インタビュー
【特別企画】ブラウニーズ・亀岡慎一氏本人に聞く「亀岡作品ヒストリー」
「聖剣2」キャラデザ抜擢は“暇な新人”だったから? 「エグリア」配信直前インタビュー・前編
2017年4月11日 07:00
ブラウニーズは、4月13日にAndroid/iOS用RPG「EGGLIA(エグリア) ~赤いぼうしの伝説~」(以下、エグリア)をリリースする。価格は1,200円(税込)。「エグリア」は、「聖剣伝説」シリーズや「マジカルバケーション」シリーズなどの開発に携わった亀岡慎一氏ならびに津田幸治氏を中心としたスタッフの手による、ブラウニーズの最新作だ。
今回は、その「エグリア」の発売に先駆けて、本作の総監督である亀岡氏をはじめとするブラウニーズスタッフの方々にインタビューする機会を得た。まず本稿では前編として、ブラウニーズ初のオリジナル作品となる「エグリア」に至るまでの亀岡氏の作品ヒストリーを、盟友の津田氏と共に、本人の口から語っていただいた。スクウェアの新人時代からブラウニーブラウン設立、そしてブラウニーズ設立から「エグリア」開発に至るまでの経緯をたっぷり語っていただいた。
また後日掲載予定の後編では、ブラウニーズで働く若手メンバーも加わっていただき、座談会形式でメンバーそれぞれが込めた「エグリア」への思いを語っていただいた。こちらもあわせて楽しみにしていただきたい。
「EGGLIA ~赤いぼうしの伝説~」とは?
「EGGLIA ~赤いぼうしの伝説~」は、絵本のようなタッチで描かれるファンタジーRPG。プレーヤーは世界が封印された卵「ニーベルエッグ」を唯一割ることができる少年「チャボ」となり、失われた世界「エグリア」を復活させるための冒険へと旅立つ。
冒険はサイコロを振ってヘクス状のマス目を進む形式で、ゴール地点に向かうまでの間に敵との戦闘やアイテムや資材集めを行なっていく。集めた資材やアイテムで家を建てたり、家具を作ることが可能。世界を広げ、拠点となる街を充実させていくことで、様々な村人が街に住み着いていく。
素材集めにはじまり、冒険時の能力を上昇させる「精霊」の成長要素、家具作り、住民の願いを叶えていくミッションなど、数多く用意されたやりこみ要素の豊富さも特徴となる。
亀岡慎一氏プロフィール
ブラウニーズ代表取締役社長。旧スクウェアで「聖剣伝説」シリーズを中心としたタイトルのキャラクターデザインなどを経て、ブラウニーブラウンを設立。同社では「マジカルバケーション」シリーズなどを制作した。その後再度独立し、2013年にブラウニーズを設立。「エグリア」では総監督的にシナリオ、ゲームシステム、キャラクターデザイン、アートディレクターなどすべてを統括している。
暇を持て余したイラストで新人が「聖剣伝説2」キャラデザに抜擢!
――亀岡さんがゲーム業界入りするきっかけとはどういうものだったのでしょうか?
亀岡氏: もともと僕は漫画家をやっていまして、漫画を描いていたんですよ。専門学校を出てすぐにデビューし連載を持ったのですが、その漫画家生活というのが結構つらくて……。22~23歳の頃だったので、すごく遊びたい時期に全然時間がなかった。それで、連載が終わったときに、好きに描きたいものを描こう、と思い、アルバイトをしながら描いたものを雑誌社に送り載せてもらう、という形を取っていました。
――ちなみにどういう漫画を描かれていたのですか?
