西川善司の3Dゲームファンのための「AGNI'S PHILOSOPHY」講座
「不気味の谷」を渡りきる、次世代「ファイナルファンタジー」基準のリアルタイム表現力


スクウェア・エニックス本社



 


 2011年初夏、スクウェア・エニックスは、新世代機を見据えたゲームエンジン「Luminous Studio」の開発プロジェクトの存在を明らかにし、さらに同年秋には、このLuminous Studioの開発に際して生み出された技術の一部を、技術交流会の形で一般に公開するオープンカンファレンスを開催した。

 まだ、開発が終わっていない次世代技術の存在を明らかにしただけでなく、その成果物までをも公開してしまうという行為は、一見非常識にも思える行動であった。なぜ、スクウェア・エニックスは、このような行動に出たのだろうか。

 今でこそ技術的ビハインドはないが、PS3、Xbox 360に代表される今世代機の登場当初、日本のゲーム開発技術は、欧米勢に及ばない部分があった。具体的には、グラフィックス面ではプログラマブルシェーダ技術、プログラミング全般面で言えばマルチスレッド対応コーディング技術などにおいてだ。

 その技術キャッチアップに多少の時間を有したことは、スクウェア・エニックスとしてはもちろん、日本のゲーム開発シーンにもよいことではなかった。そうした反省を踏まえ、ある意味、日本のゲーム業界振興の一翼を担っているスクウェア・エニックスとしては、日本のゲーム開発シーン全体に刺激を与えることは、業界活性化のために必要と判断した。だからこそ、オープンカンファレンスのような大胆な手を打ったのだろう。

 なお、2011年時のスクウェア・エニックスの次世代ゲームエンジンLuminous Studioについての1回目の詳報は筆者連載の「Luminous Studio」講座だ。そしてその第2報ともいうべき2011年開催のスクウェア・エニックス・オープンカンファレンスで発表された次世代グラフィックス技術関連のレポートはこちらになる。本稿をお読み頂く際は、これらも合わせて参照頂きたい。

 さて、スクウェア・エニックスは、2012年のホリデーシーズン以降のゲームシーンを占う上で絶好の機会となるこのE3のタイミングで、これまで蓄積してきた技術を、「わかりやすい形」で見せる「次の一手」を示してきた。それが今回E3で正式発表されたLuminous Studioベースのリアルタイム技術デモ「AGNI'S PHILOSOPHY」になる。今回は、これを取り上げたい。なお、掲載しているスクリーンショットについては、フルHDの原寸素材をそのまま掲載しているので開く際はご留意いただきたい。

【著者近影】
Luminous Studio/「AGNI'S PHILOSOPHY」の取材を行なった当日はたまたま筆者の誕生日だった。どこから調べてきたのか、なんと、スクウェア・エニックスの方達がサプライズでケーキを用意してくれていたのだ。人生初のサプライズ体験である。ケーキはその場におられた皆さんとで切り分けて頂いたが「Happy Birthday」のチョコプレートは、当然筆者の分け前に付けて頂いた。あまりのうれしさに何歳になったのかの記憶をこの日になくしてしまった(笑)。ブログはこちら



■ スクエニの次世代ゲームエンジンLuminous Studioのリアルタイムデモ「AGNI'S PHILOSOPHY」

 まずは、4分弱のフルスケールの映像を見ていただこう。

AGNI'S PHILOSOPHY

 「AGNI’S PHILOSOPHY」は、通常のゲーム開発プロジェクトとは異なり、Luminous Studioの開発を行なっているテクノロジー推進部の主導で進められたプロジェクトであり、Luminous Studioの技術デモのために制作された映像作品であるとのことだ。

 ではなぜ、副題に「FINAL FANTASY(ファイナルファンタジー)」が掲げられているかと言えば、これはデモを通してスクウェア・エニックスの未来、「ファイナルファンタジー」の未来に対するポジティブなメッセージを届ける目的があるためと言うことだ。

 ただ、Luminous Studioは、スクウェア・エニックスの肝いりプロジェクトであるため、将来的にはFFシリーズの新作が、このLuminous Studioベースで開発される可能性はきわめて高いと予想される。ならば、逆算的に考えれば、将来の「FF」グラフィックスが、「AGNI'S PHILOSOPHY」レベルに(近いものに)なるであろうということは想像に難くない。

 今回のこの「AGNI'S PHILOSOPHY」開発プロジェクトは、技術の実験的開発時期や初期計画の立案時期は別にすると、オープンカンファレンス開催後の2011年の晩秋くらいから本格的に始まったとされる。

