KONAMIの小島秀夫氏がApple Storeで講演
幼少期から「メタルギア」誕生までの半生を語る
「メタルギア」シリーズの生みの親として知られる、株式会社コナミデジタルエンタテインメントの小島秀夫氏が4月26日、東京・銀座のApple Store Ginzaでトークイベントを開催し、これまでの半生を振り返りながら、モノ作りの思想を披露した。
このトークイベントは、Apple Store Ginzaが3月8日から「Dream Classroom」と題して、学生向けに行なっているもの。世界的アーティストとして名高い坂本龍一氏を皮切りに、各界で活躍する著名人が講師として登場し、自分の夢や影響を受けた人物や作品、成功の秘訣や、夢を叶えた経緯などを語るという内容で、小島氏で第6回目となる。
会場を埋め尽くした聴衆は、学生と社会人が約半分ずつで、ほとんどが何らかの形でモノ作りに携わっており、小島氏の言葉に熱心に耳を傾けていた。アマチュア時代からプロのゲーム開発者として成功を収めるまでの、精神的な成長も踏まえた内容で、聴衆の心に深く響いていたようだった。
コナミデジタルエンタテインメント専務執行役員・小島プロダクション監督の小島秀夫氏 | トークイベントは角川書店メディア局・局次長の矢野健二氏のMCで進められた | 会場となったアップルストア銀座店のイベントフロアは、熱心なファンで埋め尽くされた |
■ 映画づけだった少年時代
冒頭、学生時代に最も影響を受けたことという質問に、「どれか1つを選ぶのは難しいが、やっぱり映画」と切り出した小島氏。両親に見させられたり、兄に連れて行かれたりしたことから、小さな頃から映画ファンだったという。もっとも、これには幼少時に体験も大きかった。もともと東京生まれだった小島氏だが、3歳のころに大阪に引っ越してきて、環境の激変ぶりに部屋に閉じこもりがちになってしまったという。当時は朝から晩まで、ずっと部屋の中でテレビを見て過ごしたという。ちなみにそこでは「スパゲッティの食べ方からチューの仕方まで」覚えたのだそうだ。
創作活動の原点は小学5年生の時で、「おれは丈夫だ」が口癖の「そうかい丈夫(たけお)」が主人公の探偵小説だった。学校の往復でストーリーを思いついては、ノートに書き留めていたという。もっとも、実際には映画の1シーンのような映像イメージを思いつくのだが、実際の映像化はかなわないので、それを小説の形で書いていたという。文章だけでなく、挿絵も描いて、表紙には帯までつけた。しかし、それは誰に見せるでもなく、自分だけの楽しみだった。
このように、小島氏は子供の頃から「映画」に強い影響を受けて育った。「自分の体は70%が映画でできており、1カ月間“映画絶ち”をすると死んでしまう」と公言するほどだ。そんな小島氏は映画の魅力について、ストーリーやビジュアルではなく、「自分の知らない世界を見せてくれること」をあげた。自分の知らない国や、世界や、時代や、非現実の世界までもが見られる。そんな仮想現実・仮想体験ができるメディアが、映画のよさというわけだ。
また映画は小説や音楽、ファッションなど、自身にとってあらゆる文化の窓口にもなったという。音楽は映画サントラから。本嫌いの秀夫少年も、テレビ映画「刑事コロンボ」のノベライズ小説に熱中したことから、アガサ・クリスティや松本清張などの推理小説を読むようになり、独自の探偵小説を書き始めるようにもなる。初めて1人で映画を見に行ったのも小学校5年生の時だった。ちなみに、このときの映画がイギリスのカルト映画「ローラーボール」で、小説も大人向けの文庫本を直接読むようになったというから、かなり早熟だったようだ。
そんな子供時代に大きな影響を受けた出来事として、小島氏は「アポロ11号の月着陸」(1969年)と、大阪万博(1970年)をあげた。前者が幼稚園、後者は小学1年生の時だ。アポロの月面着陸は、今でも小島氏をして「夢は宇宙旅行で、宇宙に行けるなら、仕事も家庭も放り出してもいい」といわしめるほど。そして後者は海外の人に初めて会ったイベントでもあった。当時万博会場の近くに住んでいた秀夫少年は、放課後にバスに乗って万博に通い詰め、パンフレットやバッジを集めた。この「宇宙」、「テクノロジー」、「世界」というキーワードが、後のモノ作りにも大きな影響を与えることになったという。