亀岡氏: ヤンキー漫画を描いてましたね、当時は(笑)。ヤンキー野球漫画とか、ヤンキーボクシング漫画とか……あの頃は不良漫画が結構流行っていたので。また、その当時はビジネスマンを主役にした漫画も流行っていたのですが、自分は会社勤めをしたことがなかったので、次長がどういうものだとか、常務が何をしているんだとかがまったくわからなかった。
今後、漫画を描くにあたって1度は社会人の経験をしておいた方がいいかなと思い、就職案内雑誌を見ていたら、天野さん(天野喜孝氏)の絵と「ファイナルファンタジー」という文字が目に入り、グラフィッカーを募集していると。「ああ、ゲーム会社という手もあるんだな」と思って、それでスクウェア(現スクウェア・エニックス)に漫画を1冊ポンと送って応募したのですが、そのあと面接に呼ばれ、それから入社に至りました。
――当時は、「ファイナルファンタジーIV(以下、FFIV)」のデバッグからスタートしたと聞いています。
亀岡氏: そうですね。入社したときはちょうど「FFIV」の開発末期で、朝行くと真っ暗でみんな寝ているという状態でした。電気をつけるわけにもいかずどうしようかなあと(笑)。仕方がないのでリフレッシュルームに行って、漫画を読んだりゲームをするしかないということもありました。当時はそんな状態でしたね。誰にもかまってもらえなかった(笑)。
このときは色々とあって、「ファイナルファンタジーIV」のときに、野村哲也(「FFVII」のキャラクターデザイン、「キングダム ハーツ」シリーズのディレクターなど)などを含めた新卒が4~5人入ってきたのですが、彼らも同様にかまってもらえていなくて、個人ブースのなかにその新卒組や僕が詰め込まれていたんですよ。そこで1台しかない開発機材を順番にいじりながら、余った人はスペースにいられないので仕方なく社内をぶらつく、みたいな感じだったんです。
そうして「FFIV」もようやく終わり、新しいチーム編成に入りました。そのとき「クロノ・トリガー」の前身のようなプロジェクトが立ち上がりはしていたのですが、開発予定だったスーパーファミコン用CD-ROMが開発中止になったり、キャラクターデザイン担当だった鳥山明先生の漫画「ドラゴンボール」が好調で連載が延びてしまったりといった経緯から、その計画はいったんストップし、「クロノ・トリガー」のチームが「聖剣伝説2」チームになりました。
――そこから「聖剣伝説2」や「聖剣伝説3」、「サガ フロンティア」に関わっていくということですね。「聖剣伝説2」のときは、いきなりプレーヤーキャラクターのデザインを担当されたのですか?
亀岡氏: そうです。当時「FFIV」が終わって、先輩たちはみんな報奨休暇で1~2カ月くらいのお休みに入ってしまっていたんですね。それで新人しかいなかったのですが、その頃には個人のブースと機材が与えられていたので、そこで好き勝手に絵を描いていました。3~4人の新人がいたなかで、1人は背景を、1人はモンスターを、僕が主人公っぽいキャラクターを描いていたんですが、たまたまそこに休み明けで出社してきた田中さん(田中弘道氏。「聖剣伝説2」ではプロデューサー、コンセプトデザインなどを務めた)がその絵を見て、「お、もう絵ができてるじゃん。これなら担当決まったな」という流れでそのまま決まりました(笑)。
――結構、ざっくりと決まった感じですね(笑)。
亀岡氏: あのときまだスーパーファミコンの開発は「FFIV」が初めてで手探り状態だったので、もしかすると誰がやっても同じだろうという感覚で決まっちゃったんでしょうね。
――でもそう考えるとタイミングがすごいですね。ほかにベテランの方もいたなかで、そういう風にアサインされたというのは。
亀岡氏: 面白いですよね。当時、野村も同じ境遇で、誰がどのチームに行くかというのは順番みたいなものだったので。野村が「聖剣伝説」チームや「サガ フロンティア」チームに行っていたら、また変わっていたんでしょうね。
――それからはどんどんゲームのグラフィックスを作っていったということですね。
亀岡氏: そうですね。ただ、誰も聞ける人がおらず、何にどのくらい容量が割けるのか、といったようなこともまったくわからず「足りなくなったらあとで削ってもらうから」なんて言われて(笑)。まず「キャラクターを決めて」と言われたので、そのイラストを描いて「こんなのどうでしょう」と。これは何人かでコンペをやったんです。そのなかで、プリムとランディは僕がデザインしたものになって、ポポイは背景を描いている担当のものが採用され、それで決定しました。
――ドット絵も描かれていたのですか?
