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「FGO」聖地巡礼特集! 葛飾北斎や渡辺綱など英霊に縁のある東京の観光スポットを紹介

【Fate/Grand Order】

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価格:基本プレイ無料(アイテム課金制)

 Android/iOS用FateRPG「Fate/Grand Order」(以下、「FGO」)は2015年7月30日のサービス開始から今年で9周年を迎える。毎年恒例ともいえる、周年を祝う祭典「Fate/Grand Order Fes.(通称FGOフェス)」をはじめ、大型アップデート、周年イベント、新サーヴァントの登場など、1年でもっとも「FGO」が盛り上がるタイミングだ。

 今年も例に漏れず、ゲーム内でもイベントが真っ盛り。ゲーム内アイテムはもちろん、召喚ガチャに必要な「聖晶石」や「呼符」などもたっぷりと配布されている。また、ゲーム外も大盛り上がりだ。8月3・4日は9周年を記念した「FGO Expo ~Fate/Grand Order Fes. 2024 9th Anniversary~」が幕張メッセ国際展示場にて開催され、新サーヴァント「スペース・エレシュキガル」の発表でファンを賑わせた。

8月3・4日に開催された「FGOフェス」
新サーヴァント「スペース・エレシュキガル」

 さらに、8月11・12日には多くの限定「FGO」グッズが企業ブースにて販売されるコミックマーケット104や、9月には昨年「Fate/Samurai Remnant(フェイト/サムライレムナント)」の「宮本武蔵」等身大フィギュア展示が話題になったゲームの祭典「東京ゲームショウ」が控えていたりと、リアルイベントも目白押しだ(今年の「東京ゲームショウ」にFGO PROJECTの出展はない)。

 そこで今回は、連休やイベントで東京に遊びにくる方に向けて、少し趣向を変えた「FGO」にゆかりのある東京観光スポットを紹介したい。作中に登場した場所や、英霊にゆかりのある場所を紹介していくので、ぜひ東京観光のお供に聖地巡礼を楽しんでほしい。

観光名所としても有名な浅草の「浅草寺(せんそうじ)」

 最初に紹介するのは東京でも屈指の観光名所である浅草の「浅草寺」。浅草寺は東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。場所も東京スカイツリーからわずか1駅、さらに浅草駅を出たらすぐに雷門が見えるというアクセスの良さが魅力的だ。周りには仲見世通りをはじめとした多くの店舗や、日本最古の遊園地「浅草花やしき」もあることから、普通に歩くだけでも楽しめる観光スポットになっている。

【浅草寺(せんそうじ)】
東京都台東区浅草2丁目3−1


 そんな「浅草寺」だが、しっかりと「FGO」にもゆかりのある場所となっている。一番わかり易いのは「Fate/Samurai Remnant」とのコラボレーションイベント「盈月剣風帖」の第1幕「魔物に逢うては 魔物を斬る」。ここで宮本伊織は由井正雪と源頼光/丑御前に出会い、戦うことになる。

【宮本伊織】
【由井正雪】
【源頼光/丑御前】

 ゲーム内の背景では「本堂」と「宝蔵門」、CM映像では「五重塔」と思われる場所が描写されていたりと、作中と同じものが目の前に登場するのでテンションが上がるはずだ。ちなみに、浅草寺「本堂」の開堂時間は午前6時~午後5時(10月~3月の開堂時間は午前6時30分)となっているので、それより前の時間に行くことで作中同様に本堂が閉堂している姿をみることができる。

浅草寺の「本堂」
作中に登場する浅草寺の「本堂」
丑御前の後ろに「宝蔵門」、宮本伊織の後ろに「本堂」がみえる
【Fate/Samurai Remnant×Fate/Grand Orderコラボレーションイベント「盈月剣風帖」TVCM】
セイバーの戦闘シーンで「五重塔」と思われるシーンが一瞬映る

