GDC 2011レポート
過去の傑作に学ぶゲーム開発「Prince of Persia」&「DOOM」
時代を代表するアクションゲームはいかにして生まれたのか?
今年のGDCでは、「Classic Game Postmortem」と題するシリーズ方式のセッションが設けられ、過去の傑作・名作ゲームを振り返る講演が多数行なわれた。
このような試みが今回のGDCで行なわれた背景には、ソーシャル、モバイルといった新たなゲームプラットフォームが発達してきたことがありそうだ。小規模スタジオや個人が市場にゲームをリリースすることができるようになり、その反面で、過去の作品の海賊版や上っ面だけをマネただけの品質の低い作品も多く目に付く状況となっている。そんな時代だからこそ、過去に成功を収めた作品を改めて学び、そのエッセンスを吸収するということに大きな意味があるはず。
本稿では「Prince of Persia」、「DOOM」という、時代を代表したアクション系ゲームの講演をご紹介しよう。いずれも現在にいたるまでさ愛され続け、各ジャンルの礎として忘れることのできない作品だ。
■ 品質にこだわり抜いた「Prince of Persia」なめらかアニメーションはどうやって作られたのか?
「Prince of Persia」の作者Jordan Mechner氏 |
Apple II |
学生時代の作品「Karateka」がトップセールスを記録 |
ご存知「Prince of Persia」は、そのなめらかなアニメーションとスリリングなゲーム性で一世を風靡したアクションゲームだ。現在ではその後継作である「Prince of Persia: Sand of Time」シリーズや、新「Prince of Persia」で馴染みのある方も多いだろう。
そのオリジナルを開発したのは、現在もゲームデザイナーとして、また映画脚本家として多彩な才能を発揮しているクリエイター、Jordan Mechner氏だ。氏の最新の作品は、2010年に公開された映画「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」である(脚本を担当)。
少し時間をさかのぼり、1984年。Mechner氏はイェール大学にて心理学を専攻する傍ら、初めてのコンピューターApple IIを使い、「Karateka」を完成させている。Broderbundから発売された「Karateka」はその年で最も売れたゲームになり、ロイヤリティ収入で卒業後のちょっとした余裕ができたという。これがMechner氏のその後を決定づける出来事になったようだ。
そのころのMechner氏は「2年後もコンピューターゲームの市場は存在するのだろうか?」と、Apple IIでのゲーム開発の将来性を怪しみ、ハリウッドで映画脚本家にでもなろうかと考えていた時期もあったと語っている。しかし、いくつかのインスピレーションがMechner氏を「Prince of Persia」の開発に駆り立てた。
インスピレーションのひとつとなったのは、1983年のゲーム「Lode Runner」ほか、サイドビューで優れた冒険要素を持つゲームだ。それに、自身が開発した「Karateka」を合わせたらどうなるだろうかと、Mechner氏は考えた。それに加えて、「レイダース 失われたアーク」や、「バグダッドの盗賊」といったエキゾチックな冒険活劇映画からも大きな影響を受けたと語っている。
映画のようになめらかな動きをコンピューターゲームで再現したい、という思いは、やはりMechner氏が映画の脚本家を目指していたことにも一因がありそうだ。Mechner氏は「Prince of Persia」の開発を始める前、ロトスコープというアニメーション作成手法を試すため、初めてのクレジットカードでVHSビデオカメラ(2,500ドル!)を購入。兄弟の動きを撮影、なめらかなアニメーションの作成を実験していたという。
「Prince of Persia」のインスピレーション。脚本家を目指していたということもあって、映画からの影響は特に大きいようだ |
ロトスコープ |
ビデオから撮影した写真を1枚づつクリーンアップしていく |
そういった模索の日々を経て、ついに「Prince of Persia」のアイデアがまとまったのは1986年の9月。ここから3年という長い期間をかけて、ゲームが作られていく。
まずはアニメーション。ビデオカメラで撮影した映像をテレビに写し、それを1フレームづつ写真にとり、Apple IIでピクセルデータに「模写」し、秒間8フレームのアニメーションを作成していく。数カ月をかけてプロトタイプ“Baghdad”が完成。現在のようにデジタル→デジタルで完結するような便利な方法は全くない時代だ。相当、気が遠くなるような作業だったようだ。