亀岡氏: ドットも僕が描きましたが、その前にデザインが無いと落とし込めないので、まずはそれを決めよう、というところからです。イラストについては、誰か別のイラストレーターを探すはずだったんですが、結局いい人が見つからなくて、自分がイラストレーターに渡すために描いたラフ画がそのまま雑誌に載ってしまったんです(笑)。
――「聖剣伝説3」のときも同じような流れだったのですか?
亀岡氏: だいたい同じような感じです。「聖剣伝説3」のときは、イラストレーターとして結城さん(結城信輝氏。「聖剣伝説3」のキャラクターイラストを担当)が見つかったので、僕が描いたラフを結城さんにお渡しして、結城さんが最終的に仕上げた形ですね。そういったラフ画と、ドット絵も全部僕がやっていました。
ただ「聖剣伝説3」のときはスケジュール的に会社的に迷惑をかけてしまって大変だったんですよ。チームも1回、解散させられました。当時、坂口さん(坂口博信氏。「FF」シリーズの生みの親で、当時の開発のトップ。現ミストウォーカーCEO)から「チームを解散させるから」と通告があり、僕は「サガフロ」チームに行きました。津田は「FFVII」チームのアートディレクターをやることになっていたのですが、「やだ!」と言って「サガフロ」の方に移ってきました(笑)。
――え、津田さん、「FFVII」のアートディレクターを蹴ったんですか! それはどうしてですか!?
津田氏: 自分自身が、あまりリアルなイラストが苦手といいますか、どちらかと言えばかわいい系のイラストが得意だったというのがあります。プロジェクトとしても「ファイナルファンタジー」シリーズはネームバリューもあり看板タイトルでしたので、そういう大プロジェクトでやるよりかは、いちから作り上げていくようなチームでやりがいを感じたかった、というのもありました。面接のときも「できたら大規模ではなく小規模プロジェクトでやりたい」とも伝えていまして、それで「サガフロ」チームに入れてもらったような感じですね。
亀岡氏: 僕はもう「サガフロ」チームへの配属は決まっていて、そのあとに津田が「サガフロ」チームに来た、という流れでした。
津田氏: 編成会議では「亀岡さんがいるんだったら同じプロジェクト(『サガフロ』チーム)がいいかな?」と言われて、断る理由もなく「ぜひそれでお願いします」と伝えました。
――そんなところからご縁があったんですね。
亀岡氏: そうですね。そこで津田が「FFVII」のアートディレクターをやっていたら、彼自身もたぶん違う方向に行っていたかもしれませんね(笑)。
津田氏: 当時のスクウェアには野心家といいますか、結構ギラギラしている人が多かったんですよね。「FF」チームに編入されて、これまで一緒に働いていたチームメンバーがいないところで働くのは野獣たちのなかに放り込まれるようなものだなと(笑)。
――「FF」のアートディレクションともなれば相当なプレッシャーですよね。
津田氏: 「誰だコイツ! こんな今まで『FF』のグラフィックスもやったことないような奴にトップやらせて大丈夫なのか!?」という感じになるのも怖かったので(笑)。
――そういう意味で「聖剣伝説」チームは、それまでほのぼのとしたなかでやって来られたということですね。
津田氏: そうですね。チーム自体は30人規模で、自分もそれくらいの規模のプロジェクトがいい人数かな、と思っていたんです。それまでのほかの会社のプロジェクトも見てきたなかで、大人数になるとどうしても周辺のメンバーしかフォローできず、個人的には工場的なゲーム制作になってしまって味気ないな、と感じていたので……。その点「聖剣伝説3」チームに所属していたときは楽しかったなと思っていましたね。
亀岡氏: デバッグとかは大変だったけどね……(笑)。
――「サガフロ」チームは、そんな「聖剣伝説」チームの雰囲気を受け継いでいたと。
亀岡氏: はい。ただ、プラットフォームがプレイステーションに変わったことで、それなりに人は増えました。そこで津田がアートディレクターを担当して、僕がキャラクターのディレクター的な部分を担当して。でも、やりづらかったよね(笑)。ディレクターの河津さん(河津秋敏氏。「サガ」シリーズの生みの親)から「絵については合わせなくていい」って言われてしまって「どうする?」となって(笑)。
津田氏: 河津さんは「絵柄に関しては好き勝手にやらせてあげてね」というスタンスだったので自分も「俺、どうしたらいいのかな?」って困っていました(笑)。当時は「上の立場の人間はきちんと絵柄などを管理していかなくてはいけない」と思っていた部分を「縛らないで」と言われたことで、立居振舞に困っていたというのはありましたね。
――それはどのように解決していったのですか?
