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堀井雄二氏が「ドラゴンクエスト」の30年を一挙に振り返る!

「DQXI」最新情報も公開! CEDEC 2016最終日基調講演レポート

8月24日~26日 開催

会場:パシフィコ横浜

 CEDEC 2016最終日となる8月26日、目玉となる基調講演「ドラゴンクエストへの道 ~ドラゴンクエスト30周年を迎えて~」が開催された。

 講演は「ドラゴンクエスト」シリーズのゲームデザイナー、堀井雄二氏と、スクウェア・エニックス執行役員エグゼクティブ・プロデューサーの齊藤陽介氏が登壇し、斎藤氏が堀井氏に「ドラゴンクエスト」シリーズ30年の思い出を聞いていった。

漫画、ライター、そしてマイコン。「ドラゴンクエスト」前夜その1

ゲームデザイナーの堀井雄二氏
スクウェア・エニックス執行役員エグゼクティブ・プロデューサーの齊藤陽介氏

 話題は「ドラゴンクエスト」誕生以前、堀井氏の幼少期から話がはじまった。堀井氏は幼い頃から「工夫すること」が好きだったそうで、小学生のときに自分でスマートボールをベニヤ板で作成し、玉が入賞の穴に入ると5個の玉が一気に出てくる仕組みをも考えて組み込んでいたという。

 また学生時代には麻雀にもハマったそうだが、ただ麻雀を遊ぶだけでなく、牌を裏返しに並べ、めくって出た数字だけ進むすごろくを遊んだり、トランプの「七並べ」ならぬ「牌並べ」をして遊ぶなど、新しい遊びも考えて楽しんでいた。

 堀井氏は高校生当時漫画家になりたかったそうで、高校3年生の夏休みに東京を訪れ、当時漫画雑誌に住所がそのまま載っていた永井豪氏の事務所を訪れて、いきなり原稿を持ち込む。

 その時永井氏は会ってくれたそうだが、「ふーんという感じ」で反応はイマイチ。「これはキツイから学校へ行こう」となり、ただし漫画家になる夢は捨てずに、早稲田大学に入学して漫画研究会に所属することとなる。

 そこでは有名な先輩がいたり、編集者のツテがあったりして、そのうち物書きの仕事が舞い込むようになると、「漫画を描くよりも文章を書くほうが楽だな」となって、自分で書いた文章にイラストを付けたりしつつ、そのままフリーライターとしての道を歩んでいく。

 当時書いた記事として話題に上がったのは、山口百恵さんの楽曲「美・サイレント」にある「あなたの○○○○が欲しいのです」という歌詞をめぐって、「○○○○」には何が入るのかを好き勝手想像していくというコラム。読者の反応がとても良く、思い出深い記事になっているそうだ。

 その後堀井氏に大きな転機となるが、27歳で出会う「マイコン」。世間で話題となっており、堀井氏自身も「買ってみるか」となったそうだが、当時はキーボードに触ったことがなく、いきなり高いものは購入できなかった。そこで目を付けたのが「パピコン」の愛称が付いていた日本電気の「PC-6001」。何十万円もするような本格的なものに比べると簡素ではあるが、当時10万円ほどで購入できたため、購入を決意。BASICの教則本「みんなで使おうBASIC」も購入し、「なんかできそうだな」と徐々に覚えていったという。

 初めて作ったのは名前や血液型などを入力して結果を表示させる占いプログラム。誰かが遊びに来るとわかったときは、占い結果の出力文にあらかじめその人の詳細な情報を書き込んでおいて、試しに占いを遊んだ友人がその当たり過ぎる結果を見て「こんなにわかるのか」と驚いてしまう、というイタズラを楽しんでいたそうだ。

 当時はBASICで書かれた「スタートレック」や「信長の野望」といったゲームを楽しみ、さらにBASICのパラメータを書き換えられるという仕様を活かし、ステータスを改造して遊ぶといったことも行なっていたという。

