【特別企画】

6月16日は「スペースインベーダー」の日! 45周年の今日、アーケードゲーム初期の大ヒット作を当時の環境と共に振り返る

【スペースインベーダー】

1978年6月16日 発表

 ゲーム業界では、今やその名前を知らない人はいないであろうタイトル「スペースインベーダー」は1978年の6月16日、当時のタイトー本社ビルで新作発表会が行われた時、初めて世に登場した。

 この時期のゲームセンターといえば、筆者の記憶にあるのはホテルや旅館などの一角にあったコーナー。そこには俗に言うエレメカが置かれており、なかでもコインを入れるとターゲットが正面の巨大なモニタ左右端から飛び出し、それを付属している銃で撃ち落とすというナムコ(当時)のクレー射撃ゲーム「シュータウェイ」が非常に印象深い。この時代は、コインを入れるとそれに応じた時間だけゲームをプレイできるというシステムが多く、ゲームが上手いからといって長く遊べるというわけではなかったと記憶している。

 ほかにも、ATARIから1979年にリリースされたトラックボールで操作するアップライト筐体の「BASKETBALL」は、コインを入れるごとにプレイ可能な時間が増加したので、友人と二人で時間を延ばしバカなプレイに興じたものだ。

 「スペースインベーダー」はそんな時代のゲームだったが、実際に稼働したのは発表からしばらく経ってからのことで、当方が住んでいたのは田舎だったためか(?)、初めて目にしたのは翌年の1979年だったかと思う。通っていた小学校からわずか徒歩2分ほどにあった駄菓子屋の、その外に置かれていた1台のテーブル筐体で稼働していたのが「スペースインベーダー」だった。ちなみに、この駄菓子屋とほぼ正反対側の場所にも別の駄菓子屋があり、そちらは店の奥にひっそりと「ブロック崩し」が置かれていた。

 本稿では、そんな「スペースインベーダー」を当時のゲームプレイ環境と共に振り返っていく。

シュータウェイは、ナムコ(当時)から1977年にリリースされていた、エレメカ式クレー射撃体感マシン。飛んでくるクレーを、リアルな銃を構えて狙い撃ちし破壊する(引用:バンダイナムコ知新「第1回 ビデオゲームのはじまり 前編」大杉章氏インタビューより)

シンプルながら奥が深い。“ナゴヤ撃ち”などのテクニックも生まれた「スペースインベーダー」

 「スペースインベーダー」にはさまざまな種類があったが、筆者がプレイしていたのはモノクロタイプだったと記憶している。当時日本中を沸かした大ヒット作のルールを知らない人はいないと思われるが、改めて概要を説明しておこう。

 プレイヤーは上空に並ぶインベーダーを、自機であるビーム砲(CANON)を左右に操作して敵弾をかいくぐりながら反撃し、すべて倒すのが目的となる。インベーダーの出現数は、一番下のタコ(OCTOPUS)が11体×2、カニ(CRAB)も11体×2、そして最上段のイカ(SQUAD)が11体の合計55体。ビーム砲の上には合計4つのトーチカが配置されており、自機または敵弾を受けるごとに少しずつ削られていく。自機のビームが通り抜ける幅だけ壊して陰からインベーダーを狙うといった攻撃にも、敵弾を防ぐ防御にも役立つのだが、インベーダーがトーチカの段まで降りてくると、動くごとに移動幅分だけ消滅させられてしまう。

画像はプレイステーション2用「SPACE INVADERS ANNIVERSARY」より
ゲーム開始直後は、このような感じで凄然とインベーダーが並んでいる。最下段の凸型グラフィックが自機となるビーム砲で移動は左右のみ。その上に見える逆凹型がトーチカだ。1面や2面ならインベーダーとの距離があるので、これといったテクニックを使わなくても端から倒して行けばクリアは難しくない

 敵弾のビーム砲が被弾すると自機を1機失い、インベーダーが最下段まで辿り着いてしまうと侵略されたということで、自機の残機がいくつあっても即座にゲームオーバーとなる。

 上空には一定時間ごとにUFOが出現するのだが、法則に沿って命中させることで、最高で300点を得ることが可能だ。

 難易度としては、8面まではクリアするごとにインベーダーの出現位置が1段ずつ降りてくるため、徐々にビーム砲との間が狭くなり難しくなっていく。8面をクリアすると、9面はインベーダーの出現位置が2面の状態に戻り、再び3面の位置→4面の位置……と繰り返す。

