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ファミコンの生みの親とスーパーマリオのデザイナーが登場!

ゲーム史に残る出来事を両巨匠が証言。「第19回文化庁メディア芸術祭」シンポジウム

2月6日 開催

会場:国立新美術館

 文化庁は、東京・六本木の新国立美術館で現在開催中の「第19回文化庁メディア芸術祭」において、「テレビゲームの時代:世界へ羽ばたく日本のゲームとアニメーション」と題したシンポジウムを2月5日に開催。会場には、今年度の本芸術祭において功労賞を受賞した元任天堂の上村雅之氏、同じく小田部羊一氏が招かれ、モデレーターとともに両氏のこれまでの活動実績を振り返りつつ、その功績を来場者に紹介した。

 壇上には上村、小田部両氏に加え、モデレーターとして本芸術祭で審査委員を務めるゲーム作家・立命館大学映像学部教授の飯田和敏氏、アニメーション研究者・東京造形大学教授の小出正志氏、そしてマンガ家で京都精華大学教授のすがやみつる氏も登場。ゲーム、アニメ、マンガの各業界を代表する巨匠5人が一同に会するという、実に豪華なステージとなった。

 なお今回のシンポジウムは、筆者の理解では単なるゲームマニアに向けた業界裏話を語るものではなく、あくまでメディア芸術としてのゲーム、アニメをテーマにした記念講演である。とはいえ、レジェンド5人衆が約2時間にわたって行なった本シンポジウムでは、ゲームとアニメの接点がどのようにして生まれたのかなど、一般のゲームあるいはアニメ、マンガ好きにも楽しめる貴重な証言が数多く語られていた。以下、その模様をタップリとお伝えしていこう。

文化庁メディア芸術祭功労賞を受賞した上村雅之氏(左)と小田部羊一氏
左から順に、モデレーター役のすがやみつる氏、小出正志氏、飯田和敏氏

歴史と研究の積み重ねによって明らかにされた「ファミコンが売れた理由」

大学の講義さながらの講演風景。ファミコン時代からのゲーム好きなら、写真だけでも上村氏の偉大な功績がわかるハズ

 上村氏は現在、立命館大学のゲーム研究センター長を務めている。また映像学部客員教授として学生を指導する立場ということもあってか、スライドを使用して自身がハード開発を担当した懐かしの任天堂製ゲーム機の歴史や解説などを行なった。

 同氏は任天堂時代に、1977年に発売された家庭用ゲーム機の「カラーテレビゲーム6」を初めて手掛けて以来、1983年発売の「ファミリーコンピュータ」、1990年に登場した「スーパーファミコン」など錚々たるハード開発を担当した。そんな同氏が衝撃を受けたのは、「カラーテレビ6」と同じ年にアメリカで誕生した「アタリ2600」なのだという。「今日のゲームと同じようにソフトを交換して遊べるようになっていましたので、これにはカルチャーショックを受けました……」というその言葉には、当時現場で奮闘していた上村氏ゆえの実感がこもっていた。

 上村氏によると、1981年に登場したアーケードゲーム「ドンキーコング」は、いろいろな意味で大きな影響があったとのこと。本作の面白さの核となる、ジャンプを実現するためにはアニメーションの表現を取り入れることが必要となったので、「今までは自分みたいなハード設計者が絵も描いていたのですが、スプライトを使ってキャラクターを動かせるようになったことで本当の絵描きさんの力が必要になるなと思いました」と証言した。つまり、本作のゲームデザインを手掛けた宮本茂氏のように、ビジュアルを専門にできるデザイナーの必要性に気付いた最初のきっかけが本作だったのだ。

 また、翌1982年に発売された携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」シリーズ版の「ドンキーコング」では左手側に十字キー、右手側にボタンを置く操作デバイスを初めて導入したこともポイントだったと指摘した。「このコントローラー操作が、予想以上に微妙な操作ができるようになっていましたので、その操作自体が楽しくなりゲームに奥行きを出すことができたんです。私も『ドンキーコング』が大好きで、当時は毎日遊んでいましたよ」と証言した。