ゲーム開発本格始動! 「ドラゴンクエスト」前夜その2

 それから半年ほどが経過し、堀井氏が取り掛かったのがテニスゲームの「ラブマッチテニス」。ただしBASICでは速度が出せなかったため、「マシン語入門」という本を購入して16進数でマシン語を導入することを決意。このマシン語が「頭がこんがらがる」ほど大変で、「次の日何を書いたか覚えてない」こともあった。

 そんな折、堀井氏は当時のエニックスが伝説のゲームコンテスト「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を開催することを知る。堀井氏はすでに週刊少年ジャンプで文章を書いており、「マイコンゲーム特集」の担当者でもあった。コンテストの取材も依頼されたのだが、堀井氏はしれっとそのコンテストに「ラブマッチテニス」を応募。「受賞作が決まった」というのでエニックスに行ってみると、見事「ラブマッチテニス」も入選しており、取材しながら自分も受賞するという状況を体験したそうだ。

 コンテスト入選の13作品はエニックスから発売もされ、それが評判だったということで、次回作の依頼が来ることになる。そのとき堀井氏が目を付けていたのが、「海外で流行っている」と聞いた「ミステリーハウス」に代表されるアドベンチャーゲーム。

 アドベンチャーゲームは言葉をやり取りするゲームということで、漫画作りにも通じる「物語を作る」ことができ、さらに依頼作なので「誰かに遊んでもらえる」ものになるので、堀井氏はこれに着手することになる。そうしてできあがったのが、「ポートピア連続殺人事件」(1983年)だ。ちなみに「ポートピア連続殺人事件」の物語は、その最初と誰が犯人かという最後をまず作っておいて、その後中間をどうするかを組み立てていったという。

 その後はPC用の「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」(1984年)、「軽井沢誘拐案内」(1985年)とアドベンチャーゲームを発表。それまでは堀井氏が1人でゲームを開発していたが、「オホーツクに消ゆ」ではシナリオだけを担当し、ここで初めて分業を経験したという。

 ちなみに「オホーツクに消ゆ」では行動をいくつかの種類から選択する「コマンド選択式」が初めて導入されており、また当時は「ウィザードリィ」や「ウルティマ」といったRPGに絶大にハマっていたそうで、RPGを作りたい気持ちが出てきて、「軽井沢誘拐案内」ではアイテムを拾ったり、戦闘する要素が見られており、「ドラゴンクエスト」に繋がる要素がこの2作品から窺い知れる。

 時を遡って1983年、世間で話題となっていたのが任天堂のファミコンだ。当時は子供人気も圧倒的なほどの大ブームで、堀井氏自身も「ドンキーコング」などをプレイして、「これが家でできるのか」と驚いていたという。

 堀井氏はそのうち「ファミコンでRPGを作りたい」と思うようになり、実現に動き出すことになる。エニックス側からは「その前にアドベンチャーゲームを出さないか」と言われたため、「ポートピア連続殺人事件」の移植版制作を挟んでから、「ドラゴンクエスト」制作に取り掛かっていった。

 ちなみに「ポートピア連続殺人事件」の移植を担当したのは、現スパイク・チュンソフト代表取締役会長で、「ドアドア」で「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」の優秀賞を獲得していた中村光一氏。堀井氏と同じく「ウィザードリィ」と「ウルティマ」にハマっていたため、3Dダンジョン要素も移植の際に盛り込んでいる。

ダイジェストで振り返る「ドラゴンクエスト」~「ドラゴンクエストX」

 こうして、堀井氏の「RPGを作りたい」という強い気持ちが結集したのが、「ドラゴンクエスト」(1985年)だ。「ドラゴンクエスト」というネーミングは「ドラゴン」という馴染みのある言葉に、「クエスト」という当時馴染みのない言葉を組み合わせて作っている。ただし容量が64KBしかないためかなり節約して組み上げたそうだ。ここからは、「ドラゴンクエストX オンライン」までの全シリーズを、堀井氏のコメントと共に振り返っていった。