亀岡氏: 解決してないよね?
津田氏: 解決してませんね。解決しないまま悶々としながらやっていました(笑)。
――んん? どういうことでしょうか?
亀岡氏: 立体的なオブジェもあれば、ドット絵的なオブジェも混在しているという。
津田氏: 本当にみんなが自分の思うように描いていましたね。当時、PSで開発することになって「FF」チームは基本的に3D、背景に関してはプリレンダという技法でやっていたのですが、「サガフロ」チームは3Dをやっている人もいたものの、そういう技法を習得していない人は2Dで絵を描いていました。結構まちまちな状態だったので「これでいいのかな?」と思い河津さんに相談したところ、河津さんは「いいんだよ」と(笑)。
亀岡氏: 河津さんはシステム重視でしたね。「どんな絵でもゲームシステムが面白ければ売れる」という自信をすごく持っている方で、それがあるからこその「絵は合わせなくていい」ということだったんですね。
津田氏: 今思えば、河津さんがそうしたのも「聖剣伝説3」のときにデザイナーの石井さん(石井浩一氏。「聖剣」シリーズの生みの親。現グレッゾ代表)がそのこだわりからグラフィックスの担当に細かく指示を出していたという経緯があったので、逆に「サガフロ」では自由にやらせてあげる、という方針にしたというのもあるのかなと。「サガフロ」チームには石井さんも所属していたのですが、もちろん河津さんに従う形で仕事をしていました。
亀岡氏: もともと以前から「サガ」チームがあったところに「聖剣」チームが入っていったわけなので、そういう差異から生まれるやりづらさはありましたね。
そして「聖剣伝説 LEGEND OF MANA」制作へ
津田氏: 「サガフロ」での経緯もあり、プロジェクトが終わるころには自分も石井さんと「また『聖剣』一緒にやりましょうよ」という話をして、「聖剣伝説 LEGEND OF MANA(以下、LOM)」のときには石井さんにお声がけいただいて一緒にゲームを作ることになりました。
――では、その「LOM」のお話もぜひお聞かせください。
津田氏: 「LOM」は、石井さんが「サガフロ」で発揮できなかった自分の持ち味を、1番やりたかった「聖剣伝説」という作品で表現したいと上の人に直談判をして、背水の陣的に立ち上げたプロジェクトでした。自分としても「FFVII」を断りながら、「サガフロ」で自分の実力を発揮できなかったということもあって、せめて「LOM」で会社に貢献しなければいけないと思い、覚悟して臨んだタイトルですね。
亀岡氏: 「LOM」チームが立ち上がったときというのが、タイミング的に社内で小チームがたくさん立ち上がった時期だったんですね。「LOM」もそんな小チームのひとつで、ほかには「レーシングラグーン」や「デュープリズム」、ほかにもポシャったゲームも含めて何チームかありました。「サガフロ」で我々2人がやりづらかった部分も「LOM」チームになってからはずいぶんやりやすくなりました。僕も結構、好き勝手にキャラクターを描かせてもらいましたし。
――このとき亀岡さんのご担当はどういうものだったのですか?