 やがて上村氏は、国内外のいろいろな人と「ドンキーコング」がなぜ売れたのかという議論を重ねていくうちに、「従来のジョイスティックとは違って、フラットかつ指だけですべてコントロールできるようになっていたので、手元をいちいち見なくても遊べたのがよかったのだと最近確認できました」(上村氏)との結論を得たそうだ。この証言もゲーム史上、極めて重要な指摘ではないだろうか。専門デザイナーの必要性とともに、いわゆるUIデザインのノウハウを得たことが、後の「ファミリーコンピュータ」の完成へとつながったのだろう。

モデレーター役の飯田和敏氏。エンターテインメント部門の主査を務めた

 さらに上村氏は、モデレーター役の飯田氏からの「ゲームとはいったいどんな存在なのでしょうか?」という質問の回答に補足する形でゲームサウンドについても言及した。「サウンドがなくてもゲーム自体は遊べますが、サウンドによってキャラクター性以外の面白さを引き出すことができるんです。ゲームというのは、最初は自分自身や数字と格闘していくものですが、やがて実力がわかってくると今度はキャラクター性以外の部分、つまりサウンドやサウンドにまつわるイマジネーションが得られることで、何回プレイしても飽きずに楽しめるようになるのです」との持論を展開した。

 当時の上村氏は、「アーケードゲームの場合は、みんなプレイに集中していて耳に入らなかったり、よほど上手なプレーヤーじゃないと曲をずっと聞くことができないので、ゲームセンターではサウンドというものは基本的には聞いてもらえないと思っていました」と考えていたそうだ。しかしファミコンを開発するにあたっては、「家庭用ゲームの場合は、ゲームセンターと違って静かな部屋の中で遊ぶわけですから、変な音を鳴らすと今度は耳障りになってしまうんです。そこで、家庭でやるのであればそれなりにいい音が出せて、なおかつ繰り返し聞いても飽きないようなものを作れるように設計しなくてはと思いました。設計をどうするかは当時かなり問題になりましたが、リコーさんから埋め込み型の小さな6502CPUを提供していただけたので、余白の部分にそれなりのサウンドチップをギリギリ詰め込めこむことができました」ことも明かした。

 察するに、ファミコンは作曲を直接担当しないハード設計者が、ゲームサウンドあるいはミュージックに対する理解やこだわりがあったことも、実は後のヒットにつながる大きな要因のひとつになったのではないかと思われる。

 飯田氏からは、「いわゆるアタリショックが起きてアメリカのゲーム市場が崩壊し、その後の市場を任天堂が奪う形になりましたが……」という話題も投げ掛けられた。すると上村氏は意外にも、「世間的にはそういうことになっていますが、それはある種の神話ですね」と答えた。

 その理由は上村氏いわく、「1983〜84年までの間は、日本でもファミコン本体はまだ44万台しか売れていませんでした。また、アタリショックの後はMSXのようなパソコンの時代になると国内でも言われたりして、非常に苦戦を強いられていました。そこで、じゃあ海外にも売らなければしようがないだろうということで、1985年にNES(※筆者注:海外製ファミコンのこと)を出すことにしました。ところが、最初は向こうの流通からはまったく相手にされず、これからはAppleなどのパソコンの時代だとも言われましたね……」という事情があったからなのだ。

 しかし、ここに救いの神が現れた。上村氏によると、それは1984年に任天堂が発売したファミコンを使用したアーケードゲーム機「VSシステム」を以前から高く評価していた大手おもちゃチェーン店「トイザらス」の担当者だった。「NESを実際に遊んでみて、『ウチでなら扱ってもいいよ』と言ってくれたので、11月頃にNESを投入することができたんです。『トイザらス』はまさに恩人ですよ(笑)」とのことだった。

 さらに、「やがて任天堂は世界的な企業になるわけですが、実際にはなかなかその資格がもらえていなかったんですね。社内でも、NESがアメリカでもあれだけ売れるとは誰も思っていませんでしたので、ファミリーベーシックを作ってBASICも使えるようになりますよ、などとカッコつけざるを得ませんでした。もちろん、海外でも売れたのは『スーパーマリオブラザーズ』の存在が大きかったですけどね」と、貴重な証言を立て続けに行なった。