 他にも浅草寺は「源頼光」が討伐した「牛鬼」の出現した場所としても有名だ。これは鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記載されている話で、建長3年(1251年)に牛のような怪物が浅草寺に忽然と現われ、寺を忙しく走り回ったとされる。それを目撃した寺僧50人のうち、24人が病に侵され、7人がその場で死亡してしまったという。

 「新編武蔵風土記稿」ではこれを引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現われ、浅草の対岸にある神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている。この時に飛び込んだ神社というのが「牛嶋神社」ではないかと言われている。

 「牛嶋神社」は過去に「牛御前社」と呼ばれていたり、位置も隅田川を挟んで浅草の対岸にあるなど、ゆかりが深そうな場所だ。ちなみに境内には「撫牛」と呼ばれる、自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている牛の像がある。ほかにも、本殿前の鳥居は三ツ鳥居と呼ばれる珍しい形態の鳥居や狛牛をみることができる。

【牛嶋神社】

▲東京都墨田区向島1-4-5

 また、江戸時代初期の古浄瑠璃である「丑御前の御本地」によれば、平安時代の豪族・源満仲の妻が、三年三月と云う長い妊娠期間を経て、丑の年丑の日丑の刻に牛の角と鬼の顔を持つ男児を出生したとされる。この男児は殺害を命じられるが、殺害を命じられた女官が救い出して山中で密かに育て、後に丑御前と呼ばれるようになる。その丑御前と闘ったのが源頼光だ。

【源頼光】

 少し脱線してしまったが、浅草寺に話を戻そう。浅草寺の敷地内には聖観音菩薩像を中心に生れ年十二支生まれ年の守り本尊八体の像「影向衆(ようごうしゅう)」をお祀りしているお堂「影向堂(ようごうどう)」がある。

【影向堂】

 ここでは外陣に浅草名所七福神の「大黒天」が祀られている。また、影向堂は朱印所でもあり、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしている。大黒天は縁結びのご利益でも知られているので、ここで英霊たちと縁が結べるようにお祈りするのもいいだろう。

【大黒天】

 ちなみに影向堂内の「大黒天」は撮影不可だが、影向堂の外にある「恵比寿大黒天堂」は撮影が可能だ。

【恵比寿大黒天堂】
祀られている像は弘法大師(空海)が造立したものだと伝えられている貴重なものだ

葛飾北斎のふるさと「墨田区」

 お次は浅草寺から徒歩でも行けてしまう台東区の隣、「墨田区」を紹介する。墨田区は稀代の天才絵師「葛飾北斎」出生の地であり、またその生涯のほとんどを過ごした地として有名な場所だ。それ故に、墨田区には葛飾北斎(以下、北斎)ゆかりの地が多く点在している。

【葛飾北斎】

 そんな北斎ゆかりの地で有名なのが本所南割下水(現在の墨田区亀沢周辺)、北斎生誕の地と言われる場所にある「すみだ北斎美術館」だ。JR両国駅の東口から徒歩約10分の場所にある緑町公園内のすぐ隣に位置するこの美術館では、多くの北斎関係作品や資料を所蔵・展示している。

※展示作品はその時の企画展の内容により変更される。
※AURORA(常設展示室)では北斎の代表作の実物大高精細レプリカが展示されている。オリジナルは企画展を中心に公開されている。

すみだ北斎美術館外観 (C)Forward Stroke
特別展「北斎 グレートウェーブ・インパクト ―神奈川沖浪裏の誕生と軌跡―」 ※開催期間:2024年6月18日〜2024年8月25日まで

 「すみだ北斎美術館」では、新紙幣採用を記念した特別展「北斎 グレートウェーブ・インパクト ―神奈川沖浪裏の誕生と軌跡―」を 2024年6月18日から2024年8月25日 にかけて開催している。「FGO」の北斎が使用する宝具「冨嶽三十六景」にも登場する、「冨嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」。そのオリジナルがこの特別展ではみることができる。

