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戦時下の市民を描いた「This War of Mine」、逆転の発想
プレーヤー自身の内なる感情を揺さぶる5つのデザイン哲学
(2015/3/9 10:56)
GDCではたくさんのユニークなゲームのデザイン理論を知ることができるのが楽しみのひとつだが、その中でも、このGDCに合わせて開催されたIndie Games Festival にて栄えあるAudience Awardを受賞した「This War of Mine」のポスモーテムセッションは興味深い。
「This War of Mine」は2014年末のスマッシュヒットとなったインディーゲームで、戦時下における市民のサバイバル生活を描いた衝撃作だ。本作では包囲戦の中に取り残された市民となり、飢餓や病気、野盗の恐怖などと闘いながら終戦まで命をつなぐことだけを目指す。独立した人間として描かれるキャラクターたちは苦しみ、悩み、時に精神を病み、自殺することもある。沈痛な雰囲気をたたえつつも、プレイする毎に異なる展開に直面し、心を揺さぶるドラマが次々に生まれていくという傑作だ。
Independent Games Summitの中で開催された「This War of Mine: Rising Emotions From Narrative(ユニークなナラティブから沸き上がる感情)」と題するセッションでは、本作を開発した11bit studiosのライター、Pawel Miechowski氏が登壇。本作のデザイン哲学を、5つのポイントに分けて解説した。
“ジャンル分類不能なゲームシステム”を生み出した発想法
Miechowski氏が本作のデザイン哲学の筆頭に挙げたのは、ゲームをデザインする際にジャンルを考えるなということだ。11Bit studiosの開発チームは本作の開発時、「戦時下を生き延びる市民のゲームを作る」ということだけを考え、FPS的であるとかRTSであるとか、そういったジャンル分けの考えを完全に捨てて設計に臨んでいたという。ジャンルにこだわってしまえば、規定のゲームデザインに引っ張られて、本当に必要な発想ができなくなってしまう、という考え方だ。
確かに「This War of Mine」は、ジャンル分けが難しいというか、明確なカテゴライズが不可能なゲームだ。ある面ではRTS的でもあるし、アクション性もある。日数の経過はターンベースストラテジー的であり、はたまた「The Sims」的な市民生活観察シム風の側面もある。死んで覚える系の繰り返しプレイを要求するスタイルも持ち合わせ、その点ではローグライク風だ。分類を試みるとこんなに錯綜してしまうノンジャンルぶりなのに、実際は「これしかない」という組み合わせで見事なゲームが構築されているのが本作最大の美点といえる。
それだけイノベーティブなゲーム性を持った作品であるだけに、システム面の試行錯誤には大きな苦労があった。それが本作2つめのデザイン哲学、「テスターをよく観察せよ」につながっている。
当初はキャラクターごとのバックグラウンド設定などが用意されていなかったそうで、その結果、テスターたちはキャラクターに感情移入することなく、システマチックにゲームをプレイする傾向が目立ったという。そこでキャラクターの描写を強化。ひとりひとりに戦前からのストーリーを用意し、それぞれ個性的な「市民」としての側面を際立たせた。
独特なインベントリーシステムにもプレイテストからのフィードバックが生かされている。本作にはいわゆる「武器スロット」が存在しないが、当初は存在していた。すると、テスターたちはこぞって武器を装備し、積極的に戦うようになってしまったのだ。これでは兵士のゲームになってしまう。
ということで一工夫。武器スロットをなくしたうえで、インベントリーのプライオリティ(並び順)で武器を一番低くした。さらに、“Inventory”という呼び方をやめ、“Our Things”という表示にした。戦時下の市民にとって、武器も包帯も木の板も、等しく生きるために必要な“Things”なのである。すると、テスターたちは貴重なアイテムスロットを食料や素材を集めるために集中するようになり、武器を持つのは本当に必要な時に限る傾向が生まれてきたという。
プレーヤーの常識を逆手に取り、語らぬ方法で心を揺さぶる
こうして本作のゲームシステムは、「市民生活」のテーマ性により深くフォーカスするものになっていった。そこでさらなるこだわりを与えられたのが、プレーヤーの意思決定をどのように導くかという部分だ。それが第3のデザイン哲学「判断のプロセス」。
ヒントになったのは、あるテスターの行動だ。他人の家で物資を根こそぎ盗み、いったんはシェルターに戻ったものの、じわじわと罪悪感を感じてしまい、結局、多少の物資を戻しにいったという。ゲームシステムは何も強制していないのだが、市民生活にフォーカスしたゲームの雰囲気が、プレーヤーの市民としての気持ちを呼び起こし、らしい行動を促したわけである。
このときプレーヤーは、自分がした行動を自己評価することによって、新たな判断の基準を作り出している。そういった心の動きを促すために本作では、「根こそぎ奪って数日後に戻ると住人が死んでいる」といったナラティブ要素が意図的に膨らまされている。また、ゲーム中の意思決定材料に多くの不確定要素、ジレンマが発生するような工夫を凝らすことで、プレーヤーが自分の下した判断を振り返ることを促す。
そういったプレーヤーの感情を利用するにおいて、ゲームデザイン上で意識されたのが4つめに挙げられた「私達はプログラムされている」という哲学だ。
どういうことかというと、人というのは多かれ少なかれ「お約束」に思考を縛られている。その逆を突く。例えば、「戦争のゲームなら、銃を持って敵を倒すものだ」というお約束の真逆、市民の視点というものをやるのが「This War of Mine」のゲームコンセプトそのものだ。この手法をゲームの随所に生かすことで、本作は事ある毎にプレーヤーの感情を激しく揺さぶる強さを手に入れている。
不安、恐怖、安堵、後悔、焦燥……さまざまなプレーヤーの感情を呼び起こす本作だが、ゲームシステムとしては多くを語らない手法を取ることで、それをさらに効果的なものとしている。それが5つ目のデザイン哲学として挙げられた「シンボル」となる。
もし本作が、テキストやナレーションやカットシーンで「ここ泣く所ですよ」、「ここ笑う所ですよ」、「怖いですよ」みたいな押し付けがましい演出で構成される作品であったら、説教くさく思うだけで感動することはなかっただろう。そこで本作ではあくまで語らず、暗示の手法を多用することで、多くをプレーヤーの想像に任せる演出スタイルを採っている。
例えば、キャラクターのひとりが過去の殺人や盗みを気に病みつづけ、やがて自殺してしまった場合。ここでは直接的な表現をせず、宙に浮いた足のビジュアルだけで、悲惨な風景をプレーヤーに想像させる。いったん想像が始まると、あれやこれやと思いが膨らんでいくものだ。
また、本作では時折助けを求める訪問者がくるのだが、その演出も敢えて情報を抑えており、想像をかきたてるつくりだ。ある日、玄関先に2人の幼い兄弟がやってくる。母が病気で薬が必要だという。薬を渡す。また数日後、同じ兄弟が食料を求めにやってくる。その間に何があったのかは決して語られない。それがプレーヤーに思いを巡らす機会を与え、それぞれの感情を呼び起こす呼び水となる。
これら5つのデザイン哲学が見事に融合し、ゲームシステム的にもゲームプレイの体験的にも極めて美しく印象的な作品となった「This War of Mine」。商業的にはSteamで販売を開始後2日で元がとれたというほどの成功を収め、リリースから数カ月がたった今でもSteam上で人気タイトルのひとつとなっている。