橋本善久氏(スクウェア・エニックス、CTO、テクノロジー推進部、コーポレート・エグゼクティブ)
岩田亮氏(スクウェア・エニックス、テクノロジー推進部、リード・アーティスト)
野末武志氏(スクウェア・エニックス、ビジュアルワークス部、チーフ・クリエイティブ・ディレクター、シニア・マネージャー)
岩﨑浩氏(スクウェア・エニックス、テクノロジー推進部、リード・エンジニア)

橋本善久氏:我々が普段プリレンダームービーとして提供しているレベルの映像をリアルタイムで実現する」という目標を掲げてプロジェクトを組みました。私自身がプロデューサ兼ディレクタとしてコンテンツと技術双方のディレクション、進行管理や品質チェックなどを行ないました。限られた時間の中での制作でしたが、ただの技術デモにせずに「作品」として作り上げる為に、通常のゲーム制作と全く変わらない丁寧さで世界観や設定作りから開始し、かなり気合いを入れて取り組んだプロジェクトになりました。

岩田亮氏:私がリード・アーティストを担当しました。主人公の少女“AGNI”のデザインは私が描き起こしたものです。ベースとなる世界観や設定や構成は橋本さん、野末さん私の3人で話し合って構築していきました。他にはヴィジュアルワークスのムービー用データをリアルタイム向けデータに移植する際にアーティスト達が触れるパイプラインやワークフローの構築も行ないました。

野末武志氏:映像作品として世界感や設定を掘り下げ、脚本、演出、アートディレクションを担当し、リアルタイム映像のベースになるプリレンダームービーのCGディレクションを行いました。

 スクウェア・エニックスのビジュアルワークス部とは、これまでもFF作品などで高品位なプリレンダームービーを制作してきた部署だ。今回のプロジェクトが特異だといえるのは、普段はリアルタイムレンダリング技術を使わないビジュアルワークスが、リアルタイムレンダリングベースのプロジェクトに参加しているという点だ。これは、将来的なゲームグラフィックスにおいては、プリレンダーとリアルタイムの境界がなくなるということを想定した実験的な側面と、Luminous Studioという生まれたばかりのゲームエンジンを、ハイクオリティ映像を専門としてきたビジュアルワークス部に鍛えてもらいたい、という意図があったと思われる。

 なお、ビジュアルワークス部は、実際に、3分30秒の「AGNI'S PHILOSOPHY」をオフラインレンダリングで作品として作り上げており、その過程で生み出された各種コンテンツデータ等はほぼそのままの形で継承した上で、Luminous Studioの技術でリアルタイムに落とし込んでいく……というアプローチで制作された。

橋本氏:単に美しい映像をリアルタイムで再現しましたというだけでなく、「AGNI'S PHILOSOPHY」は技術デモ作品でもあるので、各シーンにおいて技術的なアピールが盛り込めるようなシーン構成、カット割りを意識して作っています。

岩﨑浩氏:Luminous Studioは、近未来のゲーム制作を見据えたゲームエンジンです。従って、「AGNI'S PHILOSOPHY」は本当にリアルタイムで動作しますが、現状、その動作環境はハイスペックPCになっています。OSは64bit Windows 7です。なお、Luminous Studioは64ビットにも対応した設計になっています。

橋本氏:今回はデモ用PCに使用した機器のメーカーさんや詳しいスペックはお知らせできないのですが、PCショップで一般購入できるパーツのみで構成されていますし、性能の目安としては、他社さんが同様な技術デモ映像を見せる際に使用しているPCのスペックと同水準であると捉えて頂ければ結構です。

 デモ機はハイスペックPCなわけだが、これまでのゲーム機の進化の歴史を振り返ると、新登場する新世代ゲーム機は、その時々のハイスペックPCとほぼ同等性能(あるいはそれ以上)が与えられてきたので、今回のデモ機も決して浮き足だった無謀なスペックというわけではない。

 「AGNI'S PHILOSOPHY」としてのグラフィックススペックも一部明らかになっているので紹介しておくと、レンダリング解像度は1,920×1,080ドットのフルHD相当、フレームレートは可変フレームレートを採用しており30fps~60fps程度。HDRレンダリングのフォーマットはFP16(16ビット浮動小数点)を採用。取材時に使用していたデモ機では一部重くなるシーンについては1,280×720ドットを採用していたが、これはGPUを上位モデルに置き換えれば簡単に解消できると思われる。

