「電遊道」~Way of the Gamer~ ジョン・カミナリの楽しいゲームライフ

ジョン・カミナリの楽しいゲームライフ【最終幕】

イタヲタのレトロなゲームライフ~ジョン・カミナリのハプニング満載オタク人生~

僕のゲーマーとしての人生を懐かしさたっぷりで語っていきたい。毎回、特定の時代をセレクトして、自分の記憶への冒険をしたいと思う。最終的には1つのストーリーになる。僕というオタクのストーリー。僕という和ゲー好きゲーマーのストーリー。とにかく、日本ではありえないシチュエーションについてたっぷり語っていくぞ!

 僕達ゲーマーのみんな、思いでいっぱいのゲームライフがある。僕も1980年代から、現在に至るまで、日本のゲームで育ってきたゲーマーなのだ。10,000キロ離れているイタリアだが、以外と、日本との共通点がいっぱいあって、僕も日本人友達のゲーム話をする時にびっくりするほど、お互いのゲームライフは似ていることがわかった。

 僕のゲームライフはお父さんがクリスマスプレゼントでくれたCommodore 64で始まった。イギリス製作のホームコンピュータで、欧州では当時絶大な人気を誇っていたのだ。僕も欲しくなって、優しいお父さんが僕の願いを叶えてくれた。あのクリスマスの夜、まだ鮮明に覚えている。親戚と一緒に深夜までクリスマスを祝った後、僕はお父さんと朝まで、Commodore 64で楽しく遊んだのを昨日のことのように覚えている。ゲームは仕事で忙しいお父さんと一緒にいられる貴重な機会となっていたのだ。

 Commodore 64は8ビットだったが、次世代、16ビットのAmiga 500が発売された時も、貯金して、購入した。そしてファミリーコンピュータもヨーロッパで大ブームを記録し、みんなが持っていたと言っても過言ではないぐらい、欧州では高い普及率を誇っていた。面白いゲームも沢山あったが、日本のゲームの移植版のクオリティはあまり良くなくて、結局、日本のゲームを遊ぶ為に、毎日ゲームセンターに通っていた。「魔界村」、「アウトラン」、「SHINOBI」……。こういうゲームは家でも遊べたらいいなと強く願っていた。

 そうすると、あの伝説となった日本からの家庭用ゲーム機と出会った。セガメガドライブ。僕は早速遊ぶ為に、バカンスでアメリカに行っていた友達に買ってもらった。ちなみに、アメリカのネーミングは「Genesis」だった。それは、僕の日本のゲーム機との出会いとなった。アーケードゲームの移植版も安定したクオリティを持っていたし、オリジナルゲームも充実していたし、そして、シューティングゲームもすごく楽しかった。

 メガドライブよりすごいゲーム機がしばらく発売されないだろうとほぼ確信していたが、 イタリアゲーム雑誌でのスーパーファミコン用の「F-ZERO」や「スーパーマリオワールド」のレビュー記事を読んだ時、体中に電撃が走った。「なんだ、このグラフィックス!この立体感、新感覚だな!」と、強く感じた。すると貯金箱を割って、日本版のスーパーファミコンを購入することにした。メガドライブとセットになって、もうゲーマーとしてこれ以上望むことはないだろうと思った。メガドライブのゲームが、ペースが速く爽快感に満ち溢れたものばかりだったが、スーパーファミコンのゲームは美麗なグラフィックスやMODE7による回転・拡大・縮小エフェクトがすごかったと思う。しかし、「そのどちらかにして」と言われたら、選ぶのは不可能だった。どっちも同じく大好きだった!

 スーパーファミコンとの出会いは、これまでずっと付き合ってきた大切なゲーム友達、エマちゃんとの出会いももたらしてくれた。エマちゃんは「ファイナルファンタジー」の大ファンだった。そのシリーズをまだ知らなかった僕に、スーパーファミコンの「ファイナルファンタジーIV」を紹介してくれた。他のタイトルと比べて、グラフィックスが地味だったが、ストーリーや音楽はとても素晴らしかった。あの日からエマちゃんと友達になって、そして、僕も「ファイナルファンタジー」シリーズの大ファンになった。

 僕のゲームライフには、多くの魅力的なキャラクターが登場していった。最も面白いと思ったのは、やはり、僕が住んでいたマンションの管理人、フランス出身のおじさん、ジュリオだった。彼は僕よりもオタクだったのだ。昼は真面目に仕事をこなし、そして、夕方になると、自宅にこもり、メガドライブやネオ・ジオで夜遅くまで遊んでいた。彼の家に招待された日の事はまだよく覚えている。日本語が理解できないのに、漢字だらけのシミュレーションゲームが棚に並んでいた。なぜ遊べたのだろうか?未だに謎だ……(笑)。

ネオ・ジオが大好きな謎の多いマンション管理人、ジュリオ
日本のゲームを販売していた謎の時計屋さん。店長はテリー・ボガードにそっくり!

