GDC 2011レポート
鈴木裕氏が語るアーケード筐体開発秘話
「ハングオン」から「シェンムー」まで鈴木氏がファンの質問に本音で解答
Game Developers Choice Awardsでは、先人として道を切り開いてきたことを評価するPioneer Awardに選ばれた |
今年のGDCは25周年を記念して、過去のゲームを再検証する温故知新がテーマになっている。アメリカでは先人に対する尊敬の念が強く、道を切り開いてきたパイオニアには常に熱心なファンがいる。「ハングオン」や「バーチャファイター」など多くのヒットゲームを生み出してきた鈴木裕氏も、今年のGame Developers Choice AwardsでPioneer Awardを獲得するなど、その業績はアメリカで高く評価されている。そんな鈴木氏のセッション「Yu Suzuki's Gameworks: A Career Retrospective」にも、そういったファンが多く詰め掛けた。
セッションにきているのは皆子供の頃に鈴木氏のゲームで遊んだという人ばかりで、画面に「ハングオン」の音楽が流れると歓声が上がるなどファンの集いという雰囲気が強かった。セッションの中心は鈴木氏が開発した「R-360」や「バーチャレーシング」などのアーケード筐体を年代ごとに追いながら開発の苦労話をしていくというもので、後半は聴講者からの質問に答えるという形で進んだ。
鈴木氏は思い出話を面白可笑しく語りつつ、現在開発しているという携帯向けのソーシャルゲーム「シェンムー街」にも触れた。また発表はしていないが3DSの企画も見たことがあると語っていた。講演終了後にはサインを求める人だかりに囲まれ、照れながら応じていた。こういった質疑応答形式のセッションは珍しく、アメリカのファンが鈴木氏の作品のどんな部分に興味を持っているかがわかって興味深かった。このレポートは、セッションの雰囲気を伝えるために対談形式でお送りする。
■ 「バーチャレーシング」は「バーチャファイター」の実験場だった
鈴木氏が手掛けたゲームの年譜 |
――鈴木さんが初めて作ったゲームはなんですか?
鈴木裕氏: 1984年の「チャンピオンボクシング」です。コンシューマ用に作ったのですが、当時としては出来が良かったので、業務用の筐体に入れてスイッチをコントローラーから引っ張ってきてアーケード用として売りました。
――アーケード用に入ったきっかけは何ですか?
鈴木氏: 最初は小さなタイトルをやって調子がよかったので、大きいのをやってみようと言われたのです。それで「ハングオン」を作りました。初めてBGMが入ったゲームです。今となっては相当シンプルですね。
――プレーヤーが身体を使ってコントロールするという考えはどこから来ましたか?
鈴木氏: 最初はモーターとジャイロを使って動くようにしたかったのですが、コストが高いからダメと言われちゃって。
――「スペースハリアー」についてお伺いします。ハリアーと言えば英国の戦闘機ですが、なぜ人間なのに「スペースハリアー」という名前になったのですか?
鈴木氏: 当初は飛行機の企画だったのです。それは僕の企画書ではなかったのですが、当時のハードウェア技術では難しくて実現できなかった。だから僕が企画を書き直して名前だけもらったのです。飛行機だと動かす時に角度をつけなくてはいけないから必要なパターンが多くてメモリが足りなかったのです。だから人間に変えました。
――「スペースハリアー」の世界は何でもアリな雰囲気ですが、どうしてあの世界を作ったのですか?
鈴木氏: マッシュルームのようなものが生えていますが、キノコはどこからみても形が同じなのでメモリが少なくて済むのです。四角い建物だとパターンがたくさん必要ですから。そういうものをどんどん入れていったらあの世界になりました。「ネバーエンディングストーリー」という映画があるのですが、僕はああいうファンタジックなものが好きです。それと日本のアニメーションの「スペースコブラ」と、アートデザイナーのロジャー・ディーンのイラストの3つが合体して「スペースハリアー」になりました。
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鈴木氏が世に送り出した体感レースゲームは大ヒットして一世を風靡した |
――「バーチャレーシング」についてはどうでしょうか?