アニメーションが上手くいくとわかってからは、ゲームそのもののデザインにも力を入れていった。1987年の4月には、床スイッチのようなギミックや、マップチップを置いていくことでサクサクとステージが作れるレベルエディターまで作成。
その年の8月にはゲームとしての形ができあがりつつあったが、そこから長い試行錯誤でゲームの完成度を高めていった。Mechner氏は「可能なかぎり良いゲームを作ることこそが重要なのです。数カ月早いか遅いかなんて大したことではありません」と語る。
特に、「このゲームはただ生き延びることを目指すばかりで、戦いも勝利もない」と評されたことが、大きなブラッシュアップのきっかけとなったという。まず当初50面もあったステージ数を10面に減らし、ゲームの密度を高めた。そして、本作の特徴のひとつであるフェンシングタイプの戦闘が追加される。お姫様を助け出すというストーリーラインも練りこみ、皆が「絶対ヒットする!」と確信できるクオリティに達した。
アニメーションの作成 | ||
ゲームデザインに非常に長い時間をかけて製作を進めている | ||
意外なことに、戦闘は開発の終盤になって追加されている |
鏡から生まれる「Shadowman」 |
開発開始からおよそ3年、ようやく完成が見えてきた |
この試行錯誤の中で生まれた傑作アイデアのひとつが、プレーヤーがゲーム中で対決することになる「Shadowman」だ。この敵キャラクターは鏡面を介したプレーヤーの分身であり、倒すには特別な方法をとらなければらないミステリアスな存在。実はこれが生まれた理由は「メモリの少なさ」なのである。
つまり、新しいキャラを出そうにもなめらかなアニメーションが祟って容量が足りず、思いついたのが「主人公の絵を論理演算で加工する」という技。これによりほとんどノーコストで、ミステリアスな敵キャラクターが登場するようになったわけだ。ちなみに「Shadowman」との戦いは1日もかからずに実装できたという。技術上の制限が、むしろ画期的なアイデアにつながったという典型的な例だ。
完成度にこだわり抜いて30数カ月、1989年9月に「Prince of Persia」が完成。しかし当時すでにApple IIのゲーム市場は衰退ぶりが激しく、当初の売上は散々だったようだ。翌年5月にリリースしたPC版も、人気のなさから店頭から外されている。売れなかったApple II版の移植だったことが、小売店のお気に召さなかったらしい。
風向きが変わったのは1992年。Mac版のリリース、海外へのライセンシングなどを通じて人気に火がつき、最終的には200万本を売り上げるという結果を残した。品質の高さを信じて、決してあきらめなかったMechner氏。こひとうして歴史的なゲームがひとつ、記録に残ることになったわけだ。
当初は期待したように売れなかった「Prince of Persia」だが、他のプラットフォームへの展開や、海外へのライセンシングといったマーケティング上の努力で成功に至った。これも現代に通じる重要な教訓といえそうだ |
■“ドロップアウト組” Tom Hall氏とJohn Romero氏が語る「DOOM」
Tom Hall氏とJohn Romero氏 |
リリースから18年を経て、初めてのポストモーテム |
大雪の中を銀行へ向かうCarmack氏 |
現在欧米で主流となっているFPSというジャンル。その20年近くにわたる歴史に置いて、最も重要なタイトルはid Softwareによる「DOOM」の他にないだろう。1993年の12月にリリースされた本作は、それまで比較的マイナーなジャンルであったFPSを一気にメジャージャンルに押し上げ、欧米のゲーム産業に計り知れない影響を与えたタイトルとして知られている。
「DOOM」のポストモーテムセッションで講演を行なったのは、Tom Hall氏とJohn Romero氏。両者とも10年以上前にid Softwareを離れており、現在はそれぞれ異なるゲーム会社で活動を続けている。いわば“ドロップアウト組”によるポストモーテムセッションというわけだ。
Romero氏は当時を懐かしみ、さっそく古いエピソードを紹介した。1991年の晩夏、idのチームは避暑のためにウィスコンシン州に移動した。しかしひどい寒さに見舞われて、周囲は大雪だ。
悪天候に身動きがとれない中、メインプログラマーのCarmack氏だけは違った。当時最先端のコンピューターであったNeXT Cubeを注文したかったCarmack氏は、車もないので大雪の中を徒歩で銀行に向かったのだ。そうまでして11,000ドルという大金を握り締め、ようやく手に入れた念願のNeXT Cubeは……晴れて「Wolfestein 3D」の“ヒントマニュアル”に活用されたという。