 1フレームあたりのポリゴンは、影生成やポストプロセス用素材などに用いられる中間素材の不可視ポリゴンのレンダリングまでを含めると約500万~1,000万ポリゴン。

【ビジュアルワークス版の映像とリアルタイム版の同一シーンの比較】
左がビジュアルワークス制作のプリレンダー版。右が今回公開されたリアルタイムレンダリング版

 一般ユーザーとして気になるのは、この「AGNI'S PHILOSOPHY」が、ユーザー環境で実行可能なものとして提供されるのかと言うことだ。スクウェア・エニックスは、実在のゲームのグラフィックスランタイムをベースにしたPC向けベンチマークソフトなども提供しているので、「「AGNI'S PHILOSOPHY」ベンチマーク」のような形で提供されればかなり面白いことになりそうなのだが。

橋本氏:ベンチマークソフトを作るのは面白そうですが、そのあたりは何も決まっていないです。ごめんなさい。

 実際、ユーザーに提供するとなれば、幅広いハードウェアへの対応のために互換性チェックなどが必要になり、新たな開発コストを生むので、なかなか気軽には決断が出来ないのだろう。

 ただ、ユーザーの立場からすれば、実際に自分の環境でリアルタイムレンダリングされている様を実感してみたいという要望は強いはずで、仮に自分のハードウェアが性能不足で低フレームレートでしか再生できなかったとしても、それはそれで「そこまでの性能を使い切って実現されている映像なんだ」と言うことが実感できるはずだ。逆に、ハイフレームレートで再生できれば、ハイスペックPCを持つことの満足感と、いち早く次世代ゲームグラフィックスを触れられた優越感が得られるはずで、これは最高のファンサービスになる。ぜひ検討して貰いたいところだ。

 それではさっそく、「AGNI'S PHILOSOPHY」のグラフィックス表現について見ていこう。

【リアルタイム動作している様が確認できる動画】
映像の進行を止めて視点をずらしたり、MAYAからのライブエディットしている様子が確認できる

【ライブエディットシーンその1・動画】

【ライブエディットシーンその2・動画】




■ 「AGNI'S PHILOSOPHY」における人物キャラクタ表現(1)~NURBSベースのジオメトリ構造を持った頭髪表現

 「AGNI'S PHILOSOPHY」は、映像作品であると同時に、技術デモというコンセプトが掲げられているため、非常に見どころが多い。ある意味、Luminous Studioに実装されたグラフィックス技術の総合博覧会的な側面もあり、シーンごとに解説を行なっていると誌面がいくらあっても足りないので、本稿では、筆者が「見どころ」だと感じた「リアルタイムキャラクタ表現」にスポットを絞って解説していくことにする。

 筆者もそうだったが、多くのユーザーがまずこの作品を見て驚かされるのは、そのリアルなキャラクタ(人物)表現ではないだろうか。

 まず、注目していただきたいのが冒頭に登場する老人のヒゲや主人公AGNIの髪の毛だ。ここの表現は、あまりにも自然なため、見逃しがちだが、実はこれまでのゲームグラフィックスとは次元の異なる技術が適用されている。

【老人のヒゲ・動画】
老人のヒゲはNURBSベースでできている。リアルタイムで動作している様を見せる演出の後、ヒゲの色や縮れ具合をリアルタイム調整するデモが見られる

 従来のゲームグラフィックスの毛髪類の表現は、いわゆる“毛ヒレポリゴン(フィン)”と言われるものを植え込んだり、あるいは毛髪の断面図(シェル)を積層させるような方法をとっていた。それぞれ、フィン法、シェル法と呼ばれるが、前者は“ワカメ”が植わっているように見え、後者は“綿埃”が積もっているように見える。細い毛髪が束になっているリアルな“髪”の質感を表現することが難しかったのだ。

 「AGNI'S PHILOSOPHY」では毛髪類に、フィン法を補助的に利用はしているものの、メインの表現手法としては新しい技術を採用している。

Remi Driancourt氏(スクウェア・エニックス、テクノロジー推進部、シニア R&D エンジニア)

Remi Driancourt氏:毛髪の1本1本に対しNURBSカーブの制御点をMAYAの方から与える形で髪や髭をデザインしています。この制御点の情報をランタイム側に渡し、ランタイム側で初めて実際の髪としてレンダリングするような流れを取っています。

 「AGNI'S PHILOSOPHY」では、毛髪類は1本1本のジオメトリを持っており、2頂点からなる線分を基礎単位としている。現実世界の人間の髪の毛が1本の線分からなっているのと同様だ。