 「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」(1987年)では容量が2倍になり、パーティー編成ができるようになった。ただし慣れない人も想定して、最初は1人からスタートすることにしたという。斎藤氏は当時を振り返り、「海外RPGは誰を雇うかだけだったので、ストーリーの中で仲間が増えていくのには驚いた」と述べた。

 「ドラゴンクエストIII そして伝説へ…」(1988年)では、容量がさらに倍になり、パーティープレイも含めて様々なことができたという。「DQI」と「DQII」に繋がる「ロト」と「アレフガルド」の秘密が本作で明かされるが、「DQI」制作時に「DQIII」の構想はなかったそうだ。

 社会現象にまでなった「DQIII」の大きな反響は、「ドラゴンクエストIV 導かれし者たち」(1990年)の開発時に大きなプレッシャーになったという。「DQIV」でのコンセプトは、「DQIII」ではキャラクターごとの背景設定がなかったのに対し、「キャラクターそれぞれに人生がある」というもので生み出されたものだとした。

 続く「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」(1992年)では、「プレーヤーをゲームで本気で悩ましたい」と思い、結婚イベントができあがったとした。また「親子3代かけて魔王を倒す」というのもコンセプトの1つとなっている。

 シリーズ作を重ねる度に「毎回どんな遊びをしようか」と考えるそうだが、「ドラゴンクエストVI 幻の大地」(1995年)の時は、「いきなり2つの大陸を行き来したらどうか」という発想でできあがった作品になる。ちなみに「魔法のじゅうたん」を使うとどこでも行けてしまうため、木や水をなんとか利用してマップを作っていったという。

 「ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち」(2000年)では、プラットフォームがプレイステーションになり、容量が格段に増えた。スタッフも大勢入れて、ストーリーもやりこみ要素も増やしていった(斎藤氏いわく「長かった……」)。「ツンデレ」という言葉がない時代に「ボロクソ言う」幼なじみ、マリベルを作ったのが印象に残っているという。

 「ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君」(2004年)では、レベルファイブと「たまたま出会った」ことで、「DQ」の世界がフル3Dで表現できたのが、何よりのウリだとした。

 「ドラゴンクエストIX 星空の守り人」(2009年)は、ニンテンドーDSの機能「すれちがい通信」によってネットワークプレイの敷居が下がり、マルチプレイのようなものができたのがよかったとした。すれちがい通信では、メタルキングだけが登場する「まさゆきの地図」が大きな話題になった。

 「ドラゴンクエストX オンライン」(2012年~)は「DQIX」のアイディアの延長で、「オンラインゲームでやろう」というもの。サービスが開始されたのは2012年からだが、実は構想自体は10年前からあったのだそうだ。

「ゲレゲレ」、「かいしんのいちげき」命名の由来は? 堀井氏質問コーナー

熱意の高い質問が続々登場した

 続いて講演は、事前に応募した質問コーナーへ。内容は以下のとおりとなる。

質問:戦闘の際、「DQI」では「○○が あらわれた! コマンド?」というメッセージが出ていました。2作目からは「コマンド?」がなくなっているが、これはどういう意図でしょうか?

堀井氏:これは、言われるまで気づきませんでした。これ以前のアドベンチャーゲームは選択肢がなく、「コマンド?」と回答を促すコメントが普通だったので入れていて。でも「DQII」からは「コマンド?」の文字はいらないと気付いて、削除しました。

質問:バランス調整はどのくらい時間や人数をかけていますか?

堀井氏:「DQIV」、「DQV」、「DQVI」で言えば、最初にシナリオ作ったあとは、2カ月くらいはずっとデータを作っていました。その後もテストで頭からプレイしてもらって、そのレポートを集めて、数字を調整していく作業を延々とやります。

 データ作成は、あまりマニアックな方ではないので、自分が気持ちよくプレイできるかどうかで決めています。バランス調整は毎回ギリギリまでやっていて、「もうダメだ」と言われても、何かバグが出たら「ついでにこれも直して」と言っていました。

質問:「DQV」で、モンスターを仲間にできるシステムはどうしてできたのでしょうか?

