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20年越しに振り返る、「DIABLO」開発秘話
数々の驚くべきドラマを乗り越え、成就したアクションRPGの金字塔
(2016/3/20 21:10)
遡ること20年。1996年の終わりに、歴史的なアクションRPGの金字塔「DIABLO」が産声を上げた。それから20週年となった今年のGDCにて、「DIABLO」のリードプログラマー、ゲームデザイナー、オリジナルコンセプトのクリエイターという一人三役を果たしたBlizzard Northの元プレジデント、David Brevik氏が登壇。GDC 2016最後を飾るセッションを講演している。
伝説的なゲームのポストモーテムを伝説的クリエイター自らが語るということもあり、大型ホールで行なわれた本セッションは満員御礼の大盛況。話の筋それぞれに笑いや、拍手が起こる賑やかな雰囲気の中でBrevik氏のトークが続いていった。
コンセプトは誕生からさらに10年前
時は「DIABLO」の誕生からさらに遡ること約10年。高校生だったBrevik氏は、父親に買ってもらったApple II+に首ったけで、ゲームをやりまくり、プログラミングを独学しながらゲーム開発を夢見るコンピューター少年だった。当時強い影響を受けていたWizardlyやRogue、Nethackといった風味のRPGを作りたいと考えていた少年時のBrevik氏である。
ゲームの名前は当時住んでいたカルフォルニアのベイエリアにある山岳がヒントになった。その名も「Mt.Diablo(ディアブロ山)」。スペイン語を知らなかったBrevik氏、当時この名前の意味(Devilと同じ)はわからなかったというが、どういうゲームを作るにしても、この名前を使うことだけは決めていたそうだ。
こうして「DIABLO」が産声をあげるまでの道のりが始まった。
大学を卒業したBrevik氏はとある会社で働き始めるが、その会社は当時経営難で、ほどなく倒産。そこでBrevik氏を含むその会社の生き残りが集まり、倒産前に進めていた製品の名前から名前を拝借し、ゲーム会社Condorを設立。「DIABLO」の開発をすすめるためのアイディア練りが始まった。
当初のアイディアは、実際の「DIABLO」とはかなり異なるものだ。ターンベースで、シングルプレイ専用で、DOSで動作し、MTGのように拡張可能。そして死亡が永続的(Permadeath)となる、ローグライクの影響を色濃く受けたゲームシステム。キャラクターグラフィックスも、当時気に入っていたアーケードゲーム「Primal Rage」に倣ってクレイアニメーションで実現しようとしていたという。しかしそのためには膨大な作業量が必要となることが明らかに。チームが零細だったこともあり、クレイアニメーションを用いるアイディアはまもなく放棄された。
偶然すぎるBlizzardとの出会い
こうしてじわじわと「DIABLO」計画が練られていくなかで、偶然の出会いを果たす。CondorがSega Genesis(メガドライブ)向けに開発した「Justice League Task Force」という格闘ゲームをCESで展示していたところ、会場内で全く同じゲームのSNES(スーパーファミコン版)を見つけた。その開発元こそ、後にBlizzard EntertainmentとなるSillicon&Synapse社だったのだ。
「驚くほど似ていた」というGenesis版とSNES版の「Justice League Task Force」。コピー作品というわけではなく、同じパブリッシャーから同じ題材で異なる機種向けの開発を両社が(互いに知ることなく)手がけた結果なのだが、このあまりの偶然に驚きつつBrevik氏はSillicon&Synapseに接触。彼らもまた、オリジナルのPCゲームを開発したがっている同志だとわかったという。
その後、「DIABLO」のアイディアを様々なパブリッシャーに持ちかけては「RPGは死んだ」と否定される日々を送っていたBrevik氏。90年台初頭の世相(アクションゲーム全盛期)ではしかたのないことかもしれないが、そこで救世主となったのが、そのSillicon&Synapse社だった。PC用RTS「Warcraft 」をリリースしBlizzard Entertainmentと名称を変えた同社は、Brevik氏が熱心に話す「Diablo」のアイディアに興味を示した。
ちなみに、同時期にBrevik氏は3DOから倍額以上でのオファーも受けていたというが、Blizzardのほうがウマが合いそうだということで結論を下した。もし当時3DOからのオファーを飲み、「DIABLO」を3DO向けにリリースしていたら、シリーズがここまでの成功をおさめることはなかっただろうと振り返っている。