 日本国内でも1985年になるとファミコン本体が約400万台売れ、さらに「スーパーマリオブラザーズ」が登場すると「火に油を注いだ状態になった」(上村氏談)ことで、その後に異常なまでのブームとなったことはみなさんもよくご存知のとおりである。上村氏の数々の証言をふまえ、飯田氏は「ここは重要なポイントですよね。どんなにすごいイノベーションが起きたり、あるいは面白いものが発明されても、それがちゃんと流通に乗らなければ広がっていかないないということですね。ファミコンは家電なのか、それとも玩具あるいはコンピューターなのか、流通側がわからないようでは扱ってもらえないということですから」と結んだ。

ヨッシーは実は元々カメレオンだった!? 小田部氏が手掛けた任天堂キャラクター秘話

楽しくも意外な事実を次々と明かした小田部羊一氏

 元々は東映動画でアニメーターとして活躍し、「アルプスの少女ハイジ」や「風の谷のナウシカ」、「火垂るの墓」などの超有名タイトルの制作を手掛ていた小田部氏。アニメ業界で確固たる地位を築いていたにもかかわらず、なぜ小田部氏はゲームメーカーの任天堂に開発アドバイザーとしてわざわざ転職をしたのであろうか?

 その答えは至ってシンプルで、「知人で映画監督の池田宏氏(※)から任天堂に誘われたからです。私自身、ゲームのことは全然知らないし遊んだこともなかったのに、『これからはゲームにもアニメが必要なんだ』と説得されて任天堂に入社することを決めました」とのこと。「初めてゲームの世界に移ったのですが、ゲームはアニメと同じだなと思いました。むしろテレビアニメよりもいろいろな世界があり、動きを求められていることがわかりましたのでとても面白そうに見えましたし、実際に仕事をしていても楽しかったですね」(小田部氏)と語っていた。

※筆者注:池田宏氏は東映動画でアニメーション演出家として活躍し、アニメにCGを導入する研究をいち早く推進した人物。同社在籍中から交流のあった任天堂には1985年に入社して情報開発部長に就任、後に「株式会社マリオ」の社長なども務めた。

 実は当初、アニメ仲間からは「なんでそっちに行くんだ、早くアニメのほうに帰って来いよ!」と、転職を反対する声もあったそうだ。しかし、小田部氏にはアニメ業界に戻るとかゲーム業界に移るという考え方そのものがなく、「どちらにもしてもアニメを動かすことが仕事だと思っていたので、ゲーム業界に普通に入ることができました」と証言したことから、特にアニメ業界に出戻りする気はなかったご様子。続けて、「ゲームのキャラクターの動きは単純ですが、私はそこに生命を感じましたね」(同氏)と語っていたのも、その裏付けとなるだろう。

アニメーション部門の主査を務めた小出正志氏

 小田部氏によると、当時のアニメ業界は「アニメを動かすことが仕事なのに、利益を追求するあまり制作条件がどんどん厳しくなり、コストダウンのためになるべく絵を動かさずに手間を省くようになったことで、私にとっては何も楽しめなくなりました。」という状況だったという。「そんなタイミングでちょうど池田さんからのお誘いがあったので、何のためらいもなく移ることができました」(同氏)と、制作環境の変化とタイミングがゲーム業界に移る決め手になったことも明かした。ゲームとアニメは切っても切れない、極めて密接な関係にある現在ではとても考えらない話だが、それだけに小田部氏の証言はゲーム、アニメ史に残る重要なエピソードではないかと思われる。

 小出氏から、「ゲームの世界では、具体的にどのようなアニメーションの仕事をしていたのですか?」と質問されると、小田部氏は「初めにやった仕事は、『スーパーマリオブラザーズ』のキャラクターを固めることでした。当時すごい上昇気流に乗っていたマリオは、いろいろな業界からビジュアルの需要があったからですね。ゲームを楽しんでいる人が、マリオはどんな人間だと思うのか、自分がマリオになったような気分になれるのか、その映像を具体化するわけです」と答えた。また、「最初は参考になるものがパッケージのイラストだけで、あとは実際のゲーム画面に出てくるカクカクした単純なドット絵しかありませんでした。そこで、宮本茂さんにマリオというのはいったいどんなキャラクターなんだ、どんなことをするんだとイメージを聞き出しながらデザインを起こしていきました。」(同氏)と、昔ならではの事情を語っていた。