 この1本の線分をNURBS(Non-Uniform Rational B-Spline:非一様有理Bスプライン)法を用いて実際の毛髪のような曲線に変換する。NURBSとは、与えた複数の制御点から算術的な曲線(曲面)を生成する手法だ。2頂点からなる線分を、多頂点からなるNURBS曲線に変換するのにテッセレーションステージを利用するのだ。テッセレーションステージとはプログラマブルにプリミティブ(ポリゴンやライン)を分割する機構で、DirectX11世代のGPUに新搭載された新しいシェーダーステージになる。

 具体的なパイプラインは結構複雑だが、興味深い。まず、テッセレーションステージのハルシェーダで与えられたNURBS用の制御点を元に、表現したい曲線粒度を算出し、テッセレーターで実際にその粒度で線分を分割する。なお、分割粒度は視点からの距離に応じた値で決定されると思われる。そして、ドメインシェーダで曲線としての意味づけを行なう。

Driancourt氏:ここで線分としてレンダリングしてしまうと視点からの距離にかかわらず1ドットで描画されてしまいます。これだと髪の毛としてのボリューム感が寂しいものになります。そのボリューム感を増すためにここからジオメトリシェーダを使います。

 頭髪は無数の本数の毛髪からなっているが、これを1本1本植えておくのは冗長すぎる。というのも隣接する毛髪同士はほぼ同じ挙動を示すし、実際、現実世界の人間の髪を櫛でとかしたときも、ある一定量の毛髪が束ねられて髪型が形成されているのは、自分を鏡で見れば納得がいくことだろう。

 人間の頭皮には約10万本の毛髪が生えていると言われるが、「AGNI'S PHILOSOPHY」でも、データとして存在しているのは、代表の毛髪だけで、10万本の線分ジオメトリをキャラクタの頭皮に植えてはいない。「AGNI'S PHILOSOPHY」では、テッセレーションステージにて、その代表毛髪の曲線状態を算出した後は、今度は、ジオメトリシェーダで代表毛髪を増毛させるのだ。ジオメトリシェーダは頂点をプログラマブルに増減させる機構で、DirectX 10世代のGPUから搭載されたシェーダーステージだ(Wii Uはこの世代のGPUを搭載する)。

 「代表毛髪を増毛させる」という考え方は、NVIDIAのHAIR DEMOでも使用している考え方だ。


【頭髪】
その多くが重なって見えていないが、細い青い頭髪がが代表毛髪、赤がジオメトリシェーダによって増毛された毛髪(左)、最終映像(右)。

 Luminous StudioのこうしたHAIRエンジン部は、天然パーマ的な「ちぢれ毛・巻き毛」(Twisted Hair)の要素も盛り込めるようになっており、「AGNI'S PHILOSOPHY」においてもキャラクタによってはその機能を活用しているという。「AGNI'S PHILOSOPHY」におけるこうした凝った毛髪表現のランタイム実装は技術デモ的な意図が大きいとは思うが、しかし、髪型をリアルタイムに変更したり、毛髪をリアルタイムに伸ばしたり、あるいは短くして短髪化したり、はたまた髪の量を増減させたり……といった新しいグラフィックス表現の可能性を模索しているような気もする。

【老人のヒゲはランタイムでも調整可能】
ヒゲはキャラクタモデルにパラメトリックに植え込んでいるので、ランタイム時に生やし方を変更することも可能

Driancourt氏:髪のシェーディングもかなりリッチな手法を採用しています。髪の毛が光に当たると、その反射光、髪の毛に入って出射する透過光、髪の毛で内部散乱して再び出てくる出射光の3つ要素がありますが、それらにちゃんと配慮してライティングを行なっています。

 光が髪の毛にあたると、かなりの割合がその表面で鏡面反射してそこにハイライトを生じる。これが1つ目の要素で、このハイライトは主に光源色で強く出ることになる。そして、髪の毛に浸透した光は減衰しつつも毛髪そのものの色を吸収して出射する。出射光のうち、入射側に戻ってきて二次的なハイライトを形成するのが2つ目の要素で、毛髪を透過して出射する透過光が3つ目の要素になる。なお、この毛髪色からの出射光色は光原色よりも毛髪色の方が支配的となる。この辺りの解説とCG向けのライティングモデルへの実装はSteve Marschner氏のSIGGRAPH2003の論文に詳しい。