「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(吉野石膏コレクション すみだ北斎美術館寄託)※後期展示
【葛飾北斎 冨嶽三十六景】

 さらに、特別展では「神奈川沖浪裏」だけでなく、「冨嶽三十六景」の他作品や、「神奈川沖浪裏」の片鱗が垣間見える波の描かれた作品の数々が展示されている。どの作品も繊細かつ力強く描かれており、みてるだけで思わず息を呑んでしまうほどだ。

「冨嶽三十六景 甲州石班沢」(すみだ北斎美術館蔵)※後期展示
「『絵本漢楚軍談』初編 二」(すみだ北斎美術館蔵)※通期展示
「『標注 そののゆき』一第二節婦薄雪姫」(すみだ北斎美術館蔵)※通期展示

 「すみだ北斎美術館」では企画展とは別に7つの時代で北斎の足跡をたどるAURORA(常設展示室)がある。ただ、浮世絵は湿度や光などで劣化しやすいことからAURORA(常設展示室)の展示物は全て実物大の高精細レプリカ(複製)となっている。複製とはいえ、言われなければ本物と区別がつかないほどに再現された色彩や質感の高精細レプリカなので、北斎の作品を純粋に楽しむことができるはずだ。

順路どおりに進むことで、北斎の浮世絵師としての歴史を作品と共に歩むことができる

 また、ここでは「葛飾北斎(セイバー)」の宝具「諸国瀧廻り」にも登場する「諸国瀧廻り」のひとつ「木曽路ノ奥阿弥陀ケ瀧」も展示されているので、気になる方はぜひとも確認してみてほしい(2024年8月時点。定期的に展示替えが行なわれている)。

「諸国瀧廻り 木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧」(実物大高精細レプリカ)
【葛飾北斎 諸国瀧廻り】

 上記作品以外にも各時代の代表作や、北斎の絵手本、怖さすら感じてしまうほどにリアルに再現された「北斎のアトリエ」再現模型など、見どころが満載だ。

「冨嶽三十六景 凱風快晴」(実物大高繊細レプリカ)
「略画早指南」(実物大高繊細レプリカ)
門人の露木為一が絵に残した北斎のアトリエを再現した模型
あまりのリアルさに最初みたときは思わず声がでそうになってしまった

 「すみだ北斎美術館」を楽しんだあとは、103枚もの北斎作品のプリントが楽しめる「北斎通り」や、北斎が娘のお栄と住んでいた榛馬場(はんのきばば) 榛稲荷神社を訪問するのもいいだろう。

【北斎通り】
▲「北斎ギャラリー」とも呼ばれており、約1km間の道両側の街路灯や建物の壁などに103枚もの北斎作品が展示されている

【榛馬場(はんのきばば) 榛稲荷神社】
▲東京都墨田区両国4丁目34「北斎仮宅写生」(露木為一筆)で葛飾北斎が稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことが伝えられている

 また、墨田区ではなくなるが、北斎の墓所がある浅草の誓教寺(せいきょうじ)で北斎のお墓にお参りするために足を伸ばすのも良いだろう。

【誓教寺(せいきょうじ)】

▲東京都台東区元浅草4丁目6−9

東京タワーも見える「渡辺綱」ゆかりの地「港区三田」

 次は少し離れて港区を紹介する。港区といえば東京タワーで有名なエリアだが、実はそのすぐ近くにある「三田」は源頼光四天王の一人「渡辺綱」ゆかりの地としても知られている。

【渡辺綱】

 一説には渡辺綱がこの三田の地で生まれ晩年を過ごしたといわれており、「三田綱町(港区三田2丁目にあった町名)」の由来としても知られている。そのため、周辺には渡辺綱の伝承が残る寺社や綱の名がついた坂などが存在している。そのなかでも有名なのが「渡辺綱産湯之井戸(わたなべつなうぶゆのいど)」だ。三田の複数箇所で渡辺綱が産湯をつかったとされる井戸が残されており、いくつかは実際にみることができる。今回はそのなかの一つ、「弘法寺(こうぼうじ)」にある「渡辺綱産湯之井戸」を紹介する。