UFOは、決まった時間が経過すると出現する。さらに8発目と23発目、以降も特定の弾数で撃つと300点がゲットできる仕組みになっていた

 「スペースインベーダー」は最初はモノクロ画面だったが、翌年の1980年になると地元ゲームセンターでもセロファンものやカラーバージョン、さらにはアップライト筐体も入荷していて、こんなにバージョンがあったのか、と驚いたのを覚えている。今回の記事で使用している写真は、プレイステーション2用タイトルとして発売された「SPACE INVADERS ANNIVERSARY」を使用しているが、ここに収録されているセロファンバージョンの写真はかなり綺麗で、実際に当時プレイしていたときに「セロファン効果でカラーに見えて凄い!」とは、さすがにならなかった(笑)。また、筆者がカラー版を実際にゲームセンターで見た頃には、既に「パックマン」といった新たなタイトルが稼働していた時期だったので、ほとんど遊んでいないのが今思うと悔やまれる。

アップライト筐体のバージョンによっては、左右移動はレバーではなくボタンで行なったものもある。こちらのほうが馴染みがある、という人もいるかもしれない
セロファンの貼られた筐体でのプレイは、こんな感じ。筆者が当時プレイした実機は、こんなに綺麗にセロファンが並んでいなかった気がする
カラー版ならば、被弾した時に画面が赤くなるエフェクトが見られる。モノクロバージョンではあまり“ヤラレタ”感がないが、カラーバージョンは恐怖すら感じてしまう演出だった
撮影に使用した「SPACE INVADERS ANNIVERSARY」には、今回の記事でメインとなる「スペースインベーダー」のモノクロ版、セロファン版、カラー版だけでなく、「スペースインベーダーパートII」や3Dモード版なども収録されている
「SPACE INVADERS ANNIVERSARY」には資料として、開発者である西角氏へのインタビューを始め、プログラムリストやフローチャート、さらには当時のインベーダーハウスの映像なども収められている。なお、この作品が発売されたのは「スペースインベーダー」が25周年を迎えた時だった

 また、この時期には「スペースインベーダー」を模倣したタイトルも数多くリリースされており、その中でも筆者が一番プレイしたのは任天堂から発売されていた「スペースフィーバー」だった。最初にA、B、Cの3つのモードからゲームを選ぶ仕様だったように記憶しているが、モードBを選ぶと自分的には1コインで長く遊べたので、それ以外はほとんど体験していない気がする。

 ちなみに、筆者が「スペースインベーダー」をプレイしていた時期は、家庭で遊べるテレビゲーム自体がまだまだ珍しく、自宅では誕生日プレゼントとして買ってもらった任天堂の「カラーテレビゲーム15」を楽しんでいた。入手当初は“15種類も入っていればさぞかし飽きないだろう”と思っていたのだが、しばらくすると“どれを選んでも似たようなゲームしか始まらない”ことに気がつき、結局の所はそれほど堪能しないうちに飽きてしまうことに。もっとも、それでも両親の目を盗んでちょいちょいプレイしていたのだが、最終的には遊びすぎが見つかり、あえなく親に怒られるという結末を迎えてしまった。

任天堂が当時発売していた、15種類の「テニスゲーム」が遊べる「カラーテレビゲーム15」。15種類のゲームを収録していたことがウリだったが、どれもこれも似通っていた

 そんな時に見た「スペースインベーダー」は、攻撃してくる敵を相手にプレイヤーがミサイルを撃って反撃できるだけでなく、撃つタイミングによって得点が異なるUFOや、なぜかインベーダーが最下段まで降りてくると敵弾が当たらなくなるといった謎めいた部分もあり、「アーケードゲームはこんなに凄いのか!」となって、たちまちハマってしまった。とはいえ、小学生のお小遣いなどはたかがしれているので、学校に通う6日のうち(この頃は、毎週土曜日午前中は普通に授業が行われていた)3日くらいは塾に行き、残りの3日は駄菓子屋で駄菓子を食べたり“パレード”のようなジュースを飲みながら、貴重な1プレイに興じていた。

 この時代のゲームセンター、もしくはゲームコーナーを知っている人ならばわかると思うが、テーブル筐体に照明が反射して見づらくなるのを防ぐために、わざと照明を落としていたのを覚えているだろう。筆者が通っていたこの駄菓子屋では、幸いにしてテーブル筐体が店外に配置されていたため、照明を落とすということとは無縁だった。代わりに、容赦なく降り注ぐ太陽光で画面が見えなくなるため、筐体の上には両側に穴の空いたダンボールが置かれ、そこに顔を突っ込んでプレイするようになっていた。

こんな感じのダンボール箱をテーブル筐体の上に置き、顔を突っ込んでプレイしていた。日差しの明るいところでも画面がハッキリ見えることと、攻略法をギャラリーに盗まれないというメリットがあったため、当時はあちこちの駄菓子屋に置かれていたテーブル筐体で見かけた。ダンボールの代わりに、ビール瓶やパレードのケースをテーブル筐体の上に積んで暗くしていた人も