X-COMの影響
こうして「DIABLO」の開発が始まった。時はまさに1990年代中期、FPSやストラテジーゲームのヒット作がPCゲーム市場をかつてなく盛り上げていた時期である。熱心なゲーマーでもあったBrevik氏はまずクォータービュー型ストラテジーの「X-COM」から多大の影響を受ける。「DIABLO」の画面レイアウトは「X-COM」のものをそっくりそのまま真似しており、タイルの形も大きさも同じだというから面白い。
もちろん独自の工夫も多数行なっている。ひとつは、640×480 256色という当時の高解像度モード(Super VGAモード)における限られた色数をフルに使いきり、画面中央から端に行くにしたがって次第に暗くなる臨場感たっぷりのライティング技法を実装。「DIABLO」の画面づくりを決定的にユニークなものにしている。
キャリア最高の瞬間
そして最大の決定となったのが、「DIABLO」でリアルタイム制をとったことだ。当時、Brevik氏自身がローグライクを大好きな影響で、ターン制を採用しつつあった。それが生み出す奥深い戦略性とプレイの幅の広がりを信じていたのだ。しかしそれに対して、Blizzardがしつこく「リアルタイムのほうが良い」と提案をしてくる。思い切ってチーム内で投票を行なったところ……リアルタイム制が勝った。
こうして嫌々ながら、当時ターン制だった「DIABLO」のプロトタイプをリアルタイムに作り変えてみたBrevik氏。画面内に表示されたファイターをクリックし、スケルトンを殴り倒すと……。Brevik氏はその時の感動を“自分のキャリアの中で最高の瞬間だった”と振り返る。
リアルタイム操作でスケルトンを殴り倒す、その痛快さを知った瞬間。神の威光が降り注ぎ、天使は微笑み……ちょっと大げさすぎるほどの表現でその当時の感動を表現するBrevek氏。「これが、アクションRPGが生まれた瞬間でした」、と感慨深く語った。
人生最悪の選択
「DIABLO」の開発始まり、社名をCondorからBlizzard Northに変更した時期、、Brevik氏が「人生最悪のビジネス判断」と語る事件が起きた。Sabeer Bhatiaと名乗るビジネスマンが、Eメールの会社を作るので、10%の株式を譲渡する代わりにBrevik氏のオフィスを間借りさせてほしいと言ってきたのだ。Berevikは大笑いして断った。Eメールなんてもう持ってるよ、そんなのがビジネスになるわけない!と。
Sabeer Bhatia氏が立ち上げたEメールの会社は、後にHotmailとして全世界に知られることとなった(笑)。
2つの難産と誕生
労せずして億万長者になるチャンスをふいにしつつ、「DIABLO」の開発は佳境に入っていった。15人のチームで総予算が30万ドルというカツカツの財政事情に加え、オンラインマルチプレイに対応する予定が、Brevik氏はネットコードの知識ゼロ。開発最後の数ヶ月になって突貫で勉強し、突貫でPeer to Peer方式のマルチプレイモードを実装したところ、チートし放題のゲームが出来上がってしまう。サーバー・クライアント方式への転換は急務だった(『Diablo 2』で実現する)。
Blizzard独自のオンラインマッチングロビーシステムであるBattle.netもこの頃生まれている。ほんの数クリックの操作でテンポよくマルチプレイゲームに入れることを望んでいたBrevik氏は、当時流行していたTEN(The Entertainment Network)の影響もあり、このようなマッチングシステムの利点をよく理解していた。Blizzard North発案、Blizzard South開発という形で最初のBattle.netができあがり、これもまた突貫工事で「DIABLO」に組み込まれた。ちなみに初期のBattle.netは、PC一台で動いていたという……。
こういった経緯を振り返って、「本当にラフな出来栄えだった」と語るBrevik氏。そして人生とは数奇なもので「DIABLO」の開発が佳境に差し掛かった(そして半ばパニックに陥っていた)1996年の12月、Brevik氏の妻は身ごもり、出産を間近に控えていた。
当初の出産予定は12月10日ごろだったという。「DIABLO」の発売を年末に控え、完全に追い込みの渦中にあるBrevik氏は、最悪の場合は子供の誕生に立ち会えず、クリスマスもきちんと祝えないのではないかと覚悟した。しかし……「DIABLO」は1996年の12月31日に無事発売。Brevik氏の娘はその数日後、1月3日に生まれた。
「彼女は『DIABLO』が完成するのを待ってくれてたんでしょうね」と、いい話で締めた「DIABLO」誕生秘話。大型のセッション会場を埋め尽くした聴講者から大きな拍手が贈られていた。