【高野山弘法寺龍生院(こうやさんこうぼうじりゅうしょういん)】
東京都港区三田2丁目12−5


 「高野山弘法寺龍生院(こうやさんこうぼうじりゅうしょういん)」は816年、弘法大師空海が和歌山で高野山を開創された際に声明の道場として建立された。それが明治24年(1891年)に、中興開山の渡辺貞浄尼が港区三田に寺基を移したことで現在の住所になったと言われている。

山門の石段の手前に「弘法大師御府内八十八ヶ所第拾三番」と刻まれた標石が建っている。この札所は、御府内八十八ヶ所開創当時、霊岸島の圓覚寺であったが、被災後、諸仏等と共に龍生院に移転され、第十三番札所も継承されている
2021年には、法縁にあたる宮島・大聖院より、空海が1200年前に灯した「消えずの火」を日本の寺院として初めて譲り受け、本堂にて大切に守りつづけられている

 そして、この「弘法寺」が立っているこの場所は、伝承でかつて渡辺綱が住んでいたとされている屋敷跡とされ、境内には渡辺綱が誕生した際に産湯として使われたとされた井戸が残されている。

【渡辺綱産湯之井戸】
井戸としての機能はもう無くなっている
弘法寺では節分の際に「鬼は外」というかけ声はせずに「福は内」だけで行なわれる。これは渡辺綱によって鬼(酒呑童子や茨木童子)が退治されていることから、渡辺由来の場所に鬼は恐れて近づかないからだそうだ。恐るべき渡辺パワー

 ちなみに、「弘法寺」以外に「綱生山當光寺(こうしょうざんとうこうじ)」でも伝承がのこされており、渡辺綱がそこで生誕して晩年も余生を送ったといわれている。山号の「綱生山」は渡辺綱の生誕地が由来とされている。この當光寺でも渡辺綱が産湯に使ったと云われる井戸があるのだが、その場所は當光寺向かいにある現在のオーストリア大使館敷地(旧蜂須賀邸)敷地内となっている。

【綱生山當光寺(こうしょうざんとうこうじ)】

▲東京都港区三田1丁目12−11

 井戸を堪能したあとは、散歩がてらに街なかにある綱の名前が刻まれた場所を巡るのがオススメだ。有名なものとしては港区三田2丁目の駐日イタリア大使館と三井倶楽部庭園の間にある坂道「綱坂」や、港区三田一丁目と二丁目の間で渡辺綱が幼少の砌に姥に手を引かれて行き来したという伝説がある「綱の手引き坂」などがある。また、この付近(三田二丁目)はかつて三田綱町(みたつなまち)と呼ばれていたことから、現在でもビルなどの名に「三田綱町」の名が残っている。

【綱坂】

▲東京都港区三田2丁目4−19

【綱の手引き坂】

▲港区三田一丁目と二丁目の間

坂本龍馬の人生に大きな影響を与えた黒船来航の地「品川区」

 港区に続いて紹介するのは下に向かって隣の品川区にある「東大井」。ここはある意味で「坂本龍馬」伝説のスタート地点とも言える場所だ。

【坂本龍馬】

 幕末の1853年、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航した。幕府は土佐藩を含む各地の大名に対して警備命令を出し、当地にも土佐藩管轄の浜川砲台が設置された。また、まだ若かりし頃の坂本龍馬もこの黒船来航時に土佐藩から沿岸警備の命令を受けて当地に着任していたと伝えられている。この事件をきっかけに坂本龍馬は「どうしたら列強諸国から日本を守ることができるのか」を考えるようになった。その後、故郷に戻った坂本龍馬は河田小龍にことのあらましを相談し、以後海軍をつくることを夢とした。