 さらにここで、小田部氏から驚きのエピソードが語られた。同氏は当時、「ゲーム内でのキャラクターの動きに対して、私が直接口を出すことは一切ありませんでした。こんなことをゲームにしたら面白いかもしれないな、と思いついたことをたくさん落書きして、よく開発者に渡していましたね」という。さらに続けて、「あるとき、こんな動物が出てきたら面白いなあと思いついて、カメレオンが横を向いて舌を出しながら何かを捕る動きを描いたんです。それが後になって、舌を出して何かを食べるヨッシーの動きに採用されたんです。これは私の勝手な推測なのでちゃんと確かめたわけではないのですが、きっとあのときのアイデアを取り入れてくれたんでしょうね」と語った。その真相はさておき、実に面白いお話だ。

 小田部氏は、「私のほうから、これを絶対に入れてくれと頼んだわけでもないのに、アイデアスケッチをしたものがいつの間にかゲームの中に取り入れてられていることがありました。ゲームの世界の人は、小さなヒントから面白いものを生み出すのがすごくうまくて柔軟性があるなと思いましたね。みんなが遊び心をたくさん持っていることが、私も任天堂に入ってよくわかりました」とも証言しており、同氏が当時のゲーム業界で楽しく働けていたことが十分過ぎるほどに伝わってきた。

 ちなみにヨッシーの名前の由来は、「社内にいた吉村さんという女性のニックネームと、ネス湖にいると言われていた恐竜のネッシーから取りました。」(同氏談)だそうで、「ですから、最初は恐竜だと思ってずっと絵を描いていたのですが、後になって本当はクッパなどと同じカメ一族のキャラクターだったと聞かされました。それで、だんだん時間が経つにつれてヨッシーのデザインがカメ的なものに近付いていったんですよ。みなさんお気付きでしたか?」(同)というのだから、小田部氏自身も含め遊び心が満載で実に微笑ましい。

モデレーター陣からも物凄いエピソードが飛び出した!

モデレーター役のひとり、すがやみつる氏はマンガ部門の主査を務めた

 マンガ「ゲームセンターあらし」の作者として、あまりにも有名なすがやみつる氏。自身もアマチュア無線の趣味を通じてマイコンにやがて興味を持ち、BASICでのプログラミングもできるようになったことで、かの名著「こんにちはマイコン」の企画および執筆をしたことでも広く知られている。

 すがや氏によると、「『ゲームセンターあらし』の第1回目は1978年です。最初は読み切りで『ブロック崩し』をテーマに描いたらまったく人気が出ませんでしたが、翌年にも同じく読み切りで『スペースインベーダー』をテーマに描いたら急に人気が出始めて、それから連載や単行本が出せるようになりました。単行本は発売初日に売り切れたり、1年足らずで100万部が売れたりもして、さらに1982年にはアニメ放送もされました」というのだから、その人気ぶりにはあらためて驚かされた。

 また、すがや氏はパソコンを題材にした「マイコン電児ラン」という作品も描いている。実は本作を手掛けるひとつのきっかになったのはファミコンの存在だったとのこと。「『ゲームセンターあらし』の連載を辞めたのは1983年、つまりファミコンの発売と同じ年なんです。『コロコロ』の編集部からは、今度はファミコンを使って連載を展開してはどうかというご提案もいただいてはいたのですが、『ファミリーコンピュータ』と言いながらコンピューターとして使えない、そんな物は偽りだから作中では扱いたくない、自分はコンピューターを扱うマンガをやりたいと答えました。それで『マイコン電児ラン』の連載を始めたのですが、これが見事にハズレてしまいました(笑)」との驚きのエピソードを披露した。

 「ゲームセンターあらし」の人気が衰える前に、すがや氏自らが「コロコロコミック」での連載終了を決断するに至った経緯もまた驚きだった。同氏は、「連載を辞めようと思った最初のきっかけは『ドンキーコング』が登場したことです。先程、上村さんなどからもお話がありましたように、私も『ドンキーコング』はキャラクター性を持っているゲームだなと思いました。『スペースインベーダー』や『パックマン』の頃はまだ記号みたいなデザインだったのですが、『ドンキーコング』や『ゼビウス』が出てきた時代からはキャラクターがいろいろと動くようになり、みんなキャラクター性を持つようになったんです。それを別のマンガ作品の中で、わざわざいじるのはゲームを作ったみなさんにかなり失礼な行為だと思いましたので、もう辞める潮時だろうなと判断したんです」と、衝撃の事実を明らかにした。