【頭髪のライティング】
頭髪のライティングはSteve Marschner氏の論文に基づいた手法を採用



■ 「AGNI'S PHILOSOPHY」における人物キャラクタ表現(2)~触感までを連想させる人肌表現

表面下散乱の概念
白色光を肌に当てたときに、照射点の周囲にどんな光が漏れてくるかを計測

 そして、圧倒的なリアリティを放っているのが人体の皮膚の表現だ。特に顔面は、冒頭の老人も教祖も、AGNIも、透明感のある人肌表現がなされており、今世代機までのプラスチック感漂うものや、素焼き陶器のような乾いた質感とは明らかに違う。

 しっとりとした“脂質感”があり、光源からの光が1度染みてから滲み出てくるような、いわゆる表面下散乱(Subsurface Scattering)のシミュレーションをやっているような質感が再現できている。

 レイトレーシング的な手法が最も表面下散乱を正確に実現する方法だが、さすがにリアルタイムでやるには無理があるので、何らかの近似手法を用いることになる。様々な近似手法が考案されてきているが、有名なのはNVIDIAがGeForce 8シリーズ用に公開した「Adrianne」デモだ。

 Adrianneでは、表皮のアルベドテクスチャを適用した後の顔面(人体)に対し拡散反射モデルのライティングを行なうが、そのレンダリング結果を、“あるプロファイルデータ”に基づいてテクスチャ座標系でボカして、再度、その顔面(人体)モデルに再度、テクスチャマッピングするという大胆な手法を採用していた。

 その「あるプロファイルデータ」とは、皮膚に浸透させた白色光がどのように出射するのかを光の波長ごとに計測したものだ。


【リアルな肌の質感】
人肌の表現には疑似的な表面下散乱を駆使したスキンシェーダを使用している
【「Adrianne」デモ】
原点が白色光照射点。横軸が照射点からの距離。縦軸が反射率。つまり、照射点から離れれば離れるほど赤い光が出てくると言うことがこのグラフから読み取れる(左)。Adrianneデモでの疑似表面下散乱のパイプライン(右)
ブラー前(左)、ブラー後(右)
この手法でリアルタイムレンダリングされた顔面

 NVIDIAは、この手法を異なる6つのブラー径でブラーさせたものを合成して多層の表皮で散乱する質感までを再現し、リアルタイム向けスキンシェーダーとしてはかなりレベルの高い表現を実現したのだが、処理負荷はかなり重かった。この手法を、シーンに複数のキャラクタが登場するケースで利用しようとすると、このとんでもなくテクスチャーヘビーな処理を全てのキャラクタに対して行なわなければならなくなり、パフォーマンスが出ない。

Driancourt氏:テクスチャ座標系の疑似表面下散乱手法ではクオリティは高くなりますが、負荷的に1体のキャラクタに適用するのが限界だと思います。我々も、拡散反射のライティング結果を、人肌に浸透した光が出射してくる分布情報でブラーさせる概念自体は同じですが、「AGNI'S PHILOSOPHY」では、画面座標系(Screen Space)でブラーさせる手法を採用しました。

【疑似表面下散乱の効果】
拡散反射項のみ
拡散反射項に対して画面座標系のブラーを行なう疑似表面下散乱を実践した結果
鏡面反射項のみ
疑似表面下散乱オフ。(拡散反射項+鏡面反射項)
疑似表面下散乱オン。(拡散反射項×疑似表面下散乱+鏡面反射項)。最終映像はこちらになる

 つまり、疑似表面下散乱のためのブラー処理を画面座標系のポストプロセス的に実施すると言うことだ。このアプローチだと、1フレーム内に人体が1人だけだろうが、100人いようが、ほぼ同一の処理時間で済む。ただ、視点から近い人体と遠い人体とでは、ブラー半径が異なってくる。近いキャラクターは大きくブラーさせなければならず、遠いキャラクタは小さくブラーさせる必要がある。これについては、恐らく深度バッファを参照してブラー対象の遠近を見極めた上でブラー半径を決定していると思われる。ポストプロセスの定番である被写界深度表現でも、ピントが合っている箇所とずれている箇所のぼかしのバイアスを深度値を元に決定するが、それと同じ考え方だ。




■ 「AGNI'S PHILOSOPHY」における人物キャラクタ表現(3)~人肌における「影」と「陰」

 ほとんどの人が気がつかないと思うので、もう1度映像を見る機会の時に、人物キャラクタに投射されている影に注目して欲しい。その影が顔面と衣服を横切っている際、半影の出方が違うことに気がつくはずだ。