昔を懐かしみつつ、セッションは終始和やかな雰囲気で進んだ |
「The DOOM Bible」 |
当時のTom Hall氏。なんだかイライラしてそう? |
そして1991年の末に「DOOM」の原型が形を現わし始める。当時Hall氏やRomero氏などidのチームは「ダンジョン&ドラゴンズ」にハマっており、これが「DOOM」の世界観に大きな影響を与えたそうだ。Hall氏は詳細な世界観やストーリー、レベルデザインを詳しく記述した仕様書「The DOOM Bible」を作成。これにはグラフィックスにテクスチャマッピングを使うことや、マルチプレーヤーモードをサポートすることなど、「DOOM」の技術仕様も書かれている。
このHall氏の1カ月にわたる会心の仕様書は、しかしゴミ箱行きとなってしまった。Hall氏の考えるビジョンと、Carmack氏の考えるビジョンに巨大な相違があったためだ。そんなことがありつつも、1992年末に「DOOM」の本格的な開発がスタート。Carmack氏やRomero氏が中心となって、プロトタイプの開発が進められた。
ここでRomero氏は、初期のアルファ版を披露。開発当初の時点で、完成版に近いグラフィックスがすでに実装されている。そういう意味では順調に進んだ「DOOM」の開発だが、他方で「Wolfenstein 3D」のコンソール版の移植が予定通りに進まず、結局チーム全体が数週間そちらにかかりきりになったりと、小さい会社ならではの障害が色々とあったようだ。
またRomero氏は「DOOM」に登場するキャラクターや武器のアートワーク作成についても触れた。モンスターは粘土で作った模型を使い、8方向の写真を撮ってピクセルに落として作成。武器類は、玩具店で買ってきた各種の玩具の写真をいじくり倒して作ったのだそうだ。プラズマガンやBFGなどはその典型である。ちなみにチェーンソウは、当時のHall氏の彼女さんのものを使ったのだとか。このあたりはどこまでジョークかわからない乗りで講演が進んでいった。
アートワーク作成。玩具などお金のかからないものを使って武器のグラフィックスを作成 |
開発開始3カ月目のプリアルファバージョン |
「DOOM」開発中にidを去ったHall氏。その後Apogee Softwareや3D Realmsで多数のFPS開発に携わった |
「DOOM」ロゴ入りシャツを着て和解? |
そして開発開始から数カ月が立った頃、Hall氏のフラストレーションが限界を迎えてしまう。仕様書をほとんど無視され、作品を作る幸せを得られていないと感じていたHall氏は次第に孤立して、ついにid Softwareを離れる決断をしたのだ。これについえは正直なところ色々とわだかまりがあったことを認めたHall氏だが、会場で「DOOM」のロゴがプリントされたインナーを披露し、Romero氏と“和解”してみせた。これには会場から大きな拍手が沸き起こった。
その後「DOOM」は1993年10月には完成間近となり、IPXネットワーク対応のマルチプレーヤーモード、協力プレイモードなど、現在のFPSの礎となるマルチプレイ要素が実装された。そして12月のリリース時には、Romero氏が「DOOM」をアップロードしようとした大学のサーバーに、噂を聞きつけたゲームファンが殺到。ゲーム公開前にサーバーがダウンしてしまったそうだ。リリース後の成功ぶりは、みなさんもご存知の通りである。
「DOOM」を生み出した1990年代初頭のid Softwareには、まさにキラ星のようにたくさんの才能が集まっていた。現在もid Softwareのメインプログラマーを務めるJohn Carmack氏をはじめ、後に「PREY」を生み出すゲームデザイナーのTom Hall氏、「Quake」に「DAIKATANA」とゲーム業界に話題を提供したJohn Romero氏、「American McGee's Alice」を生み出したAmerican McGee氏。
そんな抜群の才能たちが同じ時、同じ場所にいたこと自体が、「DOOM」という歴史的なタイトルが生まれた理由なのだろう。セッション終了後はHall氏、Romero氏を多くのゲーム開発者が取り囲み、写真やサインを求めていた。
MOD向きのデータファイル形式「WAD」、その後のFPSで当分の間必須の技法となるBSP、そしてマルチプレーヤーモード。多くのものが「DOOM」で生まれた |
わずか1年という期間で完成した「DOOM」。惜しみなく投入された技術とアイデアが、現在に至るFPSジャンルの礎になった |
□Game Developers Conference(GDC)のホームページ(英語)
http://www.gdconf.com/
(2011年 3月 6日)