鈴木氏: 「バーチャレーシング」にはピットストップのシーンがあるのですが、そこを作ったのは、「バーチャファイター」を作るために3Dで人を動かす練習をしたかったからです。そのためのシミュレーションをピットクルーでやりました。
――「バーチャファイター」はテクスチャーが貼ってありませんが、「バーチャファイター2」からはテクスチャーが貼られてるようになりましたね。
鈴木氏: 「バーチャファイター」の時にはフラットシェーディングしかできなかったのですが、どうしてもテクスチャーマッピングという技術を使ってみたくて、探したら軍事シミュレーションの会社しかそういう技術を持っていなかったのです。92年くらいかな。ちょうどソ連が崩壊して軍事用の技術が民間と一緒にやらなくてはならなくなった頃です。どうにかゲームに使えないかと交渉に行って、みんなはダメだろうと言ってましたが、一緒にやりましょうということになったのです。その時、フライトシミュレーターが32億円と言われて、中に入っているチップはいくらですかと聞くと「売ったことがないからわからない」と言われたんです。その後、200万ドル(約2億円)でどうかと言われたのですが、セガの当時の社長は「5,000円にしてもらえ」と言って、凄いギャップですよね。でも頑張って量産してチップのコストをどんどん下げていったら5,000円になりました。それから3Dがどんどんポピュラーになっていきましたね。
――その当時のセガの社長は中山隼雄さんですか? どんな方だったのですか?
鈴木氏: 中山さんは絵が綺麗だとゲームが完成していると思うのです(笑)。絵が綺麗だとすぐに発売しろと言うので、それは困ったなと思って、机の下にボタンを作って押すと絵が壊れるようにしていました。カラーバランスをいじると絵がぐちゃぐちゃになるじゃないですか。「アフターバーナー」の時にもやっていたんですが、僕がいない時に来てばれちゃいました。
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ポリゴンゲームの先駆け「バーチャレーシング」。ピットレーンの人間は「バーチャファイター」を作るためのシミュレーションに使われていた |
――「アフターバーナー」は「1」と「2」の間が3カ月しかあいていませんが、どうしてですか?
鈴木氏: 確かセガが上場しようと頑張っていた時で、「アフターバーナー1」を早く出さないと上場できないと言われたのですがチューニングが全然できてなかったのです。そこで「1」を出した後で無料で「2」にチェンジしてくださいと約束してもらって、「1」を出したのです。
――当時は凄く小さいオフィスを借りていましたよね。どうしてですか?
鈴木氏: セガにいると、遅刻すると怒られるんですね。夜遅くまでやって、泊って働いていても朝が遅いと給料がカットされる。それではみんなが仕事しにくいだろうと思って、オフィスに越したら文句をいわれないだろうと。
――「R-360」は筐体が動きますが、どういう発想で作ったのですか?
鈴木氏: セガのメカトロニクス部隊が2軸で動く地球儀みたいなものを作りたいとということでやりました。試作品ができたので乗ってくれと言われて、行ってみたら大きな電気のコードのリールみたいなものがあって、そのリールに付いた椅子に縛り付けられてみんなで回されました。5階建てのビルの屋上でやったから怖くて(笑)。食事はしてくるなと言われました。
――「R-360」の開発は絶対に1人でやるなと言われていたそうですね。
鈴木氏: 危険だから1人でプログラミングするなという指示を出していたのです。ところがそれを破った部下が夜に1人でやっていたらセーフティロックが外れなくなって、朝に誰かが車で斜めの角度で宙ぶらりんになっていました。面白いからすぐに助けないでみんなを呼んできました。
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ゲームセンターでもひときわ目を引いていた「R-360」は、開発者が宙づりになりながら作った苦心作だった |
■ 「シェンムー 3を出したいですね」という言葉に大きな拍手
――世に出なかった失敗作はありますか?
鈴木氏: 2004年に「ΨΦ PSY-PHI」というタッチパネルの格闘ゲームを作ったのですが発売されませんでした。「マイノリティ・リポート」という映画の中でトム・クルーズがタッチパネルを操作してる姿をゲームにしたかったのですよ。でも発売しなかったのは、操作してると人差し指が熱くなって、焦げちゃったのです。手袋をすれば良かったかもしれないですね。Kinectなら大丈夫かな。
――「ΨΦ PSY-PHI」の超能力を使った格闘ゲームと言うアイデアはどこからインスピレーションを得たのですか?
鈴木氏: 小さい頃に見た日本のアニメーションで、そういう超能力ものが好きだったのです。アメリカのヒーローにも超能力を使う人が多いですよね。ああいうのが本当に好きだったので。
――格闘ゲームは手と足を使わなければいけないと思いますか?