 週末はエマちゃんとローマのゲームショップに行って、最新作をチェックしていた。いつも行っていた店もあったが、たまに違うバスに乗って、新しいゲームショップを探しに行く冒険もしていた。日本版の珍RPGを販売していた眼鏡屋さんもあれば、オーナーがテリー・ボガードにそっくりのゲームショップも発見した。あの日々は本当に楽しかったなと、いつも思っている。

 ゲーム機は16ビット時代から32ビット時代へ突入した。セガサターンやプレイステーションのポリゴングラフィックスで、ゲームは新たな次元に進んだ。僕もエマちゃんもその魅力に負け、メガドライブやスーパーファミコンの多くのゲームソフトを売って、できたお金で、32ビットゲーム機を購入した。「リッジレーサー」、「バーチャファイター2」、「DAYTONA USA」、「SEGA RALLY」など、特にレースゲームの分野では、ハードの制限でそれまで移植が不可能だったタイトルが、どんどん出ていった。しかし、3Dゲームがすごかったとはいえ、ドットなゲームで遊びたかった日もあった。やはり、ドットグラフィックスは、普遍的な魅力を持っているのだ。ポリゴンが年を取るが、ドットの印象は殆んど変わらない。今でも、ゲームセンターで1980年代の名作に再会する時、ドットなキャラクターは格好いいと思うのだ。

 プレイステーションで、本格的に日本のRPGで遊ぶようになった。僕のプロフィールに書かれている通り、「ファイナルファンタジーVII」や「ゼノギアス」のセリフを理解するために、ローマの日本文化会館で日本語を勉強し始めた。最初は長時間をかけて辞書を引きながらプレイしていたが、勉強していくと、知っている漢字や言葉が増え、ほぼ辞書を引かずにプレイできるようになっていった。ゲームを通じて外国語を勉強するのは本当に素晴らしいことだと思う。まさに一石二鳥だった!

 そして、日本語講座を修了した直後に、ゲーム雑誌を作っていたローマの有名な出版社に入社した。編集長から託された使命は「日本のゲームを徹底的に紹介しまくれ!」という内容だった。あの日から、日本のゲームメーカーに素材を提供するようにメールを送り、少しずつコネクションを作って行った。そのおかげで、ゲーム雑誌の表紙は日本のゲームで飾られる確率が増えていった。「好きなことを仕事にできるなんて、僕って本当に幸せ者だな」、その時期、すごく嬉しかった!

 あれからずっと、ゲーム雑誌の出版社で、日本のゲームを紹介する編集者・レポーターとして働いていった。そして、2005年になって、僕はあることを決心した。僕の人生の次の目標は特派員として、日本からイタリアに向けてゲームの最新情報を発信しようというものだった。願いは叶った。東京に移住し、ゲーマーとしてもレポーターとしても刺激の多い人生を送っていった。そして、2008年に、運命の出会いがあった。役者の仕事もやっているが、ある撮影現場でGAME Watchのスタッフと出会ったのだ。イタリアにいた頃からずっとチェックしていたGAME Watchは僕にとって憧れのゲーム情報サイトだった。偶然といえるその出会いは、GAME Watchの為に記事を書き始めるきっかけにもなった。

 そして、2011に僕の初の日本語連載記事、「電遊道」が誕生した。レポーターとしてこれほど光栄なことはないだろう。日本のゲームを通じて勉強した日本語を、いつか日本でレポーターとして使えるなんて、当時思ってもみなかった。だからこそ、とても嬉しかった。

 僕のゲームライフも現在も進行中だ。東京でのゲームライフは楽しい。仕事帰りのゲームセンターも楽しいし、秋葉原の週末散歩もまた格別な魅力を持っている。これからも、多くの出会いが僕を待っているのだろう。これからも、多くの素晴らしいゲームに出会えるのだろう。これからも、記事を通して素敵な読者さんと出会えるのだろう。だから、ずっと忘れないで欲しい。これからもゲームライフを思う存分楽しむのだ!

 See you soon! Grazie!!

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