亀岡氏: 最初にキャラクターを描いて「つぎの『聖剣』はこんな感じでやりたいんだけど」とディレクターの石井さんに提案したらそれでOKが出まして、キャラクターを担当することになりました。背景に関しても石井さんは津田の描く背景をとても気に入っていたので、それで行こうと。なので、キャラクターは僕が、背景は津田が統括する形で進行することになりました。ただ、ゲームシステムはなかなか決まりませんでしたね。
――「LOM」のシステムはだいぶ複雑で多岐にわたっていた印象があります。
亀岡氏: 戦闘に関しては、今までの「聖剣」をひっくり返すようなシステムがいいということでサイドビューにする、という意見が出ていて……あれは当時、石井さんが格闘系のゲームが好きだったからかも知れませんね(笑)。ほかにも、今は「ファイナルファンタジーXIV」をやっている高井くん(高井浩氏。「LOM」ではバトルエフェクト&バトルデザインチーフを担当。「FFXIV」ではデザインセクションマネージャーを務めている)が大のプロレスファンだったり。
津田氏: バトルのアビリティにも、プロレス技みたいなものが入れ込まれていました。
亀岡氏: そのプロレス好きな二人の仕業ですね(笑)。今回の「エグリア」プロデューサーの岡宮さん(岡宮道生氏。DMM.com POWERCHORD STUDIO室長兼プロデューサー。スクウェア・エニックス出身で、植松伸夫氏のバンド「EARTHBOUND PAPAS」ではギターを担当している)もプロレス好きなんですけども、当時、スクウェアにはそういったプロレス好きのコミュニティがありましたね。
――「LOM」はどのようなものを目指して作られたのですか?
亀岡氏: 「LOM」はとにかく仕様がなかなか決まらなかったゲームで、「このままではスケジュール的にも終わらないから、先にグラフィックスだけでも動いてしまおう」となり、どんどんキャラクター絵なんかを上げて「あとでこのキャラクターを好きに使ってください」という流れでやっていました。「LOM」は最後につながるまで、どんなゲームになるのか見えなかった。
津田氏: 石井さんのなかでは、世界が絵本のなかから湧き上がってくるような感じといいますか、そういったイメージはあったんです。それをゲームとしてプレイするのにどう見せていくか、仕様的に可能なのか、といった部分を模索されていたようです。
亀岡氏: とにかく演出は色々と決まっていた反面、システムはギリギリまで固まらなかったんです。演出は面白いんだけど、それをどうゲームに落とし込むの? って。プランナー同士、プログラマー同志で激しく議論をすることもありました。
――「キャラクターがいてシナリオはこう」という前提はあった上で仕様が決まらなかったということですか?
亀岡氏: そのシナリオについては、3人いたプランナーそれぞれに「好きに1章ずつやって!」と指示が出て「宝石泥棒編」、「エスカデ編」、「ドラゴンキラー編」といった形でシナリオを上げてきた。「これをどうやってまとめようか」という部分が決まっていたかどうかわからないんですが、最終的にはうまく収まった印象ですね。
――あのバラバラな世界観の理由がわかった気がします。でも、それが逆に良かったのかもとお話を聞いていて感じました。
亀岡氏: 今となってはそうかもしれませんが、当時は……うーん、どうなんだろ(笑)。結果的には中心となる軸を決めて周囲を作って行くというよりも、周囲を固めることで軸としていった、という感じでしたね。
――その手法でまとめたということですか?
