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「東京ゲームショウ2016」CESA20周年記念公演。ゲーム業界の歩みと今後を話す
カプコンの辻本憲三氏やコーエーテクモの襟川恵子氏らが登壇
2016年9月17日 13:12
9月15日、東京ゲームショウ2016の会場にてCESA設立20周年を記念する講演「未来へ引き継ぐCESA設立の思い~CESA 20年の歩みと将来~」が開催された。同講演ではゲーム産業を年表とともに振り返りながら、今後のCESAのあり方についても話し合われた。KADOKAWA取締役浜村弘一氏、カプコンCOO辻本春弘氏、セガホールディングスCOO岡村秀樹氏、カプコンCEO辻本憲三氏、コーエーテクモホールディングス代表取締役会長の襟川恵子氏、SMBC日興証券シニアアナリスト前田栄二氏が登壇。
ゲーム年表は1993年から始まった。ファミリーコンピュータの発売から10年経ったこの年に「スターフォックス」や「トルネコの大冒険」が発売され、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE、当時)が設立された。1994年はプレイステーションとセガサターンが発売され、「次世代機戦争」と呼ばれるゲーム機の開発競争が始まったのはこの年からだという。この年に発売されたのは「ときめきメモリアル」や「バーチャファイター」、「モータルコンバット」、「ストリートファイターII」といった有名タイトルが並ぶ。
ここでカプコンの株価を表すスライドが表示され、前田氏がこの時代を「良い時代」と話した。1985年に制定された風営法によりアミューズメント業界が一時的に衰退するが、セガの体感型ゲームの登場により業務用ゲームが盛り上がり、1985年から発売されたファミコンの力もあり1993年には業務用・家庭用の両ジャンルでゲームが絶頂期を迎えていたという。しかし1994年のプレイステーション、セガサターンの登場によりソフトの形式が変わり、再スタートという形で業績が落ち込んだようだ。
岡村氏は、1992年からセガサターンの開発に関わり奔走していたと話す。アイデア設計はできていたが、メガドライブに代わる新機種を打ち出すためのマーケティングで悩んでいたそうだ。当時アーケードゲームであった「バーチャファイター」の3Dながらに生き生きとしたアクションができたことが3Dポリゴンの可能性を示し、セガサターンの開発意識に関わっていたと語った。
この頃から台頭しはじめた3Dポリゴンを用いたゲームに関して、辻本春弘氏は「出遅れていた」としながら、他社に追従する策として「バイオハザード」が生まれたと話した。前田氏は「当時2Dグラフィックスから進化してきた衝撃と比べれば、いま流行っている『バーチャル』という言葉にはあまり変化を感じない。当時のポリゴンはまさに『バーチャル』だが、そこからハードウェアの進化と共にグラフィックスの性能も上がったが、最近10年の変化はそこまでないように感じられる」と話した。
1995年には「鉄拳」、「テイルズオブ」シリーズが、1996年にはニンテンドウ64と「ポケットモンスター」、「サクラ大戦」が発売され、1995年に設立されたCESAが1996年に社団法人となった。この時期を前田氏は「大きく羽ばたいた時期」とし、その中で開発費の上昇や産業としての注目度が上がるなど、色々な面で成長しながら、また批判の矛先を向けられる対象ともなったと話した。
岡村氏は「従来のゲームメーカーが新しい技術を使って新しいものを提供し、それまでは『玩具の延長線』であったゲーム機にソニーや松下(現パナソニック)といった異業種のメーカーが参入する時代であった」と話し、「技術の進歩がゲームへ即座に反映される萌芽があった時代だと思っている」とした。辻本春弘氏は「開発投資が以前より高まったが、カートリッジからCD-ROMへ規格がシフトしたため原価が非常に安くなり、また再生産が短期でできるようになり、流通改革が起きた」と話した。
ここで辻本憲三氏と襟川恵子氏が登壇し、話題はCESA設立に移る。当時業界の宣伝などが集まった団体「CSG」が存在したものの、業界の総意を表すには至っていなかったとのこと。ここでパソコンゲーム業界、アミューズメント業界が2つに分かれていた状況があったという。この状況について辻本憲三氏は「JAMMA(日本アミューズメントマシン協会)とCSAJ(コンピュータソフトウェア協会)の間でコンシューマゲームが宙ぶらりんになっていた。これに危機感を感じたためCESAの設立の話が持ち上がった」と語る。
CESA設立の翌年に始まったのが東京ゲームショウだ。JAMMA、CSAJそれぞれがショーを開催することはあったものの、コンシューマ向けのショーが無かったためと辻本憲三氏は話す。1996年に開催された最初のゲームショウは80社の参加で10万人の来場者があったが、現在では614社もの企業が参加している。
98年になるとセガからドリームキャストが発売され、岡本氏は「当時ダイヤルアップであった回線で、家庭でネットワークをプレイするのは課題が多く、障壁があった。しかしゲーム機の可能性として、ネットワーク機能を内蔵した機器を作ることがコンセプトにあった」という。辻本春弘氏は「ネットワークを意識したコンセプトが、メーカーにネットワーク機能を意識させるきっかけになった。当社もこの時代から『バイオハザード』や『モンスターハンター』でオンラインゲームを作ろうと考えた」と話していた。
1998年のゲームショウは、襟川氏が大きな改革を行なった年であったという。襟川氏は当時マーケティング委員長で、当時騒がれた「ゲーム脳」について「ゲーム脳が本当なら私は襟川(陽一氏)とゲーム業界から足を洗う」と話したそうで、それを徹底的に解明するため検証し、学術的な面からも「ゲームがいかに役に立つか」を研究していたという。この年に襟川氏はイベント委員会の委員長となり、それからコストの削減や収益の増加に苦心していたと話し、さまざまな企業の協力があったから成功できたと話した。
今後のCESAについて、辻本春弘氏は「CESAは業界団体であるから、いち企業ができないことに取り組まなければならない。いま欠如しているのは人材の育成で、ゲーム業界を学ぶことや、興味を持っている学生を育成していくことをやっていかなければならないのでは」と話し、襟川氏は「国もクールジャパン構想のため日本のエンターテイメント業界を盛り上げるために動いている。経済的な影響力が大きいから諸外国は国を挙げて支援するが、日本ほどプログラミング教育が遅れていたり、美術大学で3Dを教えられない場所があることはない。国と一体となって、よいゲームをどんどん発信していってほしい」と話す。また、辻本憲三氏は「今回何十万人の来場者があるかわからないが、その95%ほどは20年後もゲーム業界に何かの形で関わっているだろう。形のない『価値観』に興味の傾く時代だからこそ、ゲームが新しい物を引っ張っていくと考える。市場は大きくなっていき、それが形を変えていくさまを見てもらうのがこの東京ゲームショウだ」と話した。