 衣服に落ちている影の輪郭(エッジ)は、いわゆる普通の近傍比率フィルタリング(PCF:Percentage Closer Filtering)ベースのソフトシャドウ処理がなされた半影となっているが、顔面に落ちている方の影の半影表現はぼんやりと鈍い赤味を帯びている。影のエッジ部わからは、光が当たっている箇所から伝搬されてきた光が出射されてくるため、こうした赤味を帯びるのだ。現実世界でも人肌に影が落ちると、影のエッジ部分ではこのようになる。「AGNI'S PHILOSOPHY」でも、この表現が再現されているが、これは今回実装した画面座標系の疑似表面下散乱表現の副産物になる。特別なマスク処理をしない限りは自然とこうした表現が出るのだ。

橋本氏:今回、「AGNI'S PHILOSOPHY」では、Ambient OcclusionはScreen Spaceのものではなく事前計算してAmbient Occlusion用のテクスチャに焼き込んでいます。全方位の遮蔽率から算出される濃淡値を格納しておく従来手法と、球面調和関数(の係数)を持たせる手法も採用しています。

岩田氏:球面調和関数で持つAmbient Occlusionは、光源との位置関係によってちゃんと陰影の出方が変わります。白黒濃淡値だけで持つ従来型のAmbient Occlusionは「フィギュアに対する墨入れ」みたいなもので、原理上、消えて欲しいのに消えてくれないですよね。鼻筋と頬の交差線などで光源の位置関係に無関係に筋が出ていたりしたら不自然です。そうしたケースのような、比較的、正確な自己遮蔽を再現したい箇所には球面調和関数の方を採用しています。

 「AGNI'S PHILOSOPHY」におけるキャラクタの鼻の穴は、濃淡値だけでもつAmbient Occlusionによる陰影となるのだが、ただの白黒濃淡にはなっていない。これは前述の影のエッジで見られた疑似表面下散乱の副産物効果だけでなく、ピクセルシェーダーで実装した「疑似二次反射光」効果的な制御が介入しているという。具体的には、そのキャラクタの表皮アルベドテクスチャの彩度情報を白黒濃淡情報に僅かに加味するような制御になる。

 あまり、普段は意識してみることがないとは思うが、「AGNI'S PHILOSOPHY」の登場キャラクタの顔面の「凹み」や「穴」に注目して見ると新しい発見があるかもしれない。

【影と陰】
衣服に投射されている腕の影と顔面に投射されている腕の影のエッジの表現の違いに注目



■ 「AGNI'S PHILOSOPHY」における人物キャラクタ表現(4)~FF系の美形キャラからも人間くささが滲み出る演技力はどこからくるのか?

 人間は人に類似したものを見るとき、ある一定のリアリティ度の境界を超えていなければ、それを「本物の人間ではない」と判断したうえで、足りない部分を脳内で補間し、むしろその対象を「人に近いカワイイもの」と感じる。例えばデフォルメしたキャラクタ、擬人化されたキャラクタなどを見た時がそうした状況だ。

 一方、そうした非リアルよりはリアルだが、本物の人間よりはリアルではないというような「リアル/非リアルの境界」付近の「人を模したもの」に対し、人間は嫌悪感や恐怖感を覚える。この「認知境界」は「不気味の谷」と呼ばれ、CG業界やロボット業界ではしばしば議論の対象となる。

 「AGNI'S PHILOSOPHY」は、相当なリアル志向のキャラクタが登場しているが、「不気味の谷」は感じない。むしろ、そうした「リアル/非リアル」判断よりも早く、登場する各キャラクタ達の顔面の演技力の高さに目を奪われてしまう。冒頭に出てくる教祖のような老人キャラクタは、何をしゃべっているのかがわからなくても、その熱弁振りから鬼気迫るものが伝わってくる。

【少女AGNI】
人間味溢れる表情を見せる本編主人公の少女AGNI

 また、フードを剥いで顔出し状態となってからの主人公AGNIも、教祖に負けじと言わんばかりの激しい表情を見せてくれる。AGNIは、これまでのスクウェア・エニックス系(もっといえばFF系)を彷彿とさせる、非常に整った顔立ちの美少女顔なのだが、魔法を絞り出すように無理に発動している表情や、魔法治療で痛みに苦しむ表情からは、生身の人間くささを伝えてくるため、見るものに「リアリ/非リアル」の判断の隙を与えない。

野末氏:我々ビジュアルワークス部が、映像製作を行なう際に用いるフェイシャルモーションキャプチャーのデータをテンプレートとして活用しています。リグ(制御用の間接)の方も筋肉ベースのやり方で与えていますし、その数は相当多く、現行機のゲームグラフィックスで用いるレベルは超えています。