亀岡氏: 僕から見てると本当に奇跡的だったんですよ(笑)。グラフィックス担当が勝手にキャラクターを作っていって、シナリオ担当が勝手にシナリオを描いて、それがうまい具合に組み上がってできたのが「LOM」だった、みたいな(笑)。僕もびっくりしましたね、制作中は全てが繋がるまで形になるとは思っていなかったので。
いつの間にかできていた「株式会社ブラウニーブラウン」
――その後スクウェアを退社されて、「株式会社ブラウニーブラウン」設立によって独立されました。
亀岡氏: そうですね。もともと僕は独立する気はなくて、どこかの会社に行こうと思っていました。というのも先ほどお話をした「LOM」チーム在籍時、「一定の数字(売上実績)を上げれば『LOM2』を作らせてやる」と言われて実際に数字も出したものの、そのあと社内の都合によって「ファイナルファンタジーXI(以下、FFXI)」チームに行くことになったからです。
石井さんが坂口さんに直談判もしたんですが、当時の坂口さんは「これからは社内すべてのラインを『ファイナルファンタジー』にしていくから」といった方針(いわゆる「FFシフト」)を打ち出したり、映画制作にも意欲的な姿勢を見せるなどイケイケの時期ということもあって、その決定は覆せませんでした。
そうして「FFXI」チームが立ち上がったんですが、津田もアートディレクターを担当することになって……何しろ社内がすべて「ファイナルファンタジー」になったことで、どこにも逃げられなくなったので(笑)。
僕はそこで、最初は「スクウェアミレニアム」というイベントのイメージ画面制作をやっていたのですが、あの頃はまだ3Dのグラフィックスや「ファイナルファンタジー」に魅力は感じておらず、僕が作りたいものとは違うなと、ずっと思っていたんです。
そのとき「これはもう潮時かな」と感じていて…。すると、当時僕の上司だった津田が「亀岡さん困りますよ! ちゃんと仕事してくれないとほかのスタッフにも示しがつかないんだけど!」って怒られたんですよ。そのときに、津田に「スクウェアを辞めようと思っている」と正直に話をしました。
その頃、ゲームボーイアドバンス(以下、GBA)が出るという噂が出ており、僕は2Dのゲームが作りたかったこともあって「どこかGBAのゲームを作らせてくれる会社に行く」と言ったんです。そうしたら、津田もやはり現状に思うところがあったようで「えっちょっと待って! どこに行くつもりなの!? もしよかったら俺もその話に乗りたいんだけど」と言ってきて……(笑)。
最終的には「LOM」のメインプログラマーやシナリオ担当も辞めたがっているという話まで入ってきて、彼らにもコンタクトを取った結果、「LOM」でメインクラスだった4人が一緒に、GBAのゲームを作らせてくれる会社に移籍する、という方向に動き始めたんです。
「GBAのゲーム制作なんだから、任天堂さんに話を持っていくのが1番早いのでは」ということになり、任天堂さんに「『LOM』を作ったチームで、GBAのゲーム制作チームを作らせてもらえないか」と話をしました。そうしたら山内さん(故・山内溥氏。任天堂の元代表取締役社長)が「よし来い。チームじゃなくて会社作れ。大々的に発表しろ」と、どんどん話が大きくなっていって(笑)、それでブラウニーブラウンを作ることになったんですね。
そのときに「社長は任天堂さんから出して下さい」とお願いしていたのですが、山内さんから「そっち(元『LOM』チーム)から出しなさい」と言われて、人集めをしていたのが僕だったということもあり、社長をやらされることになったんです。
――チームで1作品作るという前提で動いていた結果、いつのまにか会社を作ることになったと。
亀岡氏: そういうことです。本当は経営のことなんかは考えずに1チームでやらせてほしかったんですけど。また「LOM」のようなゲームが作れればいいなと。
――そこで作り始めたのが「マジカルバケーション(以下、マジバケ)」になるわけですね。いきなりプロデューサーも兼ねる形にもなりました。
亀岡氏: 「マジバケ」はとにかく大変なことが多かったですね。これまで予算管理や見積書の作成などやったこともなかったので……。開発自体は、本当に好きにやらせてもらえました。最初は社屋もなかったので、ファミレスとかでスタッフが集まって企画会議を行なっていて。スクウェア在籍時のゲーム作りの方針として「新しいものを作れ」というものがあったので、それに基づいて主人公の数や登場する属性の数など細かい仕様を決めていきました。
――亀岡さんは、キャラクターデザインやアニメーションを担当したということですが。
亀岡氏: そうですね。キャラクターデザインをやって、一通りのアニメーションも自分が担当して。
――津田さんは背景を担当されたと。
津田氏: はい。
――第1作目となる仕事として、いかがでしたか?