鈴木氏: 遊びはシンプルにした方がいいと思います。今の「バーチャ」は少し難し過ぎる気がするので、もっと簡単にした方がいいですね。
――自分以外の人が「バーチャファイター」を作ることに関してどう思いますか?
鈴木氏: 僕自身はいつも新しいものをやっていきたいので、「バーチャファイター」がブランドになって、シリーズが続いていくのはいいことだと思っています。ただ少しずつ難しくなっているので、今度は少しずつ簡単にした方がいいと思います。
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ロケテストの後、発売中止になってしまった幻の格闘ゲーム「ΨΦ PSY-PHI」 |
――「シェンムー」はなぜ作ったのですか?
鈴木氏: セガがドリームキャストを作る時に、キラータイトルが欲しいという話になったのです。そこでRPGのビッグタイトルが必要だということになったのですが、最初は誰もやる人がいなかった。最初は「バーチャファイター」のアキラを使った企画でしたね。途中からオリジナルのニュータイトルでいけるかなと思ってチェンジしました。開発費は4,700万ドル(約50億円)くらいです。
――1999年ごろですよね。どうしてそんなにかかったのですか?
鈴木氏: 開発とか宣伝とか、どこに使ったかな(笑)?
――「シェンムー」で上手くいったところと、いかなかったところを教えてください。
鈴木氏: 上手くいかなかったところは、スタッフが多すぎてコントロールできなかったことと、後は時間が経ってもラーメンが伸びるようにできなかったところ。
――「シェンムー 3」はいつですか?
鈴木氏: 作りたいですよ(笑)。環境が整えば作れますよ。スポンサーがつけば作れます。セガは作らせてくれるんじゃないかな?(会場から大きな拍手)
――「シェンムーオンライン」は作らないのですか?
鈴木氏: 途中までは作っていたのです。ちょうどパートナーも決まっていたのですがリーマンショックでなくなってしまいました。いつかやりたいですね。
――もともと3Dのゲームが作りたかったのですか?
鈴木氏: 大学時代に3Dの建築の勉強をしていたので、3Dで何かをやりたくてセガに入りました。
「Digital Dance Mix」 |
講演終了後にはサインを求める人だかりができた |
――1997年にサターンから「Digital Dance Mix」を出しましたが、なぜもう1回作らなかったのですか?
鈴木氏: あの当時、これからはダンスゲームが流行るのではないかなと思って、ミニゲームをタイミング良く叩いていく今の音ゲーと同じようなものを作りました。あれが最初かもしれないですね。でも僕は1回作ると飽きちゃうので、あまり続けて同じものを作らないのです。
――アメリカでは1980年代にアーケードはダメになりましたが、日本では上手くいったのはどこが違ったからだと思いますか?
鈴木氏: アメリカでは25セント(約21円)でしたけど、日本は100円だったから日本の方が有利でした。でも体感ゲームはアメリカでも新鮮だったみたいで結構売れました。いまは日本もアーケードビジネスはどんどん厳しい状態になっています。昔と比べてPCやらネットでいろいろなところで遊べるようになったので、ゲームセンターに行かなくても楽しめるようになりました。昔みたいに復活するのは難しいかもしれませんが、アーケードはみんなが集まってフェイス・トゥ・フェイスでできるようなものがこれからはいいのではないでしょうか。
――いま必要としているのはどのような人材ですか?
鈴木氏: 真面目に答えますとサーバーエンジニアです。
――今はソーシャルゲームを作っていますが、3Dでは作らないのですか?
鈴木氏: 今は小さな会社なので、まだその段階ではないです。成功したらやりたいですね。
――「ΨΦ PSY-PHI」で遊んだことがあります。凄いゲームだと思いました。そこからソーシャルゲームにいったことをクリエイターとしてどう思いますか?
鈴木氏: ネットワークでみんなとつながるのが新しい技術だと思っています。「PON」というゲームから始まって、2Dの時代があって3Dの時代があって、ネットワークの新しい市場ができています。今はまだ画質も悪いけれど、あと2、3年経ったら凄いいことになるのではないかと。だから今1番面白いのではないかと思います。
□Game Developers Conference(GDC)のホームページ(英語)
http://www.gdconf.com/
(2011年 3月 4日)