 具体的な数でいうと、教祖の顔面に仕込まれているリグ数は300個以上、AGNIの方も300個以上となっている。これは、ほぼ映画向けCGのクオリティである。ただ、顔面の筋肉がいくら人間の動きをそのまま再現したとしても、それだけでは「不気味の谷」に落ち込むだけだ。

 「AGNI'S PHILOSOPHY」が、「不気味の谷」を超えているのは、人間くさい顔面の演技に加え、前段で述べたような必要十分な皮膚表現のリアリティが伴っているためだろう。

【鬼気迫る演技力を見せるキャラクター達】




■ 「AGNI'S PHILOSOPHY」における人物キャラクタ表現(5)~"眼力"を作り出す眼球シェーダー

 「AGNI'S PHILOSOPHY」に対し「顔の演技は、実際の人間の動きから取っているのでリアルなのは当たり前だ」という指摘があるかもしれない。「これまでにも『LAノワール』、『バイオハザード5』などを初めとして、フェイシャルモーションキャプチャー技術を応用したゲームはあった」という指摘もできるだろう。

 それを踏まえた上で見ても「AGNI'S PHILOSOPHY」のキャラクタの演技力には「気迫」というか「精気」を感じる。これは筆者の勝手な推論になるが、「AGNI'S PHILOSOPHY」に登場するキャラクタ達が、「不気味の谷」を超えられたのは、「眼力」(めぢから)にも大きな要因があると考えている。

岩田氏:人間は人間を見るとき、やっぱり眼を見るんですよ。これまでのゲームグラフィックスは、眼球の再現にそれほど力を注ぎ込めていなかったんです。「AGNI'S PHILOSOPHY」では、リアルタイムグラフィックスという括りにおいては、「生きた目」を再現するために相当な面倒なことまでをやっていますよ(笑)。

 人間の眼は完全な球体ではなく、角膜は盛り上がっているし、虹彩はその内側にある。黒目は瞳孔の中の暗闇の部分なので、実は眼球の内部側に存在する。そのため、正面から眼球を見た時にはわからないが、相手の眼球を斜めから見たときには、自分の視線は、相手の眼球の盛り上がった角膜で屈折することになり、結果的にはずれて歪んだ虹彩や瞳孔(黒目)を見ることになる。

 さらに、そのシーンに輝く光源があるときには、眼球の虹彩や瞳孔(黒目)付近にハイライトが出るが、このハイライトの出方も実は人間の眼球特有の出方をしている。

【眼力(めぢから)をもたらす眼球シェーダー】
生きた目の表現は特別にあしらえた眼球シェーダの効果によるものだ

 まず、眼球の表面は涙で濡れているので、光源からの光は角膜入射時に鏡面反射を起こす。この時の反射光が一次ハイライトだ。この涙による鏡面反射を免れた光は盛り上がっている角膜内に入射するが、この時、前述の視線と同様に屈折する。角膜で屈折して入射した光は前房体(房水と呼ばれる液体で満たされている空間)を通過して水晶体に到達する。ここで入射光は反射し、今度は逆の経路を辿って盛り上がった角膜から屈折しながら出射する。これが二次ハイライトだ。

野末氏:ビジュアルワークス部で製作するプリレンダー映像は、そうした眼球の見え方をレイトレーシングで正確に再現しています。リアルタイムで、これをそのまま実践することは現段階では難しいです。

岩田氏:なので、「AGNI'S PHILOSOPHY」では、そうした現象を疑似的に再現する、いわば眼球シェーダーを組み入れているんです。

 その疑似手法「眼球シェーダー」のメカニズム自体はそれほど複雑ではない。眼球上のピクセルをレンダリングする際に、視線ベクトルを屈折させてから(実質的にはオフセットさせてから)虹彩や瞳孔(黒目)のテクスチャをサンプルすることで実現される。効果としては虹彩や瞳孔(黒目)が引っ込んでずれて見える。光源からの光を受けて眼球上に出現する一次ハイライトと二次ハイライトも同様の考え方で実現される。なお、盛り上がった角膜は法線マップによって再現されている。

岩田氏:眼球上に出るハイライトはそのシーンに配置されている光源を見て描画されます。全ての光源からのハイライトを出すこともできますし、意図的に出さないこともできます。エンジン上は、環境マップで眼球に周囲の情景を映り込ませることもできます。それと人間の白目(強膜)は皮膚と同じで表面下散乱するので、肌で行なっている疑似表面下散乱の影響を受けるようにしています。