2003年に書かれた小島秀夫監督の手書きのクリエイター履歴書。「創作」という字が並ぶ | アポロの月面着陸。宇宙旅行に加えて、宇宙飛行士にも強いあこがれがあるという | 「人類の進歩と調和」がテーマだった1970年の大阪万博。秀夫少年が世界を意識した初めての体験だった |
■ テレビゲームとの出会いが救いに
映画少年だった小島氏がカメラを回し始めたのは中学生の頃で、友達と2人で「ヒデタツプロ」というサークルを作って、8ミリの自主製作映画を作り始めた。刑事物や「ゾンビ」などのホラー映画も撮っていたという。しかし、子供の遊びの域は超えられず、そのフラストレーションから、小説執筆にますますのめり込んでいった。ただし、小説を書いていることは家族にも友人にも内緒にしていたという。昼の秀夫少年は明るく、快活なクラスの人気者で、夜の秀夫少年は1人、マス目に文字を埋めていく孤独な毎日。誰も読んでもらえるアテもない小説を、毎日原稿用紙に10枚ずつ、書きためていった。
「本当は映画を撮りたかったんですが、なかなか身内にも言い出せず。周りにもそんな人がいなくて。関西なので映画の学校とかもない。どうしていいかわからなくて、1番安上がりな方法を選んだんです。小説を書くのなら自分の中で完結しているんで。それで、作品をどっかに応募しようとするわけですが、必ず枚数制限を超えてしまった。あと親父が中2の時にぽっくり亡くなりまして、加速度的に暗い部分が出てきた。毎日『なんて自分は孤独な人間なんだ』と思っていました」
そんな2面性を抱えた生活は、大学に進学しても続いていく。イギリスのカルト・ロックバンドのジョイ・ディビジョンにハマるものの、そんなマイナーなバンドを聞いている友達は1人もいなかった。時代は1980年代前半、バブル景気に向かってまっしぐらで、女子大生ブームが巻き起こり、ネアカ・ネクラという言葉が流行した頃。昼間は生活費の足しに植木屋でバイトなどもしながら、夜は下宿で膝を抱えてジョイ・ディビジョンを聞き、ベストセラーになった高野悦子さんの「二十歳の原点」を読み、悶々とする毎日だったという。
「作りたいモノがどんどん出てきて、それを形に表したかった。そうしないと体が破裂する、ということなんです。でも、たった1人で だれが見るかわからないモノを作り続けるのは、かなりしんどいんですよね。そういったことに疑問を感じながら、毎日マス目を埋めるわけです。今と違ってインターネットとかもない。ワープロもない。気に入らないと、もう1回最初から書き直すんです」。
そんな学生時代に、その後の人生を決定づけた出会いが、テレビゲームだった。皮切りが「ゼビウス」で、友達に「すごいゲームが出た」と誘われてゲームセンターに行き、すっかり魅せられてしまった。その「ゼビウス」が家庭で遊べるというのでファミリーコンピュータを買い、出会ったゲームが「スーパーマリオブラザーズ」。小島氏が「師匠」と呼ぶ宮本茂氏の代表作だ。そして極めつけが堀井雄二氏のファミコン第1作「ポートピア連続殺人事件」。これを見て、「ゲームであっても映画に近いことができる」と思い、ゲーム業界への道を選択したという。
そんな小島氏だったが、当時は「夢やぶれてゲーム業界」だったことも事実だった。本当は映画が撮りたかったが、そのための方法がわからず、就職を機に夢をあきらめざるを得なかった。それでも何かにすがりたいという時に、ゲームが目の前にあった。誰にも内緒で就職試験を受けたという。ところが、コナミには自分と同じような人間が渦巻いていたという。漫画家崩れ、デザイナー崩れ、ミュージシャン崩れなどで、みんな目指す道を諦めてゲーム業界に入ってきた「どうしようもない奴ら」。ここで初めて「仲間に出会った」と感じたという。唯一いなかった人種は「ゲームを作りたくて入ってきた」クリエイターだった。
しかしここで小島氏は、当時花形だったアーケードでも、急速に成長していたファミコンでもなく、MSXという「2軍」部隊に配属され、再び壁に直面する。もっとも、そこでの技術的制約をバネにして、「メタルギア」シリーズが生まれることになる。この経緯は今年のGDCの基調講演でも語られている。
学生時代の精神的支柱だったジョイ・ディビジョン。写真は自殺したボーカルのイアン・カーティス | 「ゼビウス」、「スーパーマリオブラザーズ」、「ポートピア連続殺人事件」が小島青年にゲーム業界の門を叩かせた |
■ ユーザーの存在がプロ意識を育む
