諦観が克明に記録されているのだ。催眠術では人を自殺させることは出来ない、などとよく言われているが、玲音の精神支配はその比ではない強力なものであることがわかるだろう。

 このように、エンディング後に出現するデータブロックは物語の核心に迫るものとなっている。中には一回のコンティニューでは閲覧出来ず、最大5回(つまり6周目)でようやく見ることができるデータブロックも存在している。

「lain」が“伝説の鬱ゲー”である理由――それはゲームの形態を採っているから

 先述通り、本作「serial experiments lain」というゲームは“伝説の鬱ゲー”と称されているタイトルだ。その理由はいったいどこにあるのだろうか? 凄惨なストーリーだから? たしかに、主人公格の2人がともに死亡するという結末はもとより、いじめや両親の離婚など、多感な少女期のヒロインにとっては受け止めがたい辛い現実が次々と起こる。だが、それだけでは伝説級となるにはいささかもの足りない。もっと陰惨なストーリーの作品は、本作以外にも数多く存在している。では、25年前の作品で現在はプレイすることが困難だから? 無論それもあるだろう。もとより発売時はさほど話題にならず、発売本数も大ヒットと呼べるほどにはならなかったようだ。だからといって、これもまた伝説と称されるにはいささか理由として弱い。

 ではなぜ本作が“伝説の鬱ゲー”なのか? これもまたさまざまな解釈がなされているが、筆者は次の2点が理由であると考えている。まず第一の理由として、本作が「データを閲覧することしか出来ない」という特殊なゲーム性であるということ。そして第二の理由は、先の理由に付随して本作が「ゲームという形態を採っている」という点だ。

 「データを閲覧することしか出来ない」とはどういうことだろうか? データとは“過去の出来事”の記録である。それは言い換えれば、「過去の出来事を傍観することしか出来ない」ということだ。例えデータを改ざんしようが何をしようが、過去に起きた出来事自体は、現在にいる自分にはどうすることも出来ない、改変出来ない強固な現実なのだ。

 そして「ゲームという形態を採っている」とはどういうことか。ここではコンピュータゲームに限定して語るが、ゲームをゲームたらしめる代表的な条件として“プレイの仕方による展開の変化”が挙げられる。レバーを右に倒せば自機は右に、左に倒せば左に移動する。Aという選択肢を選べばAという展開に、Bを選べばBという展開になる。それはプレーヤーの自由意思に任されており、展開の変化は反射神経や直感、知識量の問題となる。つまり逆に言えば、誰がプレイしてもまったく同じ展開にしかならないのであれば、そればゲームとは呼べない……少なくとも、ゲーム性が低いと評価される。

 そして本作は、非常にゲーム性が低いタイトルであると評されている。それは前述の通り、データを閲覧することしか出来ないからだ。データブロックを閲覧する順番こそ自由だが、それによって内容が変わったり展開が分岐するといったことはない。つまりどのようにプレイしていても、最終的には1つの結末にしかたどり着けないのである。

 なぜ、それが“伝説の鬱ゲー”たる理由になるのか? 例えば、次のようなことを想像してもらいたい。とあるゲームをプレイ中、ネットの書き込みなどで中盤ヒロインの1人が死んでしまうことを知ってしまうとする。貴方はどうプレイするだろうか? きっと、そのヒロインをなんとか生き延びさせようと試行錯誤するだろう。例えどのようにプレイしてもやがてはその死亡イベントが必ず起きると分かっていても、なんとか一縷の希望、ヒロインの死を回避出来る可能性を求めて抜け道を探し出そうと足掻くはずだ。だが本作では、既に過去の時点で物語が閉ざされてしまっている。そこには可能性も希望も存在しない。

頭部も下半身もない“お父さん”に寄り添い、安らかに眠る玲音。彼女が真に求めていたものは、ただありのままの自分を受け入れてくれる家族や友人だったのかも知れない

 本作「lain」では絶望のみが待ち受ける確定された未来に抵抗し、足掻くことすらさせてくれない。ただただ、玲音という少女の身に起きた悲惨な出来事を“過去のデータ”として傍観するしかない。どんなに願っても、プレーヤーである貴方は玲音を救おうと行動することすら出来ない。

 貴方は、玲音を救うことは出来ないのだ。

 これが、筆者の考える“伝説の鬱ゲー”たる理由である。このゲーム性の欠落によって“伝説の鬱ゲー”と称されるようになるとは、なんとも皮肉な話ではないか。もちろん、何度も言うようにこの作品にはさまざまな解釈の余地があり、筆者とは違う解釈を持つ人も多いことだろう。だが、それでいいのだろう。プレーヤーごとに幾通りもの解釈があるとするならば、それだけ本作のことが多くの人の口の端に上るということである。それはつまり、プレーヤーの数だけlainが“遍在”していることになり、それこそが25年も経った本作がいまだに愛されている理由であることに他ならないのだろう。