 こうした情報を踏まえて、映像を見直してみると、「AGNI'S PHILOSOPHY」に登場するキャラクタ達の眼球がただの不透明な球面ではなく、表面に僅かに厚みのある透明の層があるように見える。しかし、実体としてのジオメトリ形状は、ただの表皮部の一層でしかモデリングされていない球面にすぎない。眼球上に見える「深さ」はこの眼球シェーダーによって再現されている「効果」なのだ。




■ 光学的ポストエフェクトは「YEBIS」を採用

 「AGNI'S PHILOSOPHY」の最後のクレジット画面に「YEBIS」のロゴがあったことに気がついた人はいただろうか。YEBISは今年2月に本連載で取り扱ったシリコンスタジオのポストエフェクト・ミドルウェアだ。

【ポストエフェクトの一部にYEBIS2を採用】
美しいポストエフェクトの一部はシリコンスタジオのポストエフェクトミドルウェア「YEBIS2」による
YEBISのDOFに関する設定が確認できる(画面左上付近)

 「AGNI'S PHILOSOPHY」では、リアルHDR(High Dynamic Range)レンダリングベースの露出シミュレーション、被写界深度表現、色温度調整、色調変化といったポストエフェクトの一部をYEBISによって実現している。

橋本氏:Luminous Studioの研究開発の過程でも同種のポストエフェクトの蓄積はありましたし、自前で作ってもよかったのですが、首尾一貫した光学シミュレーションの結果としてポストエフェクトが実現されるYEBISは既に高いレベルで調整しやすい状態にあったので、「AGNI'S PHILOSOPHY」の製作時間を短縮できるだろうという判断で「AGNI'S PHILOSOHPY」向けの採用を決めました。組み込みも非常に簡単でした。

野末氏:ビジュアルワークス部の我々から見てもYEBISのクオリティには納得のいくレベルでしたね。

 「せっかくのLuminous Studioの技術デモなのだから全部自前でできればよかったのに」という声も聞こえてきそうだが、ただ、昨年の本連載「Luminous Studio」編でも、橋本氏は「Luminous Studioは、外部モジュールや外部ミドルウェアを組み込む形で機能を追加したり、特定機能を任せるといったことが可能なコンセプトとしている」という主旨のことを述べていたので、ある意味、YEBISの採用は、そうした外部ミドルウェアの組み込みの実験的な側面もあったのかも知れない。




■ おわりに

 「AGNI'S PHILOSOPHY」は、他にも技術的に見るポイントがあるが、今回は、最もセンセーショナルな部分であり、誰にでもわかる次世代感となっていたリアルタイムキャラクタ表現にスポットをあててみたのだがいかがだっただろうか。

 現状のハイスペックPCハードウェアがあればリアルタイムレンダリングでここまでできると言うこと。「次世代機のゲームグラフィックスはここまで行けるかも知れない」という「夢と希望」を具体的な形で見せてくれたこと。なにより、これを日本のゲームスタジオが見せてくれたことを嬉しく思う。かつて技術ビハインドを感じざるをえなかったXbox 360、PS3登場前夜とは明らかに違う状況にあることを実感する。

 1つ、あえて水を差すようなことを言わせてもらうと、今回の技術デモは、全ての演算リソースをグラフィックス表現に割り当てた成果物だということだ。シーン展開制御、入力制御、敵AI制御、ゲーム物理といった各種ゲームロジックは今回の「AGNI'S PHILOSOPHY」には組み込まれていないため、実際の次世代ゲーム機のゲームグラフィックスは、もしかすると今回の「AGNI'S PHILOSOPHY」のクオリティからやや後退したものになる可能性も否定はできない。とはいえ、それでも、きっと「不気味の谷」は超えてくれるはずだ。

 最後に橋本氏からユーザーにむけてのメッセージを伺った。

橋本氏:今回の「AGNI'S PHILOSOPHY」は、我々が手がける新世代ゲームエンジン「Luminous Studio」のショーケースです。私もスタッフ達も気合いが入りすぎてしまった感は否めませんが(笑)、3分半の映像作品としてちゃんと観て頂けるものにできたことには満足しています。本作を通じて、スクウェア・エニックスとして、近い未来にこういう水準のゲーム体験を届けたいというメッセージは込めたつもりです。これからもLuminous Studioの展開にご期待下さい。


【スクリーンショット】
次世代機の存在しない現在、AGNI'S PHILOSOPHYは現状の比較的スペックの高いPCで動作している。「今世代への縛り」から解放されれば、リアルタイムレンダリングによってここまでの表現ができるのだ

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(2012年 6月 13日)

[Reported by トライゼット西川善司]