会社員となって、趣味の延長線上から、仕事としてゲームを作り始めた小島氏。そこでの「プロ意識」について、氏は「社会的責任」をあげた。ゲーム業界に入って1番驚いたのが、自分が作ったゲームが必ず店頭に並んで、ユーザーが買ってくれるという、当たり前の事実だった。そこでユーザーが何十時間もゲームを遊び、評価してくれ、時には手紙なども来る。特に「スナッチャ-」以降は、「自分の人生が変わった」といった熱心な手紙をもらうことも増えたという。そこで次第に小島氏は、「作りたいものを作る」から「受け手側を意識して作る」、作り手のとしての社会的責任や、プロ意識を実感するようになったという。
「だから『メタルギアソリッド』というソフトは、世界中にファンがいる。もう僕の持ち物ではなくて、彼らが支持してくれる、作ってくれという声がある以上、(新作を)作り続けないといけないですし、ある種、自分のために生きているというよりも、彼らのために自分の人生がある。そういう風に最近は思っています」。
また「プロだからこそ続けられる」と小島氏は語る。小学生の頃から、誰が読むかもわからない小説を書き続けたり、映画作りのまねごとなどをしていたからこそ、ファンの思いが自分のエネルギーを高める材料になっていると感じるのだという。「だからファンやユーザーがいないと、モノ作りはできないと思いますね。発表の場がないモノを作るつらさというのは、皆さんが今はそうだと思いますが、それはわかるんです」。
そんな小島氏は「ゲーム作りは天職」だと語った。ゲームはテクノロジー依存型の娯楽なので、新しい技術が発明されると、それを取り込んで、今まで不可能だったアイディアが実現できるようになる。またさまざまな分野のプロの才能と、一緒に仕事ができるようになる楽しさもあるという。それだけに一生ゲームを作り続けて、開発スタジオか、映画館で死にたいと抱負を語った。
ちなみに今、小島氏は「肉食」嗜好を強めているのだという。これは食事の話ではなく、世界の優れた才能を持つクリエイターと、面白いゲームを作りたいということ。テクノロジーに依存するゲーム作りを続ける以上、世界中の優秀な人材とチームを組まないと、トップレベルに居続けることはできない。そこでの理想は映画「スタートレック」に登場するエンタープライズ号のような、あらゆる人種を巻き込んで、最新のテクノロジーを用いた、面白いゲーム作りなのだそうだ。
またゲーム作りの哲学として、手塚治虫氏の言葉を引用しながら「ゲームからゲームを作ってはいけない」と語った。ゲーム作りというのは、対象をその人の感性でデフォルメし、ルール化することで、その時点で作り手なりのフィルターがかかっている。だからこそゲームになっていない題材をそのまま引用して、独自の視点でデフォルメし、ルール化する方が、新しいゲームを作り出せるというわけだ。特に多彩な表現可能になっている今だからこそ、自分なりの視点でゲームを作る必要性を強調した。
最後に小島氏は会場に向けて、モノ作りをしたい人に挙手を求めた。そして会場の大半から手が上がったのを見て「手を挙げた時点でなれます。自分で上げたということは、(自分に対する)宣言なんです」と続けた。その上でモノ作りは孤独であること。そして評価されない時期をどう過ごすかが、後から効いてくると述べた。
「なかなか注目されないと思いますが、そこが出発点なので、そこでめげないことですね。そのためには仲間を探すこと。仲間がいると多少へこたれにくいと思います。今はネットとかがあるんで、必ず自分と同じ目標とか、感性とかをもった人は、世界中にいるはず。僕はコナミに入って、初めて仲間に出会いました。こんなに楽しいことはなかったです。毎日殴り合いしながら、肩を組んで泣いたりとか」。そうした仲間との熱い思いが、「メタルギア」という世界的なシリーズを生み出す原動力になったのだろう。
「プロになって自分を理解してくれるファンやユーザーが1人でも作れたら、あとは何十年でも作れると思うし、辛いことはあっても、がんばっていける。そういう意味では僕は今、幸せです」と締めくくった小島氏。最後に会場の聴衆と記念写真を撮影して、特別講義は終了となった。
最後は会場の聴衆と記念写真をして終了 | 会場では「メタルギアソリッドAir jacket for iPhone 3G」もお目見えした |
□KONAMIのホームページ
http://www.konami.co.jp/
□「小島プロダクション」のページ
http://www.konami.jp/kojima_pro/
(2009年 4月 27日)