 その歴史から、現在の京急「立会川」駅をでてすぐの所にある品川区立北浜川児童遊園では、坂本龍馬のブロンズ像が町を見守るように佇んでいる。

【北浜川児童遊園】


この公園を中心に、浜川砲台跡や土佐藩品川下屋敷跡へと向かうことができる
龍馬像は区民の方々が推薦し、投票で選定された「しながわ百景」のひとつにもなっている

 ちなみに現在の浜川中学校を中心とした地域は、かつて土佐藩の下屋敷があった場所。ペリー再来航後の安政初年には立会川河口左岸に砲台が設置されていた。その砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つ「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長3メートル、車輪の直径1.8メートル)で再現したものが、立会川を進んだ先にある「新浜川公園」に設置されている。

現在は大部分が住宅地になり、沖合いも埋め立てられて勝島運河となっている場所にひっそりと大砲が佇んでいる

 ちなみに「FGO」の坂本龍馬と言えばいつも傍らにいるお竜さん。その正体は史実における坂本龍馬の妻「お龍(楢崎龍)」……ではないことから、実際には関係はないのだが、横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)には坂本龍馬の妻である楢崎龍(おりょう)の墓があることをこの機会に紹介しておく。

【信楽寺(しんぎょうじ)】

▲神奈川県横須賀市大津町3丁目29−1

駅前で静かに佇む新選組隊士の地「近藤勇墓所・新選組隊士供養碑」

 最後に紹介するのは池袋駅からわずか一駅で行くことができる板橋駅の前に位置する「近藤勇墓所・新選組隊士供養碑」だ。この板橋駅前は新選組の隊長「近藤勇」が処刑された地として知られている場所だ。

【近藤勇墓所・新選組隊士供養】
東京都北区滝野川7丁目8−10


 近藤勇の没後、明治九年(一八七六)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本性長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立された。供養碑には近藤勇、土方歳三、そして新撰組隊士や近藤勇が暗殺させた芹沢鴨、伊東甲子太郎、藤堂平助の名も刻まれており、多くの新選組隊士の冥福を祈ることができる場になっている。また、同じ敷地に永倉新八の墓もあり、本人の遺志によりこの地に遺骨の一部と遺髪が埋葬されている。

【永倉新八】
【土方歳三】
【近藤勇・土方歳三・新撰組隊士供養塔】
高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文が刻まれている。正面には「近藤勇冝昌 土方歳三義豊之墓」近藤勇だけでなく副長の土方歳三の名も刻まれている
近藤勇の諱である昌宣が何故か逆の冝昌とされているが、理由については明らかになっていない
裏面には、「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長 倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれているが、風化により一部は現在判りにくくなっている
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたって合計百十名の名前が刻まれているが、こちらも風化によりその多くは読むのも困難な状態になっている
目を凝らすと左側面の最上段、右から3番目に山南敬助、4番目に沖田総司の名が刻まれているのがうっすらとわかる
【山南敬助】
【沖田総司】
【近藤勇の供養碑】
【無縁塔】

 供養碑の近くには処刑後に近藤勇の胴体が埋められたとされる近藤勇埋葬当初の墓石が佇んでいる。この地に埋葬された近藤の胴体は処刑の3日後に近藤勇五郎(近藤勇の甥)が掘り起こし、近藤家の菩提寺がある東京都三鷹市の龍源寺に埋葬したとされている。

【近藤勇の最初の墓石】
【永倉新八の墓】
【近藤勇の全身像】
【近藤勇の石板】
【近藤勇・土方歳三・永倉新八の肖像が張られた掲示板】
【掲示「近藤勇と新撰組隊士供養塔」】

 このほかにも、東京都新宿区内藤町には沖田総司逝去の地を示す案内板、年一回の「沖田総司忌」の時のみ沖田総司のお墓参りができる港区元麻布の専称寺(せんしょうじ)、新選組隊士の多くが訓練した稽古場の跡地など、新選組ゆかりの地が都内には多く存在している。