 当時の、屋内に筐体を置いていた駄菓子屋やゲームセンター・ゲームコーナーは、照明が反射して画面が見えなくなるため、必然的に照明を落として暗い中で営業をしていた。そんなところへは、いわゆる“不良”が出没し、俗に言う“カツアゲ”の被害に遭う人も。筆者も、暗い駄菓子屋で被害に遭った一人だったが、まったく懲りずに同じお店へ何年も通ったのは単にアホだったのか、それとも恐怖以上に興味を惹かれるものがあったからなのか……。ちなみに、駄菓子屋には店主として、基板にゲジゲジ(ICチップ)を取り付ける内職をしながら駄菓子を売っている“おばちゃん”がいたのだが、カツアゲする人間のほうが腕力があって強かったためか、その様子を目撃しても咎めるのを見たことはなかった。今考えると「まぁ、確かに」とは思ってしまうが。

 そういった背景もあり、通っていた小学校では当たり前のように「ゲームセンター禁止令」が出されていた。ゲームをプレイしているところを見つかろうものなら、翌日の学級会でつるし上げられ、先生からお説教を喰らい、家に帰れば親から雷が落ちたものだが、おバカな自分は何度怒られてもゲーセンへ足を運ぶことを辞めることはなかった。今思うに、やはり学習能力のないアホな子供だったということだろう(笑)。

 話が少し横道にそれたが、このダンボールがあったことで自分は“人のプレイを盗めない=なかなか腕が上達しない”ということに。それでも、上級生や中学生といった、当時の自分からすれば“怖い人たち”がプレイしているところを時々チラ見しながら覚えたのが、そこでは“谷間撃ち”と呼ばれていた攻略方法。世間一般ではいわゆる“ナゴヤ撃ち”(インベーダーが一番下まで降りてくるのを待ってから一気に殲滅するテクニック)が有名だが、筆者のところでは“谷間撃ち”のほうが多くを占めていたのが印象に残っている。

筆者の地方で流行っていたのは、中央のエイリアンを倒して両側を残す、通称“谷間撃ち”。ただし、あくまでもローカルでの呼び方なので、別の場所ではまた違った名称がついていたかもしれない

 しかし、盗み見できたのはそこまでで、UFOで高得点を出す方法などは結局分からずじまい。レインボーには何度か成功したのだが、当時は正確な出現方法を知らず偶然の産物だったこともあり、謎テクニックのまま放置してしまったことを覚えている。

 また、エイリアンが最下段まで降りてくると有無を言わさずゲームオーバーになってしまうルールが思った以上に厳しく、残機があってもゲームを強制的に打ち切りにされてしまうのが納得いかず、それほど上手ではなかった筆者は早々に冷めていったように思う。

先に30点のイカと20点のカニを倒し、10点インベーダーのタコを最後まで残しておくとレインボーとなる。しかし、この状態の敵を倒したからといって、何か特別な点数を得られるわけではない。むしろ、右端に2回辿り着かれてしまうと突然占領されてゲームオーバーになってしまうリスクがある
各種テクニックに関しては、地方ごとにいくつかの呼び名があったようだ。トーチカに穴を開けてその影から敵を撃つテクニックは、「ゲームセンターあらし」では“デストロイヤー”、インベーダーの隊列の隙間からUFOを撃つ方法は“ブレイク・アウト”と紹介。最下段にインベーダーが降りてきても、敵弾にやられない技は“必殺・不死鳥(フェニックス)”という名前が付けられていた。写真のページは、太田出版より発売された「ゲームセンターあらし」の第1巻より

 そんな筆者が「スペースインベーダー」や「インベーダーゲーム」を遊び始めたのは1979年中頃から80年初頭にかけてだったと思うが、これらの作品がきっかけで、駄菓子屋だけでなくゲームセンターやゲーム喫茶、はては小学校で禁止されていた学区を越えての移動をしてまで隣町の駄菓子屋やゲームセンターなどにまで足を伸ばすようになる。

 また、この時期には、「ギャラクシーウォーズ」や「ギャラクシアン」、「ルナーランダー」といったタイトルも出てきていたこと、そして(小学生にしては)遠くのゲームセンターなどへと出かけていたこともあり、その後は「インベーダーゲーム」に限らずアーケードゲーム沼にドップリとハマってしまうことに。

 そんな「スペースインベーダー」が今日で発表から45年が経過したということは、自分もそれだけ年齢を重ねてきてしまったのか……と、そんなことを思いながら今日もまた、ゲームセンターに足を伸ばすのだった。