堀井氏:これは「DQIV」で、ホイミンを仲間にして楽しかったからです。

斎藤氏:ちなみに(キラーパンサーの)「ゲレゲレ」という名前はどこから?

堀井氏:思いつきです(笑)。作品内で、必ずどこか1個ふざけるようにしています。

質問:「DQX」のシナリオはVer.1発売の時点でどこまでできていましたか? また現時点ではどこまでできていますか?

斎藤氏:Ver.3では新たに竜族が登場するが、人間ではない5種族と竜族がいるという設定は最初から決まっていました。

 今後ということで言うと、Ver.4はここ数ヶ月でプロットの話を始めたところです。新しい職業も決まってきていて、ある程度骨格は見えている。Ver.5はこれからで、プレーヤーの動向を見ながら決めていきます。

質問:「DQI」で、ゲーム開始直後に「竜王の城」が見えます。これをデザインした意図は? またワールドマップはどこから描き始めたのでしょうか?

堀井氏:「竜王の城」を最初に書いた気がします。人間は目的がわかった方ががんばるから、始まってすぐ「ここに行け」とわかりやすくしています。ただ、行き方がわからないので、それを探ることになります。

斎藤氏:マップはどのように作っていくのですか?

堀井氏:まずフィールドマップの形を作って、その中にバランス良く中身を配置していきます。マップに出た時に別の街がちょっと見えるようにしたりもします。

斎藤氏:「DQ」チームは、シナリオのチームが街の構造も作ります。世界の設計図を書いて、人を置いてからシナリオを作るというのが特徴的です。

堀井氏:ずっとその方法でやってきたので、それが踏襲されていますね。

質問:「アレフガルド」という名前は、どこから来ているのでしょうか?

堀井氏:地名を命名するときは、まず世界地図の索引を見ます。そうすると○○ガルド、○○ヴァニアのような語尾が「地名っぽい」とわかってきます。「アレフガルド」は、始まりを意味する「アレフ」に、「ガルド」をくっつけました。実際の地名をモジッたりもしますが、そうしないと地名らしく見えないんですね。

 マップを作る際も、世界地図を見て、実際の地形を参考に作ったりもします。ちなみに日本は北半球なので、北に海が多い方が世界っぽいく見えます。

質問:「Critical Hit」を、なぜ「かいしんのいちげき」と名付けたのでしょうか?

堀井氏:「かいしんのいちげき」、という気がしたんです。会心! と爽快な感じで。

質問:ゲームデザイナーとして、最も必要で大事なことはなんですか?

堀井氏:まずは自分が面白がる“発想力”、それをシステム化、データ化していく“忍耐”、そして「やっぱり違った」となったときに切る“勇気”、この3つですね。

「ドラゴンクエストXI」で「ふっかつのじゅもん」が復活!

 講演の最後は、現在開発中の「ドラゴンクエストXI」の話をしませんか? という斎藤氏の発案で、現在の状況が少しだけ明かされた。

 開発状況としてはシナリオはすべて完成していて、現在はマップやシナリオなどをゲームに実装して、それらを実際に触りながら詳細を詰めていっている段階だという。

 両氏は昨日も5、6時間ほどこうした打ち合わせをしていたそうで、1エピソードのチェックに3時間ほどかけながら、色々とアイディアを出しているのだという。

 ちなみにこれらのチェックは実装のレスポンスが早い3DSの3Dモードで行なっており、仕様が固まったら3DS版の2DモードやPS4版に反映させていくという方法を取っている。バトルのチェックは、PS4版でも行なっているそうだ。

 最後におまけとして、「DQXI」には「カジノ」と「ふっかつのじゅもん」が入るという。特に「ふっかつのじゅもん」は「30周年らしいもの」になるそうなので、その詳細を楽しみに待ちたい。