亀岡氏: 人数が少なかったこともあり、とりあえずスケジュールどおりに上げて信用を得よう、というものが大前提としてあったので、あまり大風呂敷を広げなかったんです。結果として全体的に地味な仕上がりとなり、今思えば、もっと派手な戦闘シーンなど、目立つ部分を入れておいたほうがよかったのかなと後悔していますね。
同時期に「黄金の太陽」というGBA用のRPGが出ており、3D映像を使った派手な演出などもされていて、それと比較すると「マジバケ」はだいぶ地味だったのかなと。ただ、開発メンバーが当初は6名、最終的にも10名程度だったので、リソース的な問題で仕方のない部分ではありました。
――開発タイトルでは、毛色の異なる「MOTHER3」なども作られていますよね。
亀岡氏: 実は僕個人はそうでもなかったんですが、うちのスタッフに熱烈な「MOTHER」ファンが大勢いて「ぜひやりましょうよ!」と後押しされ、作ることになりました。
あくまで個人的にですが、「MOTHER」のドット絵は黒い部分が黒すぎたりするところなどが気になっていたので、もう少しパステルカラーっぽさを出す色合いに変えたりしました。しかし、そうしたことでもともとの「MOTHER」ファンから「あんなの『MOTHER』じゃない!」と言われたりもしまして……。
――ゲームデザインを務める糸井重里さんとのやりとりももちろん行なわれたわけですね。
亀岡氏: そうですね。糸井さんは「MOTHER3」のニンテンドウ64版の経緯(1997年に発表されたものの、その後サブタイトルの変更などを繰り返し、2000年に開発中止が発表された)もあって疲れ切っており、開発再開となった当時も「好きにやってください」と言っていました。
それで一旦は、絵柄も従来のシリーズとは全然違うものになり従来の「MOTHER」シリーズのタッチからはほど遠い雰囲気のものだったんですが、その後、GBAで「MOTHER1+2」が出たときに多くのファンの声が糸井さんに届き、それがきっかけで糸井さんに火がついて「これだけの熱いファンに中途半端なものを遊んでもらうわけにはいかないので、現場に入ります」と。そこで、絵柄の全面刷新を求められました。
そこからグラフィックスを全て描き直し、今までの雰囲気とは全く異なる従来の「MOTHER」に近づけたゲームとなって完成したんです。最終的な確認も「軽くチェックをしてくれるぐらいかな」と考えていたら、糸井さんは吉祥寺のホテルにこもって、うちのスタッフが仮で入れていたテキストを全て書き直したんです。すると雰囲気もガラリと変わって。あれにはびっくりしました。
自由にゲームを作りたい……。「株式会社ブラウニーズ」設立
――その後「マジバケ」続編の「マジカルバケーション 5つの星がならぶとき」、「新約 聖剣伝説」なども経て、「ブラウニーブラウン」は2013年まで続くことになります。そこで再度独立して「ブラウニーズ」を立ち上げていますが、この辺りの経緯を教えてください。
亀岡氏: 当時の「ブラウニーブラウン」は、任天堂から今後「スーパーマリオ」シリーズの開発を行なう会社(現1-UPスタジオ)になってほしい、という方針が出され、そのように変わっていくことになりました。スタッフのなかには「マリオを作りたい」という者もいたので、それはそれでいいと。
僕は少人数で作れるスマートフォンアプリの開発に興味が湧いてきていて、フリーになってまったりとアプリでも作っていこうかなと思っていました。すると、そんな僕の動向を察した何人かに「亀岡さんと一緒にやりたい」と言ってもらえました。そうしてできたのが「ブラウニーズ」ということになります。
――今回は、純粋に独立したということですね。
亀岡氏: そうです。人からお金を出してもらって作る会社というものの大変さが身にしみて理解できたので、「つぎはもう誰にも文句を言わせない会社にする」ということで、自分で作りました。
――「ブラウニーズ」をすぐにスタートさせて、その後はいかがでしたか。
亀岡氏: ここではもう、最初のコンセプトどおり本当に好きなものを作ろうと。そして、嫌な仕事は受けないと決めました。たとえそれで会社が解散ということになってもいい、という覚悟でゲームを作りはじめましたが、今のところは結構、いい方々とお仕事させていただけているなという感じはしています。
――改めて、具体的にどういったお仕事をされてきたのでしょうか?
