【特別企画】

「どうぶつの森」本日で25周年! 初めて触れたスローライフの衝撃。時間に追われる今だからこそ無性に恋しい、温かかった村での日々

【どうぶつの森】
2001年4月14日 発売

 任天堂より2001年4月14日にNINTENDO 64用ソフトとして発売された「どうぶつの森」が、本日2026年4月14日で発売から25周年を迎えた。

 25年。四半世紀である。現在ではNintendo Switchの「あつまれ どうぶつの森」が全世界で爆発的な大ヒットを記録し、今や「どうぶつの森」を知らない人はいないと言っても過言ではない巨大な国民的タイトルへと成長した。だが、そのすべての始まりであるNINTENDO 64版(以下、初代「どうぶつの森」)が発売された25年前のあの日、筆者はこの歴史的瞬間に立ち会うことができなかった。

 なぜなら、本作の発売日である2001年4月14日、筆者はハワイへと向かう飛行機の中にいたからである。目的は他でもない、自分自身の結婚式だ。4月17日にハワイの青い空の下で無事に挙式を済ませ、そのままハネムーンを満喫。日本へ帰国したのが4月22日頃のことだった。

 帰国してからは、やらなければならない荷解きや事務手続きの山があったのだが……それらをすべて後回しにして大のゲーマーである筆者が真っ先にNINTENDO 64にカセットを差し込んで起動したのが、日本を留守にしている間に発売されていた「どうぶつの森」だったのだ。

 当時の筆者にとって、RPGで世界を救うか、アクションゲームで敵をなぎ倒すのが「ゲーム」の当たり前だった。「剣も魔法もない」、「世界を救う大魔王もいない」、「明確なクリア目的がない」というこのソフトは、人生で初めて触れる「スローライフ系ゲーム」であった。まさか、現実世界で新婚生活という新たなフェーズに入ったと同時に、ゲームの中でも全く新しい「村での生活」にこれほど骨の髄までハマってしまうとは、夢にも思っていなかった。

 本稿では、そんな「どうぶつの森」が発売25周年を迎えたことを記念し、来る日も来る日も村の住人たちと語り合ったあの日々を、とことん振り返っていきたい。最新作の圧倒的な自由度と比べれば、初代は不便で不自由なことだらけだった。だが、その不自由さの中にこそ、任天堂のクリエイターたちが込めた「行き届いた温かさ」がこれでもかと詰まっていたのだ。

※画像提供:任天堂(以下同)

たぬきちへの借金返済ゲーム? いやいや、それはほんの“序章”に過ぎない!

 「どうぶつの森」というゲームを誰かに説明するとき、未プレイの人から必ずと言っていいほど返ってくる言葉がある。「ああ、あのタヌキに借金を返すゲームでしょ?」。

「タヌキ」呼ばわりされるたぬきち

 確かに、村にやってきた主人公は、村で唯一の商店を営むたぬきちから半ば強引に家をローンで買わされ、その借金を返すためにアルバイトをさせられることになる。魚を釣り、虫を捕り、フルーツを拾ってはたぬきちに売り払い、少しずつローンを返済していく。家が広くなればまた新たなローンが組まれ……というサイクルは、ある意味でこのゲームのわかりやすい「目標」として機能している。

 だが、借金返済なんてこのゲームにおけるチュートリアルであり、ほんの序章に過ぎない。本当の「どうぶつの森」の面白さ、いわゆる“スローライフ”の神髄は、借金を返し終わった後、あるいは借金返済の合間に訪れる何気ない日常の中にこそ存在する。「明確な目的(借金返済)」がなくなった瞬間に、「今日、この村で何をしてもいい」という圧倒的な自由に放り出されるのだ。

 朝起きて、村を散歩する。お気に入りの住人に挨拶をする。彼らが欲しがっている家具を探してプレゼントしたり、意味もなくスコップで穴を掘って落とし穴のタネを仕掛けたり(そして自分が落ちたり)、ただひたすらに村の景観を良くするために花を植え続けたり。

 「ゲームにやらされる」のではなく、「自分で遊びを見つける」。スローライフという概念すら知らなかった筆者にとって、この自発的な行動こそが遊びになるという体験は、あまりにも斬新で衝撃的だった。

 「今日は雨が降っているから、シーラカンスが釣れるかもしれない」と、村の海辺で何時間も釣り糸を垂らしたあの静かな時間は、今思い返しても極上のエンターテインメントだったと断言できる。(本来やるべきリアルライフの様々なものを犠牲にして手に入れたスローライフではあったのだが)

最新作とは違う「不自由さ」。でもそれが最高にリアルで愛おしかった

 シリーズ最新作の「あつまれ どうぶつの森」では、島全体の地形をクリエイトでき、家具を外に飾ることもできるなど、圧倒的な自由度を誇っている。それに比べると、初代「どうぶつの森」は、今プレイすれば驚くほど不便で不自由だ。