 さらにすがや氏は、「ゲームセンターあらし」が終了した後の時代は、同氏によるとゲームがキャラクター性とストーリー性を持ったことによって、ほかのゲームマンガの作風が変わったとも指摘した。「『ファミコンロッキー』あたりまでのゲームマンガは、ゲームを遊ぶプレーヤーが主人公になっていました。ですが、それ以降はマリオやロックマンなどのようにゲームのキャラクターが主人公となるコミカライズばかりが出るようになりました。ファミコンがそのきっかけを作り、スーパーファミコンの時代にはもう完全に逆転しましたよね」などと解説していた。

 マンガあるいはメディアをとおしてゲーム人気をバックアップしていたのに、ゲームの進化によってその役割を終えるという決断に迫られた事実があったということは、ゲームおよびマンガ史上における大きなトピックであることは間違いない。ゲーム、アニメ、そしてマンガの歴史は、実は我々の見えないところで密接につながっていたことを裏付ける証言の数々は、すべての来場者にとって大いに勉強になったことだろう。

 なお、本芸術祭は2月14日までの開催となっており、場内には上村、小田部両氏を称える貴重な展示物やインタビュー動画を視聴できるコーナーも設けてあるので、ゲーム好きを自称される方はぜひ足を運ばれることをおすすめする。

 また、上村氏と小田部氏に功労賞を贈ることを決めた飯田、小出両審査員による贈賞理由コメントは公式サイト、および会場内でも現在公開されている。いずれも非常に素晴らしい文章なので、以下に引用する形で本シンポジウムレポ―トのまとめとさせていただく。

【上村雅之氏 贈賞理由(飯田和敏氏)】

上村雅之はビデオゲーム勃興期に「ファミリーコンピュータ」を開発し、一過性のブームとして過ぎ去る可能性もあったこのジャンルを産業として、そして文化として確立した。また、上村は2011年より立命館大学ゲーム研究センターにおいてセンター長を務め、研究者の立場から人類文明史を「遊戯」という観点によって再構築するプロジェクトに取り組んでいる。その視野は有史以前の古代文明から近代社会、現代、そしてシンギュラリティ(技術的特異点)以降といった壮大なスケール感をもつものだ。この度のメディア芸術祭功労賞の贈呈によって、こうしたヴィジョンの共有が期待できる。(公式サイトから引用)

上村雅之氏「ハードウェアのことを評価していただけたのは本当に嬉しいです。今回の賞は私1人だけでなく、いっしょに仕事をした仲間やお客様も含めたみなさんの代理でいただいたと思っています。今も現場で働いている人たちにとっても、すごく励みになりますね」

上村氏の展示コーナー。開発を手掛けた歴代の家庭用ゲーム機がズラリと並び、同氏のインタビュー動画を視聴することもできる

【小田部羊一氏 贈賞理由(小出正志氏)】

贈賞が遅すぎたと誰もが思うひとりであろう。日本のアニメーション界のレジェンドのひとりである。旧東映動画時代、原動画や作画監督として「空飛ぶゆうれい船」(1969)ほか数多の作品に関わり、その表現の巧みさや斬新さは現在でもまったく色あせない。世界中で親しまれている「アルプスの少女ハイジ」の「ハイジ」などテレビや劇場作品におけるキャラクター・デザインの数々は、氏によってまさに魂が込められ永遠の生命を保ち続けている。現場や教育機関を通じて後進の育成にも努め、ゲームの世界にも新風を吹き込んだ。広くわが国のアニメーション文化への貢献と功績は多大である。(公式サイトから引用)

小田部羊一氏「とてもありがたいです。アニメとゲームのどちらの世界でも本当にいい作品に恵まれて、そこでずっと楽しんできた結果、いつの間にか賞をいただけることになったというのが正直な気持ちです。突然のことだったので本当にびっくりしました」

小田部氏のコーナーではインタビュー映像とともに、アニメ「アルプスの少女ハイジ」と「スーパーマリオブラザーズ」のマリオの貴重な原画を展示中。ファン必見!

(鴫原盛之)