亀岡氏: 最初はレベルファイブの日野さん(日野晃博氏。レベルファイブ代表取締役社長/CEO)がお仕事を下さって、そこで3DS「ファンタジーライフ LINK!」(2013年)を制作しました。その後、ガンホー・オンライン・エンターテイメントで顧問を務める田中(弘道)さんも「一緒にやろう」と言ってくれて、Android/iOS「セブンス・リバース」(2016年)の開発をも行ないました。そのほかにも小さい仕事をいくつかやっていましたね。
――そうして会社初のオリジナルタイトルとなるのが、今回発売される「エグリア」なんですね。
亀岡氏: そうですね。色々な仕事を受けつつ、スタミナがついたら完全オリジナルを作ろう、というのは僕の中では会社設立時から決まっていたことなので。それで、会社が実際にそうなってきたところで、「休日を使ってゲームを作りたい人、いる?」とメンバーを募りました。そうして土日を使って作り始めたのが「エグリア」です。
――最初から、コンセプトはすでに決まっていたのですか?
亀岡氏: 僕の頭のなかでは何本かのタイトルの構想があって、そのうちの1つが「エグリア」です。一般受けしそうで、作りたかったタイトルでもあったので。スタッフには「こんな感じのものをスマホでやろう」と、仕様書を書いて伝えました。最初はコンシューマーというのも考えたのですが、スマホでも1本やっておきたい、というのもありましたから。
――オリジナルでやろうとしていたところに、先程もお話が出た岡宮さんが、DMM.comのプロデューサーとして加わることとなります。
亀岡氏: 彼もまたスクウェアを辞めて、紆余曲折あってDMM.comさんに行き、うちに「一緒にやりませんか」って声をかけてきてくれました。DMM.comさんはゲーム会社というイメージが薄かったので、面倒な注文とか出されそうで、積極的に何かするつもりはありませんでした。
そんな折に、「どうですか、ライン空きましたか」とアプローチがあったので、実機で動いている「エグリア」を見せしたところ「いいじゃないですか、ウチでやりましょうよ!」と。それに対して「『エグリア』は誰かに方向性を変えられることなく好きに作りたいんだ」と言ったら「大丈夫です。面白いものを作ってくれればそれでいいので、好きにやってください」という話になりました。
最初は「そんな美味しい話があるのか?」って怪しんだんですが(笑)。最終的には、本当に好きにやらせてもらえたので、今となってはとてもありがたいですね。
――その「エグリア」で目指しているものとはなんでしょうか?
亀岡氏: 例えば、変な事件が起きたとして、その犯人の家にゲームが山ほど積んである。それで世間は「またゲームが影響した」なんて言うじゃないですか? 僕の中ではそれは完全に間違っているとは思えなくて、ゲームは何らかの影響は与えていると思うんですよ。
これは「エグリア」の体験会でもあったことですが、ユーザーの方と交流していると、「『LOM』や『マジバケ』を幼少時に遊んだことで今の自分がある」という主旨のお話をしてくれることがあります。そのようなお話を聞いていると、ゲームは自分達が思っている以上に様々な人達に影響を与えているんだと思えるんですよね。
だから、もしゲームを作るのであれば、やっぱり良い影響を与えていきたい。プレイした人が本当に楽しくなれるゲームを目指して作られたのが「エグリア」なんです。ほのぼのとして、楽しい、誰もが人に勧められるような……いわばゲーム業界の"ジブリ"を目指したいなと。これは「ブラウニーズ」設立時に考えていたことでもありますが。
――そういうテーマが根本にあるなかで、いくつかあるアイデアから選ばれたのが「エグリア」なんですね。
亀岡氏: そうですね。ほかにも結構いいタイトルを考えてはいるんですが……売れるか売れないかは別として(笑)。
<第二部につづく>
©DMM.com POWERCHORD STUDIO/BROWNIES