【沖田総司逝去の地】


【専称寺(せんしょうじ)】


 お寺に迷惑のかかる事態が過去にあったことから、現在は墓地自体が非公開。年に一回、「沖田総司忌」の時だけ、墓地に入ってのお墓参りが可能となる。また、お寺やその周辺に迷惑がかかると、年一回の墓参りも中止になる可能性があることから、ファンの間では専称寺への電話や問い合わせも厳禁とされており、花や供物も受け付けていないので注意してほしい。

 また、今回はアクセスの都合で取り上げなかったのだが、新選組が好きな方には「日野市」もオススメだ。新宿から電車で約40分の距離にある東京都日野市は「土方歳三」が生まれ育った場所で、近藤勇や沖田総司が剣術の稽古に励んだ地でもある。そのため、市内には新選組ゆかりの場所が多く存在していることで有名だ。なかでも新選組の貴重な資料が多く展示されている「日野市立新選組のふるさと歴史館」や、土方歳三の次兄である隼人喜六から数えて6代目の子孫である土方愛(ひじかためぐみ)さんが土方歳三の生家跡で館長を務める「土方歳三資料館」などは是非とも訪れたい場所になっている。

【日野市立新選組のふるさと歴史館】

▲東京都日野市神明4丁目16−1

【土方歳三資料館】

▲東京都日野市石田2丁目1−3

探せば探すほど見つかるゆかりの地

 今回はできるだけアクセスしやすい場所や、見ごたえのある場所をメインに紹介したが、東京都内にはこれら以外にもたくさんの「FGO」英霊ゆかりの場所がある。正直数え上げたらキリがないので全ては紹介できないが、他にはこんな場所があったりもする。

【新宿御苑】
▲東京都新宿区内藤町11「亜種特異点Ⅰ 悪性隔絶魔境 新宿 新宿幻霊事件」でジャンヌ・ダルク〔オルタ〕とエミヤ〔オルタ〕が戦闘を行った場所

ゲーム内では明言されているだけで特に描写はないが、角川コミックス・エースで連載中の「Fate/Grand Order ‐Epic of Remnant‐ 亜種特異点I 悪性隔絶魔境 新宿 新宿幻霊事件」2巻で新宿御苑の森林エリアと思われる場所で戦闘する姿が描かれている
【ジャンヌ・ダルク〔オルタ〕】
【エミヤ〔オルタ〕】
【土蔵相模跡】

▲東京都品川区北品川1丁目22−2

 旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は通称「土蔵相模」と呼ばれ、高杉晋作ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られている。英国公使館の焼き討ち実行の日に集結したのもこの場所。昭和初期まで建物が残っていたが、現在は一階にコンビニが入ったマンションとなっており、土蔵相模跡を示す石碑や案内板のみが残されている

【高杉晋作】

 このように、東京にはFGOに登場する英霊たちにゆかりのある場所が数多く存在している。なんなら博物館まで加えれば、東京は英霊召喚するために必要な触媒の宝庫ともいえる。東京だけでなく千葉、神奈川も加えるとゆかりの地をもつ英霊がまだ多く存在している。本稿で興味を持った方は、自身でもぜひ調べてみてほしい。

 そして筆者からひとつだけお願いがある。聖地巡礼をする際は、ルールやマナーを守り節度ある行動を心がけ、地元の方へ配慮しながら迷惑をかけないように楽しむことを心がけてほしい。

 さて、いよいよ今年で9周年になり、2桁が目前となった「FGO」。本年も例年に違わず大量の聖晶石や呼符の配布、さらには9周年日替わりピックアップや福袋、ディスティニーオーダー召喚などが開催されている。この機会に浅草の大黒天に英霊たちと縁が結べるようにお願いしたり、今回紹介した英霊ゆかりの地を触媒にお目当てのサーヴァントの召喚にチャレンジしてみてはどうだろうか。