 アイテムを持てる数はたったの15個。フルーツを拾って魚を数匹釣れば、すぐに手持ちがいっぱいになってしまう。家具は家の中にしか置けないし、服のバリエーションも今ほど多くはない。帽子などの概念もなく、夜になればたぬきちの店は閉まってしまい、アイテムを売ることもできない。仕方がないので、店の前にアイテムをボロボロと置き去りにして、翌朝拾って売るという「店前放置」は当時のプレーヤー全員が通った道だろう。

 しかし、この「不自由さ」こそが、村での生活に奇妙なリアリティを生み出していたのだ。店が閉まっているなら、今日はもう寝るしかない。夜更かしをしてもうろうろ歩き回っているのは、限られた夜行性の住人だけだ。アイテムが持てないなら、本当に必要なものだけを厳選して持ち歩くか、手紙につけて一時的に保存する(いわゆる手紙保存テクニック)しかない。こうした制約があるからこそ、私たちは「システム」ではなく「生活」をしているという実感を強く持つことができた。

 特に筆者が感心し、そして愛おしく思っていたのは住人たちとの手紙のやり取りのシビアさだ。当時のシステムは非常に細かく、便箋に書かれた文字数、句読点の使い方、そして同封したプレゼントの価値などを、独自のアルゴリズムで判定していた。適当に「あああああ」とだけ書いて送ると、翌日住人から「なんて書いてあるか全くわからなかったゾ!」と辛辣なダメ出しの手紙が返ってくる。逆に、きちんとした文章で、相手の好みに合いそうなアイテムを同封して送ると、「とっても素敵な手紙とプレゼント、ありがとう!」と、真心がこもった返事と珍しい家具が送られてくるのだ。

 この、ちゃんと読んでくれている(ように感じる)システムのおかげで、筆者はどうぶつたち宛ての手紙を、リアルな友達に出す時よりも真剣に書いていた。

 「オリビアへ。きょうはあめがふっているね。カゼをひかないように気をつけてね。りなんご(※筆者のゲーム内使用ネーム)より」

 NINTENDO 64のコントローラーで、ポチポチと一文字ずつ文字を入力する手間。それでも、ポストに手紙を投函するときのワクワク感と、翌朝ポストが点滅しているのを見た時の嬉しさは、何物にも代えがたいものだった。あの手紙のやり取りの温かさと細やかさは、不自由な時代だったからこそ際立つ、任天堂の行き届いたホスピタリティの極致であったと思う。

 そして「どうぶつの森」を語る上で絶対に外せないのが、共に村で暮らすどうぶつの住人たちだ。最近のシリーズの住人たちは、プレーヤーに対して非常に優しく、マイルドな性格になっていることが多い。最初から友好的で、まるでお客様をもてなすように接してくれる。しかし初代の彼らは違った。かなり容赦がなく、遠慮がなく、自己主張が激しかったのだ。プレーヤーを容赦なく「村の住人の一人」として、対等かつシビアに扱ってくるのである。

 中でも筆者の心を狂わせたのが、美しい白猫の住人「オリビア」である。彼女はいわゆる「アタシ系」の性格なのだが、とにかく初対面の頃からツンケンしていて、遠慮というものがない。挨拶をすれば「なによ、気安く話しかけないでちょうだい」と冷たくあしらわれ、こちらが着ている服をジロジロ見ては「なんだかアンタ、パッとしない服着てるわね」と平気でダメ出しをしてくる。

 「なんなのよこの猫!ちょっと美人だからって偉そうに!」と、筆者はコントローラーを握りしめながらプンプン怒っていた。だがそんなある日、事件は起きた。オリビアのご機嫌をとろうと、苦労して書いた手紙にきれいな家具を添えて送った翌日のこと。別の住人に話しかけると、こんなことを言われたのだ。

 「そういえばさっき、オリビアがりなんごから手紙をもらったのよ、ウフフって見せびらかしてきたんだ。あいつ、すっごく嬉しそうだったよ!」

 ……えっ? あのオリビアが? わたしに直接会った時は「まあ、ふつうの手紙だったわね」なんてツンとしてたくせに、裏では他の住人に自慢して回っていたの!? その瞬間、筆者の心の中で何かが爆発した。

 「なんて可愛いヤツなんだあああああ!!!!」

 完全にオリビアのツンデレの破壊力に陥落した瞬間である。

 毎日しつこく話しかけ、手紙を送り、おつかいをこなし続けていくうちに、彼女の態度は少しずつ、本当に少しずつ軟化していく。「アンタ、最近よくアタシに話しかけてくるわね。……まあ、嫌いじゃないわよ」そんな風にデレてくれた時の嬉しさたるや。

オリビア

 彼らは、単なるNPC(ノンプレイヤーキャラクター)ではなく、確固たる自我を持った隣人だった。だからこそ、彼らが突然引っ越してしまった時の喪失感も凄まじかった。何日かゲームをプレイできず、久々に村を訪れたら、お気に入りだった住人の家が空き地になっており、ポストには「急に引っ越すことになったの。今までありがとう」という最後の手紙だけが残されている。あの瞬間の、胸にポッカリと穴が空いたような切なさと絶望感。

 セーブデータを消して時間を巻き戻したい衝動に駆られるが、そんなことをすればかの有名な「リセットさん」にガチで怒られるため(初代のリセットさんの説教は本当に長くて怖かった)、泣く泣く現実を受け入れるしかない。出会いがあり、別れがある。自分の思い通りにならない他者がそこにいる。そのほろ苦ささえも、このゲームが与えてくれた「人生の縮図」のような体験だったのだ。

時間とともに移ろう極上のBGMと「とたけけ」

 本作の圧倒的な没入感を生み出していた最大の功労者が、「音楽」である。サウンドディレクターの戸高一生氏を中心とするサウンドスタッフたちが作り上げた本作のBGMは、ただの環境音ではなく、「村の空気そのもの」であった。

 初代「どうぶつの森」では、現実の時計と連動し、1時間ごとにフィールドのBGMが切り替わる。朝の爽やかで希望に満ちたメロディ。お昼時の、少しのんびりとしたのどかな曲調。夕暮れ時の、どこか切なさを誘うノスタルジックな音色。そして深夜、住人たちが眠りにつき、静まり返った村に響く、神秘的でミニマルな電子音。

 どの時間のBGMも、決して主張しすぎず、プレーヤーの行動にそっと寄り添うように流れている。筆者は特に深夜2時から3時頃の、少し不気味で静寂に包まれたBGMが大好きだった。誰も起きていない村をひとり歩き回り、雪が降っていればその足音の「キュッ、キュッ」という音だけが響く。あの絶対的な静寂と孤独感は、当時のゲームではなかなか味わえない極上のアンビエント・ミュージック体験だった。

 そして、音楽を語る上で欠かせないのが、毎週土曜日の夜に駅前にやってくるストリートミュージシャン、「とたけけ」の存在だ。アコースティックギター1本で、様々なジャンルの楽曲を弾き語ってくれる。

 彼のライブを聴き、もらったミュージックを家のラジカセで流す。これこそが、週末の夜の最大の楽しみだった。とたけけは、この村における唯一無二のスーパースターであり、私たちのスローライフに欠かせない心のオアシスだったのである。

とたけけ

今だからこそ、あの「のんびりした時間」が無性に恋しい

 初代「どうぶつの森」が私たちに与えてくれたもの。それは、ゲームの中で敵を倒す達成感でも、世界を救う高揚感でもなかった。「ただ、そこにいていい」、「何も生産しなくても、今日一日をのんびり過ごすだけで価値がある」という、究極の肯定感だったのだと思う。

 「どうぶつの森」が25周年を迎えたということは、すなわち、ハワイで挙式をした筆者の結婚生活も25周年が経ち、いわゆる「銀婚式」を迎えたということになる。2001年12月に生まれた娘も、もう今年で25歳になる予定だ。そう、我が家の娘は「どうぶつの森」と同い年なのである。つまり筆者は妊娠期間中に「どうぶつの森」をひたすらプレイしていたのだ。言うなれば、つわりと共に過ごした「どうぶつの森」と言っても過言ではない。「どうぶつの森」は、つわりという辛い期間を乗り越えるのにぴったりな作品だったのだ。

辛い日々を忘れさせてくれた、どうぶつの森

 あれから四半世紀。アラフィフになった今の筆者は、押し寄せる仕事の締め切りや積みゲーの数々、そして日々のタスクに追われ、すっかり余裕をなくしてしまった。

 休日に何時間も目的なく釣り糸を垂らすようなスローライフを送る時間は、今の筆者にはかなり厳しい。だからこそ、無性に恋しくなるのだ。木を揺らしてベル(お金)が落ちてきて喜んだ日。レアな昆虫を見つけて、息を殺して網を振った日。たぬきちから家の増築を提案され、「またローンかよ!」と文句を言いながらもちょっと嬉しかった日。NINTENDO 64のコントローラーを握りしめ、ただひたすらに、贅沢に、無駄な時間を過ごすことが許されていたあの村での「のんびりした日々」が、まるで幻のように愛おしく感じられる。

 最新作の「あつまれ どうぶつの森」で初めてシリーズに触れたという人も、もし環境が許すのであれば、この不自由で、少しクセが強くて、でもたまらなく温かい初代の村の空気に触れてみてほしい(現在は「NINTENDO 64 Nintendo Switch Online」でも配信されているため、比較的容易に触れることができる)。そこには、今の進化したシステムからは削ぎ落とされてしまったかもしれない、粗削りだけれど純粋な「スローライフの原点」が、間違いなく存在しているのだから。

 25周年、本当におめでとう。現実世界がどんなに忙しくても、目を閉じればいつでも、あの村の緑の匂いと、どうぶつたちの笑い声が蘇ってくる。

 今日は仕事の合間に、心の中の村で少しだけ雑草でも抜きに行こうか。しつこく話しかけすぎて、またオリビアに「パッとしない服ね」なんてイヤミを言われるかもしれないけれど、裏で手紙を自慢してくれる彼女の不器用な優しさに触れられるなら、それもまた愛